Music: Yellow Submarine 
北海道旧庁舎 2006.3.19 北海道札幌市



	娘の結婚式で札幌に行った。北海道の大学に行った時から、北海道の男と結婚する羽目にならなきやいいがなぁと思って
	いたが、その予感は的中してしまった。娘も息子も「我々の出身は関西よ。」というが、私もwifeも九州は福岡の産であ
	る。頼によって北海道くんだりへ嫁に行かずともと思うが之ばっかりは仕方がない。それに旦那の実家の札幌に住むわけ
	でもなさそうなので、東京ならそう遠くもないかと諦めた.

 

式の翌日、福岡から来た実家の母達と北海道めぐりをする前に、朝早くホテルの廻りの札幌市内を歩いてみた。



大通り公園はまだ雪が残っていて、日陰には吹きだまりが残っている。ここは雪祭りの会場になるところだ。

 

 


	大通りをまっすぐ行くと「北海道神宮」に行き着く。近ければ歩こうかと思ったが、地図を見ると市内のはずれにあった
	ので諦めてホテルへ戻った。通りには北海道の歴史を綴った案内板が幾つかあって、読めば概略がわかるようになってい
	る。上の通りを左へ行ったところの突き当たりに「旧北海道庁舎」がある。ホテルで朝食を取って、開館時間になってか
	ら訪れた。






	北海道では、明治2年(1869)から明治15年(1982)までの13年間を「開拓使時代」と言う。明治2年は、「北海道」と
	「開拓使」が誕生した年である。この年5月、函館の五稜郭戦争が終結し、7月には、長い間「蝦夷地」と呼ばれていた
	この北の島が、「北海道」と改称され、翌8月、開拓使が設置された。下の写真で一番上に載っている人物が、肥前(佐
	賀県)出身の初代開拓判官・島義勇である。札幌本府建設のため200人の部下や人夫をひき連れてこの年の暮れ札幌入
	りした。島は、札幌建設着手にあたり、札幌入りの直後、円山の小高い丘のうえから広大な石狩平野を見渡した。どこま
	でもひろがる鬱蒼とした原始林と白一面の大平原、巨大なキャンバスのような石狩平野に向かって、島はどのような都市
	計画を頭に描いたのであろうか。
	島は「将来ここに世界的な大都市が出現するだろう」と予言している。「われわれは、いま眼前に広がるこの大平原を拓
	く。それが北海道開拓の第一歩である」と。島はその拠点となる札幌本府建設の基本構想を描いた。それは、豊平川の西
	岸に300間(約550メートル)四方の本庁敷地をおき、その南正面に420間(約770メートル)四方の広場をつくって、京都
	を模して碁盤の目に区切り、町を設けるという壮大なものだった。島は、冬のさなか本府建設をすすめた。だが島の構想
	による本府建造計画は膨大な予算を要するものだったため、札幌滞在わずか2カ月にして更迭され、志なかばにして帰京
	する。しかし、島の本府建設の夢は、開拓判官・岩村通俊や、開拓次官(のち長官)の黒田清隆へとひきつがれた。
	岩村の構想は、島のそれよりさらにひとまわり大きいもので、創成川を境に東西を分け、幅60間(108メートル)の大通
	で南北を分けて、60 間四方に区切った整然とした市街地を建設しようというものだった。島と岩村により、現在の札幌
	市街中心部の原形が生まれたのである。
	開拓判官を罷免されたのち、島は侍従、秋田県令となったが、明治7年、前年の征韓論をめぐる中央政府の分裂に刺激さ
	れた士族の不穏を鎮めるために出身地の佐賀に派遣され、逆に苦境にある士族に同情して、同じく不平士族鎮圧に派遣さ
	れた江藤新平とともに佐賀の乱に立ちあがり、敗れて斬首された。今、札幌市役所前には、島義勇の銅像が建っている。





	1869年8月15日	それまで蝦夷地と呼称されていた地域を北海道と改め、域内に11カ国86郡を設置。 
	1869年7月8日	開拓使を設置 
	1870年2月13日	北海道開拓使に改称 
	1882年2月8日	北海道開拓使を廃止し、函館県・札幌県・根室県の3県を置く 
	1886年1月26日	3県を廃止し、北海道庁を設置 
	1897年11月2日	支庁設置 
	1903年12月	紗那支庁を根室支庁に合併 
	1947年4月21日	北海道庁を廃止し、地方自治法に基く地方公共団体として北海道を設置



 


