Music: Magical mystery Tour

但馬出石の街・再訪問

出石資料館
2006.5.5(日)



	<出石町>

	出石は天日槍(あめのひぼこ)の物語や伊豆志袁登売(いずしおとめ)の伝説で知られ、また茶臼山古墳を始めとする多くの
	古墳が残る歴史の地である。また歴史的な人物も豊富で、沢庵漬けで知られる沢庵和尚ゆかりの寺「宗鏡寺」も徒歩圏内にあ
	るし、桂小五郎が潜居したとされる民家跡も歴史を感じさせる。白い土塀と長屋門を持つ「出石町家老屋敷」では武士の住ま
	いを復元しており、当時の生活ぶりや大名行列の諸道具を見ることもできる。
	但馬開発の祖神ともいわれる新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)が、垂仁天皇3年に渡来してこの地を拓いたと伝えられ、町
	名も、天日槍の宝物である「出石小刀」に起因しているといわれる。また、古くは但馬の国衙(こくが)が置かれていたとも
	伝えられ、袴狭地区にある「砂入遺跡」からこのことを裏付けるように「人形(ひとがた)」「斎串(ゆぐし)」といった祓
	いの道具が大量に出土している。

 

 


	出石(いずし)は但馬の国で唯一の城下町である。かっては訪れる人とてない山間の田舎町だったようだが、地元の努力もあ
	って、最近では「但馬の小京都」と呼ばれ、仙石氏が信州上田から持ってきたといわれる「出石そば」の人気とあいまって、
	結構な観光客がこの町を訪れている。「出石史料館」は、出石に潜伏していた桂小五郎がしばしば囲碁を打っていたという昌
	念寺の門前にある。旧福富家という町屋を出石町が譲り受け、現在は藩政時代の資料展示および建屋内の内部を見学できる施
	設として活用されている。

 

 



 


	斎藤隆夫(さいとう・たかお)(1870〜1949)
	
	明治3年(1870)8月18日、兵庫県豊岡市出石町中村に生まれる。大正から昭和初期にかけて政界で活躍。「憲政の神様」
	と呼ばれた。弁護士。衆議院議員当選13回・民主党最高顧問・国務大臣。
	斎藤八郎右衛門の次男として生まれる。兄1人、姉4人の末っ子。明治22年(1889)19才で、わずかな旅費を懐に東京に
	向けて徒歩で出発し、汽車や船を使わず東京まで歩き通した。同郷の内務省地理局長の家に書生として住み込み、早稲田専門
	学校(早稲田大学)入学。明治27年(1894)首席で卒業。卒業した翌年の明治28年(1895)、弁護士試験を受け合格。
	明治31年(1898)神田小川町に弁護士を開業。明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール
	大学法律大学院で公法、政治学を勉強した。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、
	勉学を断念し帰国した。
	帰国後は鎌倉で静養し、合計7回の手術を受け完治。健康が回復した明治38年(1905)弁護士を再開し、明治43年(1910)
	結婚。明治45年(1912)、第11回総選挙に初挑戦で当選を果たした。当選順位は定員11人中最下位だったが、政界への
	スタートを切った。
	以後、立憲国民党、立憲同志会、憲政会、立憲民政党に属し、議員活動を続ける。大正15年(1926)、彼は憲政会総務とな
	り活躍する。昭和12年(1937)7月、支那事変がおこり、国家総動員法が公布、国を挙げての戦時体制の中、昭和15年
	(1940)2月、斎藤隆夫は「支那事変を中心とした質問演説」の中で「聖戦などといってもそれは空虚な偽善である」と決め
	つけた。この演説は「聖戦を冒涜するものだ」と陸軍の反感をかい、懲罰委員会にかけられるという大事件に発展し、離党。
	除名処分後、昭和17年(1942)総選挙がおこなわれ、斎藤隆夫は最高得点で当選を果たした。昭和20年(1945)終戦をむ
	かえ、マッカーサーの指令で解散した衆議院の選挙が昭和22年(1947)4月におこなわれ、彼は最高得点で当選。入閣。
	国会議員13回、国務大臣2回就任。昭和27年(1952)10月、80歳の生涯をとじた。

