Music: やさしく愛して
大田区立郷土博物館
2006.10.3 東京都大田区南馬込5丁目
<大田区> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大田区のデータ
面積 : 59.46km2
総人口 : 676,094人(推計人口、2006年10月1日)
隣接自治体: 品川区、目黒区、世田谷区、江東区
神奈川県:川崎市(中原区、幸区、川崎区)
区の木 : クスノキ
区の花 : ウメ
区の鳥 : ウグイス
大田区役所: 所在地 〒144-8621 大田区蒲田五丁目13番14号
大田区(おおたく)は東京都の特別区のひとつ。23区の南東部に位置し、東京湾に面している。古くは大森や羽田を中心に漁業
の盛んな地域であったが、大正時代以降町工場が進出し、京浜工業地帯を形成した。東京の空の玄関口である東京国際空港(羽
田空港)がある。また、区西部の台地上は良好な環境の住宅地となっている。
<大田区立郷土博物館> 大田区南馬込五丁目11番13号
この街にはどんな歴史があったのだろうか。そんな、素朴で興味の尽きない疑問に、さまざまな展示でこたえてくれるのが郷土
博物館である。羽田空港、田園調布、文教地区。世田谷と並んで、東京23区のなかではイメージが最高と言ってもいいこの地
域は、昭和22(1947)年3月15日、大森区と蒲田区が合併して誕生した。
大森区の範囲は現在の、千鳥、中央、石川町、鵜の木、山王、上池台、池上、仲池上、北千束、南千束、久が原、南久が原、北
嶺町、東嶺町、西嶺町、南雪谷、東雪谷、雪谷大塚町、田園調布、田園調布本町、田園調布南、北馬込、南馬込、東馬込、西馬
込、中馬込、大森北、大森南、大森東、大森西、大森中、大森本町で、蒲田区の範囲は現在の、下丸子、多摩川、萩中、矢口、
東矢口、羽田、本羽田、羽田旭町、北糀谷、東糀谷、西糀谷、南六郷、東六郷、西六郷、仲六郷、蒲田、南蒲田、東蒲田、西蒲
田、新蒲田、蒲田本町である。この両区域のほかに、埋立地として、羽田空港、ふるさとの浜辺公園、東海、京浜島、城南島、
昭和島、平和島、平和の森公園がある。
大田は、合併した大森区と蒲田区からそれぞれ一文字ずつとった合成地名で、この由来が広く知られていないことから、しばし
ば太田(※こちらの「太田」を使用する市は群馬県太田市と茨城県常陸太田市)と誤記されがちである。江戸城主・太田道灌の
領地だったことに由来して、区名になったという誤伝も見受けられるが、これは字を見ても誤りであることは明らかである。
この博物館では、考古、歴史、民俗資料などの文化遺産を保管、展示しており、大森貝塚をはじめとする考古資料、海苔養殖関
係資料などが展示されていて、大森貝塚を発見したモース博士との緑で、セーラム市(アメリ力・マサチュ−セッツ州)のピー
ボディー博物館とは姉妹提携を結んでいる。
大田区は、関東平野の一部を形作る武蔵野台地の東南端に位置し、東は東京湾、南は多摩川に接している。都内23区でも遺跡の
豊富な地域として知られ、全国に名を馳せた浅草海苔の生産地でもあった。当区においても、関東大震災後の市街地化、戦後の
復興を経て、急激な都市再開発が進み、長い歴史の中で養われてきた多くの貴重な文化遺産も、次第に忘れられ、失われつつあ
る。このような現状を踏まえ、これまで国、都、そして大田区でも、文化財として、様々な文化遺産を保護してきた。しかし、
さらに広い範囲に渡り、当区に関連する文化遺産を積極的に守り、保存し、後世に伝えるため、昭和 54年(1979)11月3日、大
田区立郷土博物館が開館した。当館の活動は、以下のような事である。
1.大田区に関連する人文科学系の資料を中心に調査、収集。
2.資料を整理し、保存。