	<北海道庁赤レンガ庁舎> <国指定重要文化財> 
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	名  称 : 北海道庁旧本庁舎
	所 在 地 : 札幌市中央区北3条西西5丁目
	開館時間 : 午前8時45分から午後5時まで 
	休 館 日 : 12月29日〜1月3日
	営業時間 : 8:45〜17:00
	料  金 : 無料
	アクセス : JR「札幌駅」下車徒歩10分。地下鉄東西線・南北線・東豊線「大通駅」または、地下鉄南北線・東豊線
		   「さっぽろ駅」下車徒歩10分
	駐車場  : 無
	竣  工 : 1888年(明治21年)
	設  計 :  北海道庁土木課(当時) 
	構  造 : 煉瓦造 地上2階地下1階 
	デザイン : アメリカ風 ネオバロック様式
	館内施設 : 北海道文書館(展示室・閲覧室など)、赤れんがインフォメーションデスク、観光情報コーナー、
		   開拓記念展示コーナー、会議室・記念室
	重要文化財指定年 : 1969年(昭和44年) 
	問い合わせ: 北海道庁 電話 011-231-4111
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	北海道庁赤レンガ庁舎(ほっかいどうちょうあかれんがちょうしゃ)は、明治21年に建てられたネオバロック洋式の歴史
	的建築物で、国の重要文化財に指定されている。地方公共団体としての北海道が以前、本庁舎として使用していた。煉瓦
	造りの、日本の明治期を代表する建築物。現在は観光名所になっている。館内は一部一般に公開されており、北海道開拓
	関係資料を展示・保存する北海道文書館などが併設されている。1870年代の札幌の町並みを再現したジオラマや資料など
	を展示。開拓当時から残されてきたポプラの大木が茂る前庭は、花壇が配されるなどオフィス街のオアシスとして市民に
	親しまれている。別名、「旧道庁」、「赤レンガ庁舎」、「赤レンガ」などと呼ばれる。自治体としての北海道の象徴的
	存在であり、広報番組などのタイトルにしばしば「赤レンガ」が用いられているが、現在の「赤れんが」は二代目で、最
	初の建物は煙突の不備により焼失した。








	赤レンガの建物は全国に残っているが、この「北海道旧庁舎」の建物は、北海道のシンボルともいえる建造物である。
	明治21年、アメリカ風ネオ・バロック洋式の煉瓦造建築で、約250万個もの煉瓦を積み上げて造られた美しい洋風建
	築である。建築資材の殆どは、北海道で生産されたものが使用された。左右対称の建物の中央には八角塔があるが、建
	設当初はあったものの明治29年に撤去されている。その後、明治42年に火災に遭ったが内部を焼失したのみで、外壁に
	は大きな損傷はなかった。火災後の復旧工事でも八角塔は無いままだったが、昭和43年に北海道開拓100年を記念し
	て創建当時の姿に復元され保存されることになり、翌年国の重要文化財に指定されている。














			<歴代長官>

			初代 : 岩村通俊 	(1886年1月26日  - 1888年6月15日) 
			2代  : 永山武四郎 	(1888年6月15日  - 1891年6月15日) 
			3代  : 渡辺千秋 	(1891年6月15日  - 1892年7月19日) 
			4代  : 北垣国道 	(1892年7月19日  - 1896年4月7日) 
			5代  : 原保太郎 	(1896年4月7日   - 1897年9月4日) 
			6代  : 安場保和 	(1897年9月4日   - 1898年7月16日) 
			7代  : 杉田定一 	(1898年7月16日  - 1898年11月12日) 
			8代  : 園田安賢 	(1898年11月12日 - 1906年12月20日) 
			9代  : 河島醇 		(1906年12月20日 - 1911年4月28日) 
			10代 : 石原健三 	(1911年5月16日  - 1912年12月28日) 
			11代 : 山之内一次 	(1912年12月28日 - 1913年2月17日) 
			12代 : 中村純九郎 	(1913年2月27日  - 1914年4月21日) 
			13代 : 西久保弘道 	(1914年4月21日  - 1915年8月12日) 
			14代 : 俵孫一 		(1915年8月12日  - 1919年4月18日) 
			15代 : 笠井信一 	(1919年4月18日  - 1921年5月27日) 
			16代 : 宮尾舜治 	(1921年5月27日  - 1923年9月29日) 
			17代 : 土岐嘉平 	(1923年9月29日  - 1925年9月16日) 
			18代 : 中川健蔵 	(1925年9月16日  - 1927年4月30日) 
			19代 : 沢田牛麿 	(1927年4月30日  - 1929年7月5日) 
			20代 : 池田秀雄 	(1929年7月7日   - 1931年10月2日) 
			21代 : 佐上信一 	(1931年10月2日  - 1936年4月22日) 
			22代 : 池田清 		(1936年4月22日  - 1937年6月5日) 
			23代 : 石黒英彦 	(1937年6月5日   - 1938年12月23日) 
			24代 : 半井清 		(1938年12月23日 - 1939年9月5日) 
			25代 : 戸塚九一郎 	(1939年9月5日   - 1942年6月15日) 
			26代 : 坂千秋 		(1942年6月15日  - 1945年4月21日) 
			27代 : 熊谷憲一 	(1945年4月21日  - 1945年10月27日) 
			28代 : 持永義夫 	(1945年10月27日 - 1946年1月25日) 
			29代 : 留岡幸男 	(1946年1月25日  - 1946年4月25日) 
			30代 : 種田甲子七 	(1946年4月25日  - 1947年2月4日) 
			31代 : 岡田包義 	(1947年2月4日   - 1947年4月21日) 





「北海道の歴史ギャラリー」

−北海道庁赤れんが庁舎2階−




 

 




	北海道はアンモナイトがたくさん発見されることで世界的に有名である。その形は、丸いものからねじ巻き状のものまで
	様々でで、ここでは北海道から発見された本物のアンモナイトに手でさわれる。