	斎藤隆夫の演説には定評があった。彼の国会における名演説は3つあるといわれている。その1つめは大正14年(1925)の
	普通選挙法に対する賛成演説であり、2つめは昭和11年(1936)の粛軍演説であり、3つめは昭和15年(1940)の支那事
	変処理に関する質問演説である。彼は原稿を演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら完全に暗記してから演説したという。
	支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を
	問いただした。委員会は彼の勝利に終わり、その時、アメリカは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と
	呼んだ。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のこと。映画「クレオパ
	トラ」ではリチャード・バートンがその役を演じていた。
	斉藤隆夫は1942年5月、対米開戦後に行われた総選挙、いわゆる翼賛選挙において無所属ながら当選を果たした。戦後、
	日本進歩党を結成、さらに民主党、民主自由党に属す。この間2度入閣。終戦直後に斉藤は新政党の創設に向けて動く中、
	以下のような檄を飛ばした。
	
	「我々は戦争に敗けた。敗けたに相違ない。しかし戦争に敗けて、領土を失い軍備を撤廃し賠償を課せられ其の他幾多の制裁
	を加えらるるとも、是が為に国家は滅ぶものではない。人間の生命は短いが、国家の生命は長い。其の長い間には叩くことも
	あれば叩かることもある。盛んなこともあれば衰えることもある。衰えたからとて直ちに失望落胆すべきものではない。若し
	万一、此の敗戦に拠って国民が失望落胆して気力を喪失したる時には、其の時こそ国家の滅ぶる時である。それ故に日本国民
	は、茲に留意し新たに勇気を取り直して、旧日本に別れを告ぐると同時に、新日本の建設に向って邁進せねばならぬ。是が日
	本国民に課せられたる大使命であると共に、如何にして此の使命を果たし得るかが今後に残された大問題である。」

 












	<出石城の歴史・概略>

	山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、出石神社の北側の此隅山に、此隅山城(このすみやまじょう)を築いた。
	此隅山城は長らく山名氏の本拠であったが、1569年(永禄12)の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城した。一旦山名祐豊
	は城を失ったが、今井宗久の仲介によって領地に復帰した。1574年(天正2)、標高321mの有子山山頂に有子山城(ありこやま
	じょう)を築き、本拠を移した。しかし、毛利氏方についたため、1580年(天正8)、羽柴秀吉による第二次但馬征伐で有子
	山城も落城、但馬国山名氏は滅亡した。





 


	有子山城は、しばらく城代の時代が続いたが、1585年(天正13)から前野長康、1595年(文禄4)から小出吉政が城主を務め
	た。関ヶ原の戦いにおいて、小出氏は家名存続のため、吉政が西軍、弟・秀家は東軍に分かれて戦ったが、秀家の功績により、
	吉政の西軍への加担の責任は問われず、出石の領土は安堵された。1604年(慶長9)、吉英により有子山城が廃され、有子山
	山麓に出石城が築城された。平地に堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれた。このと
	き城下町も整備され、出石の町並みが形成された。なお、一国一城令により出石城が但馬国唯一の城郭となっている。



 

 


	江戸時代は、出石藩の藩庁となり、小出英及が1696年(元禄9)3歳で死去すると小出氏は無嗣改易となった。代わって松平
	(藤井)忠周が入城。1706年(宝永3)忠周が転封となると、仙石政明が入城し、廃藩置県まで仙石氏の居城となった。江戸
	末期には仙石騒動がおこっている。明治時代になり、廃城令で出石城も取り壊されたが、辰鼓櫓、堀、石垣などが現存、また
	隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、現在出石は観光地となっている。

	<以上、青字の出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>





 







 




	<仙石騒動>

	出石藩のお家騒動は、藩主が仙石氏、騒動の当人たちも藩主仙石家から分家した2家の家老職の仙石氏だったため、出石騒動
	ではなく仙石騒動と呼ばれる。幕末期のこの騒動は、2人の家老による藩政をめぐる勢力争いだった。いわば行政側の仙石左
	京と財政担当の仙石造酒が、藩財政の運営を巡って激しく対立し、藩を二分してしまう騒動となった。藩主仙石政美の急死に
	よる後継者問題も絡んでの政争劇は、左京が主導権を握ったことで一応の決着を見たが、造酒派の画策によって仙石家の内紛
	は幕府の知るところとなり、当時、お家騒動は天下の御法度だったため幕府の裁きを受け、左京は処刑、藩は5万8千石の知
	行を3万石に減らされてしまった。これはTVや映画の時代劇そのままのようなお家騒動だ。