3.資料の研究。研究の成果は『ガイドブック』『紀要』等の刊行物として出版。
4.研究成果を基礎とした分り易い展示により、様々な資料を「常設展」として公開している。
5.常設展で見ることのできない様々な資料を、テーマを設けて展示し、郷土文化との比較検討の場とする「特別展」「企画展」
を開催している。
6.各種「体験学習会」「見学会」「博物館講座」を開催し、郷土文化・歴史学習の場として活用されている。
7.学校(小学校・中学校・高等学校)の地域学習・総合学習を支援するため、さまざまなカリキュラムを用意し、対応。
8.大田区内の指定文化財・登録文化財を始めとする文化財の保護・保存・活用。これらの調査記録・報告は『大田区の 文化財』
シリーズとして刊行。
9.土木工事等の前に、遺跡の調査を行う。その発掘調査報告は『大田区の埋蔵文化財』シリーズとして刊行。また、発 掘された
出土品は、常設展の「大昔の大田区」で展示・活用されている。
開館時間 : 午前9時から午後5時
休館日 : 毎週月曜日(祝日は開館) 年末年始(12月29日から1月3日)
臨時休館 : 特別展、企画展の前後各1週間程度、館内消毒期間中
(郷土博物館のご案内ページで確認されたし。)
東京都大田区田園調布1丁目にある多摩川台古墳群。多摩川の丘陵地帯に分布するこの古墳群は、我が国でも近畿を除けば屈指の
古墳群である。江戸時代までは、「狐狸の住む板東平野」として蔑視される関東地方だが、この古墳群を見ると、渡来人たちはし
っかりとこの地方にも根を下ろしていたのが窺える。
太刀形塙、円筒埴輪など、どうしてこうまで近畿圏の埴輪に似ているのだろうか。近畿圏のみに限らず、山陰や北陸、その他の
地方でも、古墳出土の埴輪や副葬品は、驚くべき類似性・画一性を持っている。土器のように、地方によって多少異なった形状
や様式を持っていても良さそうなものだと思うが、ひまわり型埴輪などはどこを探しても出てこないし、一様に朝顔型である。
円筒型埴輪やその変形としての垣根型埴輪などは各地にあるが、球形の埴輪などは見たことがない。
これはおそらく、古墳時代という時代が、縄文や弥生のようにじっくりと熟成されるだけの時間を持たない時代だったことを表
しているし、また古墳に関わるあらゆるものを製造していたのが、おそらくは類似の民族だったことをも証明しているのだ。
すなわち、大量の渡来人である。騎馬を伴って半島から来た民族は、機動力としての馬を駆って、瞬く間に日本列島を西から東
へと駆け抜けていったのである。そして、その地方地方で瞬時には支配者層になったが、やがて土着の日本民族の中にとけ込ん
でいった。江上博士の言うように、そのまま支配層に留まることは出来なかった。なぜなら、彼らも食料を自給しなければなら
なかったし、近畿圏に覇を唱えた大和朝廷の萌芽集団にいつまでも立ち向かうだけの軍事力と軍勢は、維持できなかったからだ。
地方地方において、やがて彼らは鎧・甲を捨て、西からやって来る律令国家の勢力に従わざるを得なくなった。日本列島のどの
地方においても、古代朝鮮語、或いは古代中国語でもいいが、それを話していた地方などが皆無な点に、それは証明されている。
渡来してきた古墳時代人たちは、支配者層として日本に根付いたのではなく、縄文・弥生からいた日本民族の中にとけ込んで、
やがて日本語だけを話すようになっていったのである。
博物館には、「馬込文士村」のコーナーがある。大正末期から昭和初期、東京の馬込から山王にかけての一帯(現在:大田区南
馬込、中央、山王)には多くの文士、芸術家たちが住んでいて、互いの家を行き来し交流を深めていた。当時の馬込は武蔵野の
面影を色濃く残し、静かな田園風景が広がっていた。解説文によれば、尾崎紅葉が最初にこのあたりに住み始め、やがて多くの