	異常巻きアンモナイト
	アンモナイトは、地質時代のデボン紀末期(約 3億6000万年前)から白亜紀末期(約6500万年前)まで生きていた生物である。
	一般に、らせん状に巻いた円形の殻(から)を持ち、化石として産出するのはこの部分である。そのうち、殻の形がU字型
	やバネのように巻いたりしている「異常巻きアンモナイト」は、北海道を代表するアンモナイトとなっている。異常巻き
	アンモナイトは病気にかかっているわけでなく、様々な環境に適応するため、殻の形を変えていったと考えられている。
 
 

 

 

北海道の動物コーナー
	
	日本では、ヒグマは北海道にしか分布しておらず、逆にツキノワグマは本州以南だけに分布している。このように、北海
	道と本州をへだてる津軽海峡は、これを境にして住んでいる鳥や哺乳類の種類が違う。この、動物地理学上の重要な境界
	線は、発見者の名を取って「ブラキストン線」と呼ばれている。ここでは、そのブラキストン線の南北の動物たちをはく
	製などで展示し、北海道と本州以南との動物相の違いを紹介している。

 

 



	
	北海道の歴史編年

	【続縄文時代】
	本州では大陸から稲作、金属器が伝わり弥生時代が始まるが、北海道では縄文時代と同じ狩猟、漁労、植物採取が続いてい
	た。この時代を縄文時代からの続きという意味で続縄文時代と呼んでいる。およそ2,000年前から1,300年前まで続いたとさ
	れている。石器と鉄器の併用の時代である。
	【擦文文化】
	この時代は本州の奈良・平安時代とほぼ同じ頃にあたり、住居の形、構造などに影響を受けている。土器は表面を木のヘラ
	で擦(こす)った跡があることから擦文土器といい、この時代を「擦文時代」という。石器は殆ど使用されず、鉄器が本州
	方面から入っていた。また畑作(アワ、ヒエ、ソバ等)も行われるようになった。8世紀から13世紀にかけてである。
	【オホーツク文化】
	この文化は7世紀から13世紀にかけて北海道北部・東部のオホーツク海沿岸、千島列島、樺太に発展した文化である。
	人々の生活は、アザラシ、オットセイなどの海獣狩猟、漁労を中心としており、ブタや犬も飼っていた。住居や墓は独特な
	ものであり、遺物の中にもシベリアなど大陸方面からもたらされた青銅製品、鉄器などがあり、同時に本州製の鉄器も持っ
	ている。この文化の起源、社会生活、民族については不明な点が多く、謎の民族とされている。
	【アイヌ文化】
	アイヌとは「人」を意味する言葉である。考古学上のアイヌは擦文文化の後14〜15世紀頃に成立したと考えられている。彼
	らは動植物が豊富に獲れる川・湖の周辺に集落(コタン)を作り、畑作を中心とする小規模な農耕を行っていた。また、壕
	を堀り柵を巡らした砦(チャシ)も築かれた。チャシは祭り場、談合の場、見張り台としても利用されたと考えられている。
	アイヌ文化は時代を経るごとに本州からの和人の支配を受けて大きく変容していった。






 

 

 

 

 

 

 

 

 


	北海道のストーブ利用
	
	北海道での冬の暮らしに欠くことのできない暖房器具であるストーブは、安政3年(1856)箱館奉行所が製造し、使用した
	のが始まりである。開拓使は明治12年(1879)から、工業局工作所でアメリカのストーブをモデルにストーブの製作を行い
	販売したが、高価でかつ大型であったため一般に普及するには至らなかった。背の低い薄鋼板製(うすこうばんせい)の
	薪(まき)ストーブは明治20年代後半から注文生産品として作られ、明治40年代に安価な市販品として登場すると、広く
	庶民に普及するようになった。今回の展示では、代表的な薪と石炭を燃料とするストーブを紹介する。 
















	アイヌは、日本とロシアにまたがる北方先住民族で、歴史的には本州東北部から北海道、千島列島、樺太(サハリン)を
	生活圏としていた。アイヌを東北地方以北の全土に住んでいた原日本人の一つする説もある。これまで起源論や日本人と
	の関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解
	析の進展とともに、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきた。
	しかし明治以来、アイヌの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いと言う説が広く行き渡って
	いた時期もあった。代表的なアイヌ語研究者の金田一京助も、この説の影響を少なからず受けていた。アイヌ=縄文人近
	似説が主流になるまで、アイヌ=ヨーロッパ人近似説は日本の学会における主流であった。現在、彼らの祖先は日本人の
	主体となっているいわゆる和人と同じように、縄文人の一部を形成し、おおまかには続縄文文化、擦文文化を経てアイヌ
	文化の形成に至ったことが明らかになっている。

 


	千島のアイヌは1875年の樺太千島交換条約後、その殆どが当地を占領した日本政府によって色丹島へ強制移住させられた。
	樺太のアイヌは第二次世界大戦後に樺太を占領したソビエト連邦政府によって北海道へ強制送還されたが、現在も樺太に
	は少数ながらその末裔達が住んでいる。現在、アイヌの大部分は北海道に住んでいるが、北海道を離れて関東圏で生活す
	るアイヌも少なく無い。

 