 

上左、木戸孝允(桂小五郎)と芸者幾松(後夫人)。二人とも出石に来た。

 

 

 



明治館(旧出石郡役所)


 

 


	<出石明治館>
	出石明治館の建物は明治二十年(1887)頃に建設されたもので、かつて出石郡役場の建物として使用されていた木造洋風
	建築を移設したものである。ちょうど「歴史を彩った出石の人物展」が行われていて、出石の産んだ偉人達の紹介があった。
	出石が産んだ偉大な政治家で熱血漢の、私も好きな斉藤隆夫、全国的にはマイナーな幕末の勤王の志士、多田弥太郎らが紹介
	されていた。








	昭和15年(1940)2月2日、斉藤隆夫は衆議院本会議で戦争政策批判の演説をしたが、そのとき議事録から削除された
	斎藤演説部分
	
	「国家競争ハ道理ノ競争デハナイ、正邪曲直ノ競争デモナイ、徹頭徹尾カノ競争デアル(中略)弱肉強食ノ修羅道二向ツチ猛進
	ヲスコレル、是ガ印チ人類ノ歴史デアリ、奪フコトノ出来ナイ現実デアルノデアリマス、此ノ現実ヲ無視シテ、唯徒(ただい
	たずら)二聖戦ノ美名二隠レテ、国民的犠牲ヲ閑却シ、曰ク国際正義、曰ク道義外交、曰ク共存共栄、曰ク世界ノ平和、斯ノ
	如キ雲ヲ掴ムヤウナ文字ヲ列へ立テテ、サウシテ千載一遇ノ機会ヲ逸シ、国家百年ノ大計ヲ誤ルヤウナコトガアリマシタナラ
	バ現在ノ政治家ハ死シテモ其ノ罪ヲ減ボスコトハ出来ナイ(中略)事変以来今日二至ルマデ吾々ハ言ハネバナラヌコト、論ゼネ
	バナラヌコトハ沢山アルノデアリマスルガ、是ハ言ハナイ、是ハ論シナイノデアレマス、吾々ハ今日二及シデ一切ノ過去ヲ語
	ラナイ、又過去ヲ語ル余裕モナイノデアリマス、一切ノ過去ヲ葬リ去ツチ、成ベク速二、成ベク有利有効二事変ヲ処理シ解決
	シタイ、是ガ全国民ノ偽リナキ希望デアルト同時二、政府トシテ執ラネバナラヌ所ノ重大ナル責任デアル(中略)然ルニ歴代ノ
	政府ハ何ヲ為シタカ、事変以来歴代ノ政府ハ何ヲ為シタカ二年有半ノ間二於テ三タビ内閣ガ辞職ヲスル、政局ノ安定スラ得ラ
	レナイ、期ウ云フコトデドウシテ比ノ国難二当ルコトガ出来ルノデアルカ、畢竟スルニ政府ノ首脳部二責任観念ガ欠ケテ居ル
	(中略)
	国民的支持ヲ欠イチ居ルカラ、何事二付テモ自己ノ所信ヲ断行スル所ノ決心モナケレバ勇気モナイ、姑息愉安(こそくゆあん)
	一日ヲ弥縫(びほう)スル所ノ政治ヲヤル、失敗スルノハ当リ前デアリマス」

 