文士達が集まってきて、いつしかこの辺りを「馬込文士村」と呼ぶようになったた。都市化が進んだ今でも、寺社や住宅地の緑
も多く閑静な街並であることには変わりはない。起伏に富んだ小道は、かつて文士達が歩いた散歩道でもある。いま、文士たち
の住んでいた場所にはモニュメントが置かれ、彼らの足跡を訪ねることができる。
文士村に住んでいた作家、芸術家たちの一覧は、
石坂洋次郎、稲垣足穂、今井達夫、宇野千代、尾崎士郎、片山広子、川瀬巴水、川端茅舎、川端康成、川端龍子、北原白秋、衣
巻省三、倉田百三、小島政二郎、小林古径、榊山潤、佐多稲子、佐藤朝山、佐藤惣之助、子母沢寛、城左門、添田さつき、高見
順、竹村俊郎、萩原朔太郎、日夏耿之介、広津柳浪、広津和郎、藤浦洸、真野紀太郎、牧野信一、真船豊、間宮茂輔、三島由紀
夫、三好達治、室生犀星、室伏高信、村岡花子、山本周五郎、山本有三、吉田甲子太郎、吉屋信子、和辻哲郎などとなっており、
まさにキラ星の如き「文士たち」の顔ぶれだ。
実は私事だが、「大田区」という言葉の響きは、私にはある感慨を思い起こさせる言葉なのである。私が初めて大恋愛を経験し
た相手の彼女が「大田区池上」に住んでいた。今からもう40年近く前になろうとしている18才の頃、私は彼女と恋に落ちた。
私はその頃九州は博多にいて、彼女は生まれたときから大田区に住んでいたのだが、そのあたりのいきさつは長くなるので省略
するが、ともかく私にとっては今思い出しても、その事の為だけにでもあの時代へ戻りたいと思うほどの恋愛だった。勿論初恋
ではないし、それまでにも何人かに恋愛感情を抱いて付き合ったりしたこともある。しかし、彼女との恋愛は、生まれて初めて
知る「恋の喜び」だった。太宰府での甘美な接吻の思い出を残して彼女が東京へ帰った後も、ほぼ1年間に渡って、私は2日に
一度は「東京都大田区池上」に宛てて手紙を書いた。彼女からもそれに併せて返事が来た。その手紙の束は、今でもスーツ箱に
満杯のまま残っている。「東京都大田区池上」、寝ていても指が宛先を書いているほど覚え込んだ住所だ。
高校を卒業して、比較的自由な時間がとれるようになった大学1年の夏、私は1ケ月東京に滞在した。池上本門時、浅草、銀座、
有楽町と、夢のような一月はアッと言う間に過ぎて私は博多での大学生活に戻り、彼女も保険会社のOL生活に戻った。やがて
手紙のやりとりは一週間に一通になり、一月に一通になり、半年に一通になった。そして、私にも彼女にも幾人かの恋人が出来
ては別れてを繰り返すようなっていた。
大学を卒業して、私は横浜で研修を受けた。再会した彼女は、私にとっては相変わらず女神で、二人は瞬く間に燃え上がり、三
ヶ月の研修期間の終わりに、大阪へ帰る東京駅で、私は彼女に求婚した。このまま新幹線に乗って大阪へついてこい、という私
に、彼女はホームの柱にすがりついて泣いた。
結局、この恋が成就することはなく、やがて私も彼女も違う相手と結婚し家庭を持った。それから20数年後、千葉の流山に転
勤した私は、彼女が同じ沿線に住んでいるのを知った。電話番号を探し出し、電話をしてみた。家庭のことや現況を話す内に、
私にはある種の感情が蘇ってくるのがわかったし、彼女もそうだった。しかし彼女も恐れたのだろう、話の最後に彼女は言った。
「でも、来ないでね。」
「東京都大田区」。こう口に出して言ってみるだけでも、私の胸はしめつけられる。過ぎ去った思い出は泪を誘い、もう再び戻
ってくることはないが、二度と戻らないもののために、私はどうやってこれらと別れを告げればいいのだろうか。
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