	樺太アイヌは北方のツングース系民族とも交流があり、それを介して大陸の中華王朝とも関係を持っていた。1264年、樺
	太に住むアイヌ(骨嵬)とニヴフ(吉烈迷)の間に紛争勃発。蒙古軍が介入し、アイヌに朝貢を取り付ける。 
	15世紀に蝦夷地南部12箇所(道南十二館:どうなんじゅうにたて)に勢力を張った和人土豪は、アイヌとの交易や漁
	場への進出を通して成長するが、和人の蝦夷地進出に対してアイヌの首長コシャマインが1457年蜂起した。花沢館の館主
	である蠣崎氏の客将、武田信広がこれを制圧し蠣崎家を相続すると、道南十二館を統一して蝦夷を単独支配した。蠣崎家
	はその後、豊臣秀吉からも所領安堵されて「蝦夷島主」とされた。さらに幕府からアイヌとの交易独占を認められ、それ
	からは「松前氏」と名乗った。松前藩の支配下におかれてから、松前商人が不平等な交易をするようになったため、アイ
	ヌの不満は高まり、クナシリ・メナシの戦いのような蜂起にいたる。それらの戦いでは銃器を大量に投入できた和人側に
	利があったが、アイヌも火縄銃を利用したといわれる。幕府はアイヌに銃を渡すことを禁じたが、ロシア由来の銃も利用
	された。クナシリ・メナシの戦いに破れて以降、アイヌによる組織的な武力抵抗は見られなくなった。

 


	<アイヌ文化の成立>
	アイヌ文化は北海道で13世紀ころに成立したと見られているが、考古学や文献資料が不十分なため、アイヌ文化成立に
	ついて詳細は不明である。しかし基本的には、北海道の前時代にあった擦文文化を継承しつつ、オホーツク文化と融合し、
	本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。擦文時代の前にあたる続縄文時代の土器の文様は、アイヌの衣装に描
	かれる模様と似ていると指摘されるが、アイヌ文様はアムール川流域やサハリンの諸民族の文様とも類似しており、その
	発生・系統を実証することはできない。オホーツク海南沿岸にあったオホーツク文化には、熊を特別視する世界観があり、
	これはアイヌ文化と共通するが、擦文文化にはない。アイヌにとって重要な祭祀である熊送り(イオマンテ)がオホーツ
	ク文化にあった可能性も示唆されている。

 


	信仰は非常に汎神論的(アニミズム)で、あらゆるものにカムイ(神)が宿るとしていた。イオマンテを行ない、熊の命
	を敬う独自の文化をもっていた。これにともない、明治時代に入るまで神前裁判の風習を色濃く残していたことが、日本
	人のアイヌ蔑視に結びついたという説がある。現在では、大半のアイヌは同化政策の影響もあり、日常生活は表面的には
	和人と大きくは変わらない。しかし、アイヌであることを隠す人達もいる中、アイヌとしての意識は、少なくはない人々
	の間で健在である。アイヌとしての生き方はアイヌプリとして尊重されている。アイヌの歴史や教訓、生活の知恵などが
	描かれている叙事詩を歌として語るユーカラが口承されており、その記録活動もはじまっているが、継承者が亡くなって
	いくなど難航している。ユーカラの研究者としては、知里真志保(ちり ましほ)、金田一京助などが知られている。



	アイヌ文化の保存継承に尽力 萱野茂さん死去   2006年05月06日22時59分

	アイヌの英雄叙事詩ユーカラを紹介するなどアイヌ文化の振興に多くの功績を残し、参院議員も務めた萱野茂(かやの・
	しげる)さんが、6日午後1時38分、急性肺炎で死去した。79歳だった。通夜は11日午後6時30分、町葬は12
	日午前10時から、いずれも北海道平取(びらとり)町本町88の1の中央公民館で。喪主は妻れい子さん。自宅は同町
	二風谷(にぶたに)79の1。

	
	萱野茂さん
 
	26年二風谷生まれ。造林、炭焼き、木彫りなどをしながらアイヌの民具や民話を集めた。72年平取町に二風谷アイヌ
	文化資料館を開館、館長などを務めアイヌ文化の保存継承に尽力した。94年に参院比例区で、社会党(当時)から繰り
	上げ当選。その後、民主党に移った。アイヌ民族初の国会議員となり、アイヌ文化振興法の成立などに尽力した。国会で
	はアイヌ語を交えて質問した。4年間務め、98年に引退した。 
	アイヌ語の散文詩をまとめた「ウエペケレ集大成」を刊行し、75年に菊池寛賞を受けた。50年間かけて収集したアイ
	ヌの生活用具1121点は、国の重要有形民俗文化財の指定を受けた。 
	同町の二風谷ダムを巡っては「アイヌの聖地が奪われる」と建設に反対し、アイヌ民族を先住民族と認めない国を提訴。
	97年の札幌地裁判決で「アイヌは先住民族」とする判決を受けた。 (sahi.com)


 

 

 

 





