	<天日槍(アメノヒボコ)>

	古事記によれば、天日槍(あめのひぼこ:天之日矛)は新羅の国の王子として生まれた。ある日、天日槍は一人の若者から、
	新羅国アグ沼のほとりで眠っていた女性が、美しい虹のような光をあびて産み落としたという赤い玉を譲り受ける。家に持ち
	帰り飾っていたところ、その玉は美しい乙女となり、天日槍は、乙女を妻にする。二人は楽しい日々を送るが、やがて乙女に
	対して不満をいうようになり、乙女は嘆き悲しみ「母の国へ行きます」と天日槍のもとを去ってしまう。乙女は日本の難波に
	たどりつき、比売詐曽(ひめこそ)神社のアカルヒメという祭神になる。一方、天日槍も八種の神宝を携えて日本へ渡ろうと
	するが、渡りの神に邪魔をされて、多遅摩(たじま)国(但馬国)に上陸し、出石に住むようになる。
	やがて、但馬の俣尾(またおの娘、前津見(まえつみ)を妻にし、製鉄をはじめ大陸の優れた技術を持って天日槍は但馬に新
	しい文化をつくりあげていく。天日槍は朝鮮半島から日本に渡来した人々が信仰した神様だと考えられる。出石神社由来記に
	は天日槍が、その当時入江湖であった但馬地方を瀬戸の岩戸を切り開いて耕地にしたと記されている。
	日本書紀は一書にいわくとして、播磨の国に渡来して、治水に功績があったアメノヒボコの話を載せているが、渡来人達は、
	新たな生活の糧としての水田を新しく開発する必要があり、それがやがて治水とも結びついて、やがて現地で神と崇められた
	可能性もある。現在、但馬の一の宮とされている出石神社(出石町)は、祭神がアメノヒボコである。表現は多少異なるが古
	事記、日本書紀、播磨風土記にも、天日槍とその一族は登場し、伝説と神秘に満ちた古代史を彩っている。
	また一説によれば、天日槍は、そのホコという名前から、太陽光の化身とも、祭具としての桙の擬人化とも言われている。 



 
	<田道間守>(たじまもり) 
	古事記によれば、多遅摩毛理(たじまもり:田道間守)は、天日槍の子孫で三宅連(みやけのむらじ)らの祖先とされる。
	垂仁天皇の命を受けて、はるかな地に、命を長らえることのできる木の実(橘)を求める旅に出た。命がけで橘の実を手に入
	れて帰ってきた時すでに天皇はなく、悲しみ嘆いた田道間守は、天皇の陵(墓)に、橘を捧げたまま息絶えてしまった。忠節
	を尽くした田道間守の墓は、垂仁天皇陵の堀の中に浮かぶ小さな島にひっそりと祀られている。また、田道間守が持ち帰った
	木の実は、わが国のお菓子のはじまりとされ、お菓子の神様として、田道間守の故郷兵庫県豊岡市中嶋神社に祀られている。
	宮中に、「右近の橘、左近の桜」(反対だったかな?)とあるのは、この故事に基づいている。 

 

 
	仙石家。信濃上田より5万8千石で移封してくるが、幕末期の「仙石騒動」で3万石に減封される。外様。柳間詰め。城主格。
 
		<藩主>		<官位・通称>		<続柄>		

	初代	仙石政明(まさあきら) 	従五位下 越前守		仙石政俊の長男仙石忠政の長男
	二代	仙石政房(まさふさ) 	従五位下 信濃守	
	三代	仙石政辰(まさとき) 	従五位下 越前守		一門分家旗本2700石仙石政因(まさもと)の七男 
	四代	仙石久行(ひさゆき) 	従五位下 刑部少輔 	一門分家旗本2000石仙石久近の三男 
	五代 	仙石久道(ひさみち) 	従五位下 越前守 	仙石久行の長男 
	六代 	仙石政美(まさみつ) 	従五位下 越前守 	仙石久道の長男 
	七代 	仙石久利(ひさとし) 	従五位下 越前守 	仙石久道の十二男 


	仙石政辰(せんごくまさとき)
	江戸中期の但馬出石藩主。従五位下越前守。采女政固の六男。幼名は陽之助。尊王の志が厚く、日々紫宸殿の門前で拝み、賀
	茂神社に詣でて中宮の皇子誕生を祈った。また四十数年間藩政を執ったが、その間文教の振興に尽力し、産業の発展、特に陶
	磁器の製造保護に努め、徳行を表彰した。安永8年(1779)歿、57才。贈従三位。

 

