2010.4.30 大刀洗平和記念館(大刀洗飛行場跡)・ 福岡県筑前町

	
	5月の連休に、小学校の「還暦」同窓会をやるという。私は一度も出席したことはないが、今までに、小学校の同窓会は2回開
	催されたそうで、今回は20年振りだというので、連休に予定もなかったし福岡へ帰ることにした。
	ずっと前に帰省したとき、中学生の時に作った俳句集が実家の物置から出てきて、何とか読める分だけをワープロで打ち直して
	いたので、それを初恋の人に渡すいいChanceだとも思った。
	私の初恋は中学生なのだが、ちなみに1年生で彼女に恋して、3年間私は彼女が好きだった。私の小学校はそのまま全員が中学
	校へ進級するので、彼女も同窓会に来るのである。手を握るでもなく、勿論KISSなど考えたこともない。ひたすらに、恋に恋し
	ていた幼い時代の想い出である。
	私が中学生の時に作って、60歳になって彼女に渡した俳句は以下の通り。

	
		

		残雪が   あなたに似ている  古処の山
		あの人が  ほんのり赤い    桜(はな)の下
		桜(はな)ふぶき あなたの足に 胸ドキン
		桜(はな)びらが 漂っていく  君のもと
		春の夜   汗が背をゆく    君を見て

		

		思いだし  胸キュンとなる 夏の雲
		避暑地まで 付いてゆきたい 夏休み
		指触れた  火よりも熱い  キャンプの手
		おぅい雲  あの人乗せて  来ておくれ

		

		あの人を  じっと見ている モズと僕
		柿の実が  僕に当たれと  あの人が
		風に乗り  想い伝えて   赤とんぼ
		濃紅葉に  君が溶け込む  城の跡
		ポスト前  出すの止めろと 野分かな
		野分かぜ  あなたの声が  するような
		夕焼けに  燃えてしまうか 紅葉恋
		すすき原   あなたと駆ける 夢の中

		

		木枯らしが あなたの裾を  ちらつかせ
		雪が舞う  あなたと僕の  ダンスなら
		雪の朝   あなたの後追う 靴の跡
		雪の朝   行きつ戻りつ  眼鏡橋

	
	何度読み返しても、何という純情な時代だったのだろうと思う。彼女と僕は、そのまま同じ高校へ進学したのだが、高校へ入っ
	たら、僕にはもう別の彼女が出来て、この初恋時代は終わりを告げてしまったのだけれども、こういう純情な時代はもう二度と
	戻っては来ない。もう二度と再び戻らないものと別れを告げるために、この同窓会の案内が来たとき、僕は、この俳句を彼女に
	渡すことを思いついたのだった。おそらくは、作家を夢見ていた中学3年の頃に作ったものだろうと思う。


	その目的で郷里へ向かっているとき、JR鹿児島本線基山駅で、ばったり高校の先輩の奥さんに出会ってしまった。関西の高校
	同窓会の会長夫人で、豊中市民である。私は吹田市民なので同じ北摂仲間だ。奥さんも、高校同窓会で帰省してきたとの事だっ
	た。会長は大阪残留だとの事でお一人だったが、基山から甘木まで通っている「甘木鉄道」にご一緒させてもらった。
	途中奥さんが、「大刀洗飛行場跡に行った事が無くて、去年主人が資料館に行ってきて、良かったから行けばと言われたので、
	降りて見に行く。」と言われるので、私も同行した。ずっと昔に行った事はあるけれども、その時は小さな小屋にポツンと飛行
	機の復元があっただけで、新しくなった資料館を私も見たいなと思っていたのである。いい機会だからと見学していく事にした。


	
	大刀洗平和記念館	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	大刀洗平和記念館(たちあらいへいわきねんかん)は、福岡県朝倉郡筑前町とにある歴史資料館である。
	旧日本陸軍九七式戦闘機、旧日本海軍零式艦上戦闘機をはじめ、大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)中の資料約1800点が展示さ
	れている。昭和62年(1987)4月より、甘木鉄道太刀洗駅の旧駅舎を利用して個人により運営されていたが平成21年(2009)
	10月3日、新たに「筑前町立大刀洗平和記念館」として、旧館前の国道500号線を挟んだ向かい側の筑前町高田に開館した。
	新館の外観は格納庫を模したいわゆるカマボコ型である。

	<概要>
	旧日本陸軍の太刀洗陸軍飛行学校の分校であった知覧町(現・南九州市)には資料館(知覧特攻平和会館)があるにもかかわら
	ず、本校の太刀洗飛行場があった大刀洗には何もないことから、当時無人駅化のため取り壊される予定になっていた太刀洗駅駅
	舎を利用し開館した。1996年には博多湾から引き上げられた九七式戦闘機が展示された。
	新館開館にともない飛行機愛好者でつくる「福岡航空宇宙協会」が所有していた旧海軍の零式艦上戦闘機三二型が寄贈された。
	九七式戦闘機及び零戦三二型は現存する世界唯一の実機である。
	昭和20年(1945)3月の太刀洗大空襲の資料や犠牲者の遺影も展示されている。また遺影コーナーには、撃墜されたB29爆
	撃機搭乗員の遺影も展示されている。