	樺太(からふと)は、日本列島最北端、北海道の北に位置する樺太島(露: Сахалин(サハリン)、中: 庫頁島(ク
	ウェイとう)、英: Sakhalin(サハリン))を指す地域名称である。面積76,400平方kmで、北海道よりやや小さい
	島嶼で、南の北海道とは宗谷海峡で隔てられている。かつて江戸時代までは、樺太・北海道・千島列島の総称が蝦夷地であ
	った。北は間宮海峡を隔ててユーラシア大陸と向かい合い、西の日本海、東のオホーツク海に囲まれている。現在は全域が
	ロシア連邦の実効支配を受け、サハリン州の主要部を構成している。
	私のように、西日本で生まれ育ち現在も西日本で暮らしている人間にとっては、正直「樺太」などは別の世界のことであっ
	た。少なくともここに来てこの展示を見るまでは、「戦時中、日本が一時支配していた北方」程度の知識しかなかった。
	しかしここで、こ1時間ほど資料を見ているうちに、樺太にも複雑な歴史があり、複雑故に、現在でも多くの政治的な問題
	が横たわっていることを知った。また、戦前、戦中、戦後を通じて、悲惨な体験を余儀なくされた多くの民衆が居たことも
	驚きだった。戦後処理については、現在では沖縄だけが脚光を浴びているような格好になっているが、ここでも「まだ戦後
	は終わっていない」とする主張もある。しかし展示を見た限りでは、もう終わらせたほうがいのではないかと思う。過去は
	確かに悲惨で辛いものだったが、いつまでもそれを引きずって誰かの罪をあげつらって糾弾しても仕方がない。それより新
	しい「樺太」と新しい関係を築いていったほうが、はるかにいい「未来」が訪れるような気がする。それともこういう見方
	は、所詮傍観者である西日本の人間の見方なのだろうか。




	<樺太の領有について>
	北海道とロシア沿海州との間に位置するサハリン(樺太)は,長い間東アジア諸国の「辺境」として,中国大陸・朝鮮半島
	・日本列島のいずれの政権の実効支配も受けてこなかった地域だった。(しかし中国は、東北地方から沿海州にかけての地
	域を支配した女真(満洲族)などの勢力の影響下ないしは支配下にあったとしている)。
	この地域が、近代国家の概念の下での領土として、周辺諸国の支配に組み込まれるようになるのは18世紀末から19世紀
	に入る頃からである。北からはシベリアを東進しオホーツク海に到達したロシア人が、南からは本州から北へ支配を広げて
	きた日本人が、それぞれこの島に到達し原住民たちと直に接するようになった。19世紀半ばに至り、いわゆる鎖国政策を
	放棄した江戸幕府はロシアとの国境画定交渉を開始した。根室の北東に伸びるクリル諸島(千島列島)については、エトロ
	フ(択捉・イトゥルップ)島とウルップ(得撫)島との間に国境を引くことで合意が成立したが、サガレンなどと呼ばれて
	いたこの島については合意が成立せず、とりあえず日本とロシアの両国に帰属し、両国人の混住地域とするという形で、
	応3(1867)年に両国間の国境を画定する仮条約が締結された。

	江戸幕府(徳川政権)に替わって権力を掌握した明治政府は,「樺太」をこの島の呼称として採用し、開拓使の下(1870〜
	71年は樺太開拓使として独立)で北海道とともに開拓事業に着手した。しかし,当時の国力では樺太にまで本格的な殖民・
	開拓事業を行うのには無理があったこと、また現地で日露両国民間の紛争が頻発したことなどから、正式な国境画定条約を
	締結するにあたって日本は樺太の領有権を放棄することに合意し、かわりに千島列島全島をロシアから割譲されるという形
	で、明治8(1875)年いわゆる樺太・千島交換条約が締結された。その後,サハリンへはロシアによる殖民事業が行われる
	こととなる。
	ところが明治38年(1905)、日露戦争の末期に日本軍はサハリンへ侵攻して占領。戦争終結にあたって締結されたポーツ
	マス条約によって,南半部の北緯50度以南が日本領とされた。こうして日本領となった南樺太で、日本による本格的な殖
	民・開拓事業が進められることになった。日本は日本領南樺太に樺太庁を置き、1942年に「内地」に編入した。

	第2次世界大戦末期の昭和20年(1945)8月、ソビエト連邦が日本に対して日ソ中立条約を一方的に破棄して宣戦を布告、
	南樺太を占領した。ソ連軍は同年4月に条約の破棄通告をしてきたが、8月はまだ条約の有効期間内であった。日ソ中立条
	約に反して南半部に侵攻し、樺太全島を占領下に置いた。その後ソ連は、同じく占領下に置いた歯舞・色丹・国後・択捉を
	含むクリル諸島(千島列島)とともに、以前からの領土であった北サハリンと統合してサハリン州として統治を続けている。
	日本政府は戦後、昭和26年(1946)に連合国との間に締結したサンフランシスコ平和条約において、南樺太(南サハリン)
	および千島列島の領有権を放棄した。しかし、この講和会議にはソ連は参加しておらず条約に調印もしていないことから、
	この地域がソ連(およびそれを継承したロシア連邦)に帰属するわけではなく、「国際法上南樺太の帰属は未確定である」
	との立場を取っている。しかしながら、実質的にはソ連、およびそれを継承したロシアの施政下にある。現在、日本政府は
	現地滞在者の便宜をはかるため、ユジノサハリンスク市に日本総領事館を設けており、ロシアの実効支配を事実上追認した
	形になっている。こうした日本政府の方針に反対し、南樺太の領有権問題を主張する人々も日本国内には存在するが、日本
	政府は、昭和31年(1956)のいわゆる日ソ共同宣言で、ソヴィエト連邦に対するすべての請求権を放棄すると謳っている。
	なお、日本政府の領有権を認める国も多い北方領土と異なり、この地域を「帰属未定地」としているのは日本だけであり、
	他の国はロシアの領有権を認めている。