 
	鎌倉幕府が成立すると小野時広(おのときひろ)、さらに承久の乱(1221年)後には太田昌明(おおたまさあき)が但馬守護
	になり、鎌倉時代後期まで太田氏が守護職を相続する。室町時代になって但馬を制圧したのは名山名時氏(やまなときうじ)
	である。山名氏は新田氏の傍流にあたり、足利将軍家と同じく源氏の末裔である。
	時氏の子・時義(ときよし)は但馬守護として出石に入府、文中元年・応安5年(1372)頃に此隅山(このすみやま)城を築
	いた。元々は「子盗山(こぬすみやま)」であったのが訛って「此隅山」になったと言われる。標高140mの山頂に主郭を
	配し尾根沿いに多数の曲輪を設置し、麓には屋敷や城下町を形成した。
	以後、山名氏は但馬以下11ヶ国の守護職を独占し「六分の一衆(全国60余国のうち11国を領有)」と呼ばれる程に権勢
	を強めたがこれを危険視した室町3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の討伐を受け、元中8・明徳2年(1391)に山名
	氏清が敗北。この「明徳の乱」で山名氏の領国はわずか3国に減らされてしまった。翌明徳3年(1392年)に時義の子・時熈
	(ときひろ)が但馬守護職を相続。さらに永亨5年(1433年)に時熈の子・持豊(後に出家して宗全)が守護になると山名家
	は勢力を回復するべく積極的に中央政界に介入、管領細川氏と対立し応仁元年(1467)に「応仁・文明の乱」を引き起こす。
	この大乱で日本は戦国時代に突入する。
	下剋上が横行し、従来の権威・身分・社会制度が一切否定される世になった。実力を伴わない各地の守護大名は次々没落、新
	興勢力が台頭してくる。山名氏も例外ではなく弱体化し中国地方の新興勢力であった毛利氏・尼子氏らに従属を繰り返すよう
	になる。そして永禄12年(1569)、羽柴秀吉率いる織田信長軍が此隅山城を攻め落とす。城主山名祐豊(すけとよ)・氏政
	(うじまさ)親子は辛くも脱出し、天正2年(1574)此隅山の南方2kmにある有子山(標高321m)に新たな山城を築い
	て抵抗を図ったが、この有子山城も天正5年(1577)と天正8年(1580)に秀吉の討伐に遭い落城。祐豊・氏政親子は因幡へ
	(現在の鳥取県東部)逃亡し、但馬守護山名氏は滅亡した。



出石城址




 
	<登城橋> 
	出石城は麓の三の丸(外郭)から二の丸、本丸と登る梯郭式の縄張り。天主閣は築かれず、藩主の居館を本丸に建て、二の丸
	と廊下で連結されていた。明治に入り城は取り壊され、現在まで残る遺構は石塁、内堀と、辰の刻(午前八時)に太鼓を打ち
	鳴らして藩士の登城を告げる辰鼓櫓で、本丸跡の東西二つの隅櫓は昭和43年(1968)復元されたものである。 



 
	<出石城>(いずしじょう)

	種別   : 近世平山城 
    築城時期 : 慶長九(1604)年 
    築城者  : 小出吉英 
    主要城主 : 小出氏、松平氏、仙石氏 
    遺構   :  曲輪、石垣、外堀、模擬櫓二基、辰鼓楼 稲荷郭の高石垣

	出石城の前史は元寇の頃(1331−33)に遡り、但馬・山名氏8代の本拠となった此隅城である。「太平記」にも登場する山名
	時氏(ときうじ)が但馬地方を制圧し、足利尊氏に仕えていたその子時義(ときよし)は、幕府より但馬の守護に命ぜられ、
	宮内の此隅山(このすみやま)に本拠を構えた。山名一族は隆盛を極めたが、日本全国の6分の1にあたる11国の守護職を
	務めた山名氏も、祐豊(すけとよ)の時代、応仁の乱(1467−77)後に衰退し、永禄12年(1569)、織田軍の羽柴秀吉に攻
	められて落城し滅亡する。

 