	<沿革>								<主な展示内容と施設>
	1987年(昭和62年)4月 - 個人運営で開館 					飛行場の概要と航空技術 
	1996年(平成8年)9月10日 - 復元された九七式戦闘機が展示される。 	太刀洗飛行場と人々の生活
	2008年(平成20年)12月 - 旧記念館が新館建設のため一時閉館。 		太刀洗大空襲と特攻隊 
	2009年(平成21年)10月3日 - 新記念館が開館。 				追憶の部屋 
										企画展示コーナー 
										図書閲覧コーナー 














大刀洗平和記念館(旧館)
	
	第三セクター「甘木鉄道」甘木線太刀洗駅と、旧大刀洗平和記念館(上)。大刀洗平和記念館は、以前は甘木鉄道の古い太刀洗
	駅舎を利用した私設の平和記念館だった。私も、もう十年以上前に一度、帰省の途中で寄った事がある。しかし昨年、町立記念
	館の建設に伴い閉館することになった。旧私設記念館の約2千点に及ぶ展示物は、新しい記念館へ提供され引き継がれ、旧記念
	館は「太刀洗レトロステーション」として新たに生まれ変わった(下)。レトロを目玉に、「暮らし・文化・ものづくり」のテ
	ーマに沿った展示が行なわれている。新しい平和記念館は、筑前町が約10億円かけて建設したものである。











	
	太刀洗飛行場	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	太刀洗飛行場(たちあらいひこうじょう)は、現在の福岡県三井郡大刀洗町と朝倉郡筑前町にまたがる地域にあった日本陸軍の
	飛行場。1919年10月に完成し、当初は中国大陸に向かう航空隊の中継基地の役割を担った。昭和に入ると陸軍航空兵の教育訓練
	の中心地となった。太平洋戦争終盤には本土防衛の一翼を担うが、アメリカ軍の空襲を受けて壊滅的な被害を受けた。終戦後、
	飛行場用地は農地、工場(麒麟麦酒)用地に転用された。

	<沿革>

	1919年(大正8年)10月 太刀洗飛行場完成 
		11月 飛行第4大隊開隊 
	1925年(大正14年)5月 飛行第4大隊は飛行第4連隊に昇格。 
	1939年(昭和14年)12月 第5航空教育隊開隊 
	1940年(昭和15年)2月 太刀洗航空支廠設置 
		3月 飛行第4連隊、小月に移駐。 
		9月 熊谷陸軍飛行学校太刀洗分教所、太刀洗陸軍飛行学校に昇格。 
	1945年(昭和20年)2月 太刀洗陸軍飛行学校、第51航空師団に吸収。 
		3月 アメリカ軍の空襲により被害甚大。 



記念館の外観はカマボコ型の形状だが、これは飛行機の格納庫をイメージした形だという。





	
	きっちり、邪馬台国祭りのポスターもある。「夜須」や「三輪」などという歴史深い町名を、何故「筑前町」などというつまらん
	名前にしたのか。将来、奈良県の「三輪」の発祥がこの地だったと証明されでもしたら、「筑前町」と名付けた人々は不明を恥じ
	なければなるまい。この町は、何故「三輪」なのか、何故「夜須」なのかと考える子供達が出現する道を、自らの手で閉ざしてい
	る。



	
	この平和記念館ではこの零戦に限り写真の撮影が許可されている。この零戦は昭和16年に三菱重工名古屋工場で生産された「三
	二型」で、主翼の先端が直線的になっているのが特徴。現存する「零戦三二型」は、世界でも唯一この機体だけ。昭和53年、マ
	ーシャル諸島タロア島のジャングルで発見され、様々な困難を乗り越え昭和58年に日本へ帰還した。見るからに美しい、典型的
	なゼロ戦の姿である。







戦争賛成・反対の議論などとは関係なく、少年の頃、胸躍らせたゼロ戦の勇姿がここにあった。何度この姿をノートの片隅に書いたことか。







コクピットの計器類。



星型空冷12気筒の傑作エンジン、1000馬力。三二型に搭載されていたものではない。











間近でコックピットを見ることができる。計器類がひしめいている。若いパイロットはこの狭い操縦席で何を思ったか。













平成8年に博多湾で見つかった九七式戦闘機(九七戦)。







	
	戦時中、同町一帯は旧陸軍の大刀洗飛行場や航空教育隊、航空機工場などがあり一大軍都として発展した。特攻隊員はここで
	教育を受け、鹿児島の知覧へ旅立っていった。日本陸軍の、南方進出の最大の前線基地だったのである。しかし終戦間際の大
	空襲により壊滅的な被害を受ける。ここから北東へ7,8km行った私の実家付近へも戦闘機は飛んできて、私の祖父は機銃
	掃射を浴びて田んぼのあぜ道に飛び込んだという話を、子供の頃何度も聞かされた。
	空襲後は、飛行場も工場も焼失し、航空機基地としての機能を殆ど失い、やがて終戦を迎えて飛行場は田畑に戻った。



	
	さて、ここを訪れて2日後に開催された同窓会で、私は冒頭の俳句を初恋の人に贈ったのだが、その感想はとうとう最後まで
	聞け無かった。しかしそれで良かったのだと思う。45年前の恋心を告白されても、私も答えようがない。滔々たる歴史の流
	れは、あらゆるものを巻き込んで、肉体も精神も、そして想い出も過去へと押し流し、二度と再び戻っては来ない。

	ちなみに「大刀洗」という名前は、神功皇后が西域平定に夫の仲哀天皇とともに九州入りしたとき、ここで太刀を洗ったとい
	う故事に基づいている。