 


	「カラフト」の語源には諸説あるが、アイヌの伝説に基づく西鶴定嘉説が有力である。太古、国造りの神が大きい島を造り、
	後でそれを北海道と樺太に分けた。アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ kamuy kar put ya mosir」とい
	い、カムイ(神)、カラ(造る)、プト(河口)、アツイ(海)、ヤ・モシリ(丘・島)である。この名前はアイヌ語で
	「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口からみてその先に位置することに由来するという伝説であ
	る。そのカラフトを島名として用いたのは、日本人のようで、唐太の字を当てた。カラプトが、その後カラトまたはカラフ
	トに転化した。徳川幕府は当初北海道・樺太を総称し、蝦夷地と言ったが、文化6年(1809)からは樺太を北蝦夷と公称し
	た。その後北方の経営が進み、明治2年(1869)明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、現
	在のように北海道・樺太という公名が制定された。いずれも松浦武四郎の意見による。

	「サハリン」は、ロシア語ではなく北方民族ツングース語で、サハリン・ウラ・アンガ・ハタ(“黒龍江口の山”という意)
	から呼称されるようになった。また、明治時代辺りまで、ロシアなどで薩哈嗹(サガレン)と呼ばれていた。「サガレン」・
	「サハリン」の名は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じて清国版図測量中に黒竜江(満州語名: サハレン・ウラー)
	河口対岸に島があると聞き、満州語で、サガレン・ウラ・アンガ・ハタという名で呼んだことに由来する。ただし、清は樺
	太の存在を認知したが、清国領とは見做さなかった。近年、日本政府や日本の報道機関各社は、ロシア政府に対する配慮か
	ら、樺太という名称を極力使用せずサハリンという名称の使用を奨励している。

 

	日露両国支配下では、北緯50度が日露両国の国境であった。その南端西能登呂岬と北海道宗谷岬とは、43kmの距離であ
	る。南樺太の面積は約36,000平方kmで、北海道の約43パーセントを占め、関東1都6県と山梨県を合わせた位の広
	さがあった。昭和16年の国勢調査では、40万6千余人の人口を抱えていた。

 

 





 

 



 


	間宮林蔵 (1780-1844)
	間宮林蔵は、19世紀初頭日本の北辺に20年以上滞在し、蝦夷・千島列島・樺太において数々の業績を残している。とり
	わけ樺太・東韃靼の探査では間宮海峡を発見し、その名は現在でも世界地図上に明記されている。測量技術、移動手段が貧
	弱で、なおかつ北方に関する知識も皆無という当時の日本にあって、林蔵の探検は命懸けの仕事であった。
 
 


	間宮林蔵は、安永9年(1780)常陸国筑波郡上平柳村に生まれた。名は倫宗(ともむね)号は蕪嵩(ぶすう)といい林蔵は
	通称である。幼い頃から神童と呼ばれ、小貝川の堰止め工事の効果的な方法を教え幕府役人に認められ、江戸にでることに
	なる。郷里を離れてからの林蔵は、日本各地で行われた治水、新田開発の仕事に従事しながら測量や土木技術を身に付けて
	行ったと思われる。林蔵は寛政11年(1799)19歳の時、師の村上島之允に従いはじめて蝦夷に渡る。それから文政5年
	(1822)松前奉行が廃止される43才までの23年もの間、林蔵はほとんど蝦夷地内で活動した。林蔵は、間宮海峡発見の
	後の半生を、蝦夷地測量という大事業に捧げていて、カラフト探検はあまりに有名だが、蝦夷全土を測量し、伊能忠敬の大
	日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)の北海道部分を完成させていることも大きな業績である。

 

 


	樺太は、ポーツマス条約による分割によって北緯50度線を境界として、北のロシア領と南の日本領に分断された。北緯50度以北を
	北樺太(北サハリン)、以南を南樺太とする。
	北樺太は、樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、ロシア帝国時代は沿海州、ソビエト時代以降はサハリン州に属する。代表
	都市はオハやアレクサンドロフスク・サハリンスキーなどである。ソビエト連邦建国の父レーニンは、ロシアによる北サハリン領
	有は帝政時代の武力を背景にした領土奪取であると認識していたため、ソビエト成立当初は日本への返還も考えられていたが、実
	際には行われなかった。その後、ソビエトは対日融和政策のため北サハリンの石油利権を日本に与え、開発を行わせたこともある。
	南樺太は日本の統治時代には樺太庁が置かれ、太平洋戦争中の1942年に外地から、内地の一部に変更され、およそ40万人の人口を
	抱えていた。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業などであり、これらは第二次
	世界大戦後もロシア人に引き継がれてサハリン州の主要産業となっている。南樺太は樺太庁の置かれた豊原を中心都市としていた
	が、この街は現在ロシア連邦サハリン州の州都ユジノサハリンスクとなっている。現在、樺太の周囲には天然ガス田が存在すると
	見られ、開発に向けて日本はじめ各国が動いている。石油メジャー、日本の大手商社が開発に参加。2004年、採掘された最初の石
	油が日本に輸出された。



 

 

 

 

 







 

	
	樺太庁には42の市町村(1市12町29村)、10の郡があった。樺太行政区分(1929年7月1日 - 1945年8月)では4の支庁と
	1市に区分されている。支庁は樺太庁の独立出先機関とされており、管内において本庁の事務を分掌していた。