 
	秀吉の弟秀長は城を木下昌利に守らせ、その後城主は青木甚兵衛、前野長康と変わった後、播磨の龍野城主・小出吉政(よし
	まさ)が入封し、元禄9年(1696)の8代英及までつづく。現在の出石城址は、小出氏初代・吉政の子、吉英(よしふさ)が
	慶長9年(1604)に築いた近世の平城である。吉英は山城を廃し、山麓に平山城を築き城下町づくりを行った。
	 一国一城制による但馬唯一の城で、当時は5万8000石を誇る出石藩の本城で、大坂や日本海の他の町との流通も盛んで
	あった。

 

 
	小出氏は9代、約100年間継続したが後縦ぎがなく断絶した。翌元禄10年(1697)に武蔵国岩槻より松平忠徳(ただのり)
	が移封されたが、宝永3年(1706)、松平氏は信州上田の仙石政明(せんごくまさあきら)と国替えとなった。仙石氏は7代
	にわたって出石藩を治めたが、天保6年(1835)の「仙石騒動」により、3万石に減封され明治に至っている。

 

 
	明治4年7月の廃藩置県により、出石藩は出石県となり、同年12月には豊岡県に編入された。明治9年3月26日に起こっ
	た火災は、旧城下町を火の海とし、家屋966、社寺39、土蔵290を焼き尽くしたといわれる。同年8月には豊岡県が兵
	庫県に編入され、さらに、明治22年の町村制の施行により、出石町、室埴(むろはに)村、小坂(おさか)村、神美(かみ
	よし)村が生まれた。昭和32年9月、神美村穴見谷地区を除く1町3村の合併が成立し、新しく出石町が発足したが、平成
	の大合併により、平成17年、温泉で有名な城崎や高岡町とともに豊岡市と合併し、新生豊岡市が誕生した。






	本丸跡の空地には(上の写真では左の方だが、木々に囲まれてこの写真では見えない。)幾つかの石碑が建てられているが、
	そのうちの一つが、但馬出身で生野の変に関わった多田弥太郎、高橋甲太郎、中條右京三名の名を刻んだ石碑である。
	(歴史倶楽部HPの「生野銀山」の中に「生野の変」として紹介しているので、興味在る方は参照されたい。)
	碑には、「贈従四位 多田弥太郎君」「贈正五位 高橋甲太郎君」「贈従四位 中條 右京君」と刻まれている。



 

感応殿は明治時代に仙石氏の旧臣が建立。祀り神は幕末に藩主であった仙石氏の祖、仙石秀久公。



家老屋敷


	<家老屋敷>
	辰鼓楼のすぐそばにある、白壁に囲まれた平屋建てのこの建物は、江戸時代の三大お家騒動の一つ「仙石騒動」の首謀者とい
	われる家老・仙石左京の屋敷跡である。現存する建物は左京と対立した造酒の子、仙石主計が騒動の後に建て替えたもの。
	中には江戸時代の武具や大名行列の道具などが展示されている。内部には不意の襲撃に備えるための隠し二階があり、抗争の
	一端を垣間見る。

 





 

 



桂小五郎居住跡


	<桂小五郎再起の地>
	出石の城下町の真ん中辺り、蕎麦屋の横に「桂小五郎再起の地」と刻んだ立派な石碑が建っている。桂小五郎は、出石の町人、
	広戸甚助と直蔵兄弟の助けを得て、京都を脱出し但馬まで逃れた。出石では、当時荒物屋を営んでいた甚助と直蔵兄弟の家に
	匿われた。但馬の地には、城崎から養父まで桂小五郎が潜伏したと伝えられる遺蹟が散在している。一箇所に留まっていては、
	捕吏に分かってしまうため、居所を転々としたのであろう。
	となりの蕎麦屋は、かって(10年くらい前?)は評判の蕎麦屋で私も並んで食べた覚えがあるが、今回は昔ほどうまいとは
	思わなかった。出石は、私の故郷の城下町「筑前・秋月」同様に、十分歩いて回れるほど小さい町である。情緒ある町並みが
	そのまま残されており、秋月と違って町並みはきれいな碁盤の目状に区画されている。 

 

 



出石神社





	<出石神社>

	鎮座 : 兵庫県出石郡出石町宮内。
	格式 : 国幣中社(現、別表神社)。
	祭神 : 天日槍命(あめのひぼこのみこと)、
		 出石八前大神

	社伝によると垂仁天皇の時、天日槍命が来朝し、当地を開拓したので、その徳を敬慕し、命が奉持していた八種の神宝を八前
	大神として祀った。八種の神宝とは、玉津宝・珠二貫・振浪比礼・印浪比礼・振風比礼・切風化礼・奥津鏡・辺津鏡であり、
	このことは既に『延喜式神名帳』にも八座の神として明記され、名神大社となっている。
	更にこれより先、天平九年(七三七)神戸租調稲およそ一六八〇束を充て、承和一二年(八四五)七月に従五位下となり、貞
	観一六年(八七四)三月には正五位上に叙せられている、但馬国一宮として崇敬されて来た当社であるが、戦国時代に入ると、
	天正年間(一五七三−九二)豊臣氏のために社領を没収された。江戸時代には出石城主歴代の尊崇をうけ、小出、仙石両氏が
	社殿を造営した。本殿三間社流造、檜皮葺、本殿の前面に切妻造の幣殿が連なり、更にその前に舞殿形式の拝殿(入母屋造平
	入)が連なっている。社宝としては、重文指定の脇差一振(南北朝時代、銘但州住国光)がある。例祭一〇月二〇日、その他
	御年花祭(おはなびらまつり)が一月二二、二三日に行われる。 『神社辞典』

 

 








	例によって、神社の創立年代はあきらかではない。上の、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命と多遅麻比那良岐とが相謀って、
	天日槍命を祀ったと伝えており、諸書によれば奈良朝時代すでに山陰地方有数の大社であったことがうかがえる。
	天日槍命は、当時泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を創出し、
	円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として地元の尊崇を集めている。また、一説によれば、鉄文化を大陸から伝え
	た神との考証もある。 
	天日槍命は、『日本書紀』によるともと新羅の王子で、国を弟に譲り垂仁天皇のとき八種の神宝を持って日本に来り、但馬国
	に定着したと伝えられる。北但馬には、当社を中心として天日槍一族郎党にまつわる神社が多く鎮座している。延喜式神名帳
	には但馬国出石郡筆頭に伊豆志坐神社八座とある神名大社である。八種の神宝については、

	『古事記』珠二貫、振浪比礼、切浪比礼、振風比礼、切風比礼、奥津鏡、辺津鏡 
	『日本書紀』垂仁天皇紀 羽太玉一個、足高玉一個、鵜鹿鹿赤石玉一個、出石小刀一口、出石桙一枝、日鏡一面、熊神籬、
	合わせて七種、また一に云うとして、
	葉細珠、足高玉、鵜鹿鹿赤石珠、出石小刀、出石槍、日鏡、熊神籬、胆狭浅太刀 の八種。とされる。

 


	神門入り口に、発掘された平安時代の古い鳥居の一部が置かれている。説明に寄れば、二の鳥居であったと云う。一の鳥居か
	ら社殿までは5km、二の鳥居からでも1km強と、古代には広大な神社であったようだ。神社は西のみが開けて山に囲まれ
	た平地に鎮座、かっては西向きだったと云う。裏手に天日槍の墓とする禁足地がある。




	天日槍は伊都国にもその痕跡をとどめている。『筑前国風土記』怡土郡の条に、怡土県主の祖五十跡手の自己紹介に「高麗の
	国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十跡手是なり。」とある。『播磨国風土記』には伊和大神と天之日矛との争い
	が語られている。結果としては住み分けをしたことになり、天日槍は但馬の伊都志の地に落ち着いたことが語られている。

 


	前述した『古事記』の応神天皇記といい、『日本書紀』垂仁天皇記(三年の条)といい、これだけの諸書に記事があるのは、
	古代この地方に半島からの渡来があって、その人物あるいは一族が、この地方の治世に多大の貢献をした事実があったからだ
	という推測を産む。書記によれば天日槍は各地を転々とし、最終的に但馬国に住処を定めたことになっている。近江にも多く
	天日槍の足跡が残っている。垂仁天皇の命を受けて天日槍に会いに来た長尾市という人物が居るが、現在の出石神社の宮司家
	は長尾で、長尾市の末裔と云う。

 





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