	・豊原市
	・豊原支庁 
	 豊栄郡(とよさかえ) : 豊北村 - 川上村 - 落合町 - 栄浜村 - 白縫村 
	 大泊郡(おおとまり) : 大泊町 - 千歳村 - 深海村 - 長浜村 - 遠淵村 - 富内村 - 知床村 
	 留多加郡(るうたか) : 留多加町 - 三郷村 - 能登呂村 
	・真岡支庁 
	 本斗郡(ほんと) : 本斗町 - 内幌町 - 好仁村 - 海馬村 
	 真岡郡(まおか) : 真岡町 - 広地村 - 蘭泊村 - 清水村 - 野田町 - 小能登呂村 
	 泊居郡(とまりおる) : 泊居町 - 名寄村 - 久春内村 
	・恵須取支庁 
	 恵須取郡(えすとる) : 珍内町 - 鵜城村 - 恵須取町 - 塔路町 
	 名好郡(なよし) : 名好町 - 西柵丹村 
	・敷香支庁 
	 元泊郡(もとどまり) : 元泊村 - 帆寄村 - 知取町 
	 敷香郡(しすか) : 泊岸村 - 内路村 - 敷香町 - 散江村 

	樺太庁のデータ 	面積 36090.3km2(海豹島・海馬島含む)
	樺太の位置 東端:(北知床岬) 西端:(海馬島) 南端:北緯45度53分(西能登呂岬) 
		  北端:北緯50度線(北緯50度以北は、ロシア領) 
	総人口		406,557人(1941年12月1日) 
	樺太庁  所在地 樺太庁豊原市東4条南5丁目 
		樺太庁(からふとちょう)は、明治40年(1907年)3月15日に樺太庁官制により樺太民政署が改組された北緯50度以
		南の樺太島の行政組織であった。 当初は大泊に置かれていたが、1908年8月13日に豊原へと移転した。

	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)













			<樺太庁長官>

			民政長官:熊谷喜一郎 (1905年7月28日 - 1907年3月31日) 
			初代:楠瀬幸彦 (1907年4月1日 - 1908年4月24日) 
			2代:床次竹二郎 (1908年4月24日 - 1908年6月12日) 
			3代:平岡定太郎(1908年6月12日 - 1914年6月5日) 
			4代:岡田文次(1914年6月5日 - 1916年10月9日) 
			5代:昌谷彰 (1916年10月13日 - 1919年4月17日) 
			6代:永井金次郎 (1919年4月17日 - 1924年6月11日) 
			7代:昌谷彰 (1924年6月11日 - 1926年8月5日 再任) 
			8代:豊田勝蔵(1926年8月5日 - 1927年7月27日) 
			9代:喜多孝治(1927年7月27日 - 1929年7月9日) 
			10代:県忍 (1929年7月9日 - 1931年12月17日) 
			11代:岸本正雄 (1931年12月17日 - 1932年7月5日) 
			12代:今村武志 (1932年7月5日 - 1938年5月7日) 
			13代:棟居俊一 (1938年5月7日 - 1940年4月9日) 
			14代:小川正儀 (1940年4月9日 - 1943年7月1日) 
			15代:大津敏男 (1943年7月1日 - 1947年11月17日

			出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 










	いつの世も戦争の生み出す悲劇は悲惨だが、我々はこういう先人達の犠牲の上に今の生活を営んでいる、という見方と、
	こういう犠牲を強いたのは一体誰だ、という思いが交差して、戦争という行為の持つ計り知れないアフターエフェクト
	に恐怖すら覚える。戦争は勿論国家間で行われる大規模な民力の消耗戦であるが、同時に地球規模で蔓延する共同幻想
	の産物でもある。同時代性は克服できないにしても、絶えず醒めた視点と、揺るぎない正義心と、人類に対する暖かい
	包容力を身につけた国家が最終的には生き残っていくのだし、それを構成しているのはその国民、すなわち民衆なので
	ある。個として確立した民衆の多い国家が、また他の民衆を救えるのだ。こういう話を聞くと、涙があふれるのを止め
	られない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 


	<樺太の歴史>

	氷河期には大陸と陸続きだった。日本(間宮林蔵など)やロシア(帝国)の到達以前は南部にアイヌ民族、中部にウィルタ
	民族(アイヌ民族はオロッコと呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも)などの北方少数民族が先住していた。中国、朝
	鮮の古書(山海経、海東諸国記)には、いずれも「日本の北(又は領域)は黒龍江口に起こる。」とある。

	640年		「流鬼」(樺太アイヌ)が唐に入貢。 
	1264年		蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、住民の「骨嵬」(樺太アイヌ)を朝貢させる。 
	12世紀頃	津軽の藤崎城を拠点に蝦夷安東氏政権樹立、蝦夷地(津軽・北海道本島・千島列島・樺太)やカムチャッ
			カを領土とする。(異説あり) 
	1284年		「骨嵬」が元に反乱を起こす。 
	1295年		日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太へ渡り、本斗町阿幸に上陸し、布教活動を行った。 
	1297年		日本の津軽地方を本拠地とする蝦夷管領安東氏が「骨嵬」を率いてシベリアの黒竜江(アムール川)流域
			に侵攻する。 
	1308年		「骨嵬」、元に降伏。毎年の貢物を約束。 
	1341年		十三湊が18回に及ぶ大津波により崩壊、蝦夷地に於ける安東氏政権崩壊。 
	1368年		元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干
			渉は霧消する。 
	1411年		明は、黒竜江(アムール川)下流域まで進出。衛(領事館)を樺太など3箇所に設置し、アイヌ民族と交
			易する。 
	1485年		樺太アイヌの首長が武田信広(松前藩祖)に銅雀台を献ずる。 
	1562年		ベリユによって製作された世界地図の津軽地方からカムチャッカにかけての地域にBANDOY(安東国)と記
			される。 
	1593年		豊臣秀吉が松前慶広に蝦夷地全域の支配権を付与。 
	1635年		松前公広が村上掃部左衛門を樺太巡りに派遣し、ウッシャムに至る。 
	1644年(正保元年)江戸幕府が松前藩から提出の所領地図を基に作成した「正保御国絵図」に、樺太が北海道の北の大きな
			島として描かれている。
	1679年(延宝7年)松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。
	1709年		清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じて清国版図測量中に黒竜江河口対岸に島があると聞き、満州語
			で、現地民の通称であるサハリン・ウラ・アンガ・ハタという名で呼んだ(清は樺太の存在を認知したが、
			その版図には加えられなかった)。 
	1742年頃	樺太アイヌが清商人を略奪し、清の役人が樺太アイヌを取り締まる。 
	1790年		松前藩が南樺太南端の白主に商場を設置する。 
	1799年		樺太南部など蝦夷地が幕府の直轄地となる。 
	1806年(文化3年)ロシア海軍士官ら久春古丹を焼討ち、翌年エトロフ島とともに留多加を急襲。
	1807年(文化4年)樺太南部が再び幕府の直轄地となる。ロシア海軍士官が択捉島とともに留多加を襲撃する。 
	1808年(文化5年)江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北
			緯52度)に「大日本国国境」の標柱を建てる。
	1809年(文化6年)間宮林蔵が単身樺太に渡り、海を越えて大陸に至る。間宮海峡を発見、樺太が島であることを確認。呼
			称を北蝦夷と正式に定める。松田伝十郎が樺太統治に貢献した。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌ
			を事実上日本人として扱った。
	1821年		樺太が松前藩領になる。 
	1853年(嘉永6年)ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。ついで久春古丹に陣営を設け、久春古
			丹を襲撃する。同年、ロシア使節プチャーチン来日。長崎に於いて樺太・千島の国境画定と交易を求め、
			日本全権筒井肥前守・川路聖謨と交渉したが、決裂した。
	1855年(安政2年)再びプチャーチン来航。下田において日本全権(筒井、川路)と交渉、日露通好条約が結ばれた。国境
			については、日魯和親条約により、1852年までに日本人(大和民族)とアイヌ民族が居住した土地は日本
			領、その他当面国境を定めないことを決定した。「カラフト島は日本国と魯西亜国の間において、界を分
			かたず是迄仕来(しきたり)の通たるべし。」
	1859年(安政6年)ロシア東部総督ムラヴィヨフは、軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇したが、幕府は
			これを拒否する。
	1865年(慶応元年)岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
	1867年(慶応3年)ロシアが強大な軍事力を背景にペテルブルグの国境交渉で幕府に迫り、樺太仮規則に調印。初めて正式
			に樺太が日露両国の共同管理地となり、両国民が雑居したが、紛争が絶えなかった。
	1869年頃	北蝦夷地を樺太と改称 
	1870年2月13日	樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。 
	1871年8月7日	樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。 
	1875年(明治8年)樺太・千島交換条約締結により日本は樺太の領有権を完全に放棄し、全島がロシア領となる。
	1905年(明治8年)日露戦争で日本軍が樺太島全域に進駐、占領する。9月5日、日露戦争後のポーツマス条約締結により、
			北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本へ割譲されて領土となり、樺太民政署を置く。 
	1907年3月15日	樺太民政署が格上げされ、樺太庁発足。 
	1908年3月31日	内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更。 
	1915年6月26日	勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。1918年からのシベリア出兵
			の際に日本は北部も占領したが、1925年に撤兵する。 
	1929年		拓務省の指示下に樺太庁が編入される。 
	1929年3月26日	樺太町村制が公示され、町村に自治制が敷かれる。
	1941年(昭和16年)太平洋戦争起こる。
	1942年(昭和17年)11月1日拓務省が他省庁とともに一元化され、大東亜省になり、樺太庁は内務省下に変更される。 
	1945年(昭和20年)敗色歴然とした8月9日、ソ連軍は突如日ソ不可侵条約を一方的に破棄、南樺太に侵入、占拠。
			8月28日全島制圧される。 
	1946年2月2日	ソビエト連邦、南樺太および千島列島の領有を宣言する。 
	1951年(昭和26年)9月8日サンフランシスコ講和条約締結により、南樺太および千島列島の領有権を放棄し現在にいたる。 
			この条約締結にソ連は不参加であり、日本は樺太・千島18島を放棄したが、国際法上これらの地域の帰
			属は未定であるというのが、現日本政府の立場。その後帰属決定の国際会議は開かれていない。

	(『外務省大臣官房国内広報課発行 われらの北方領土1997年』・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照) 



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