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大阪造幣局・造幣博物館
2012.11.13 大阪市北区






	独立行政法人造幣局 「造幣博物館」 出典:「独立行政法人造幣局」HPより転載(以下HPの青字すべて)
 
	造幣博物館は、明治44年(1911年)に火力発電所として建てられた建物で、造幣局構内に残る唯一の明治時代のレンガ造りの西洋風
	建物です。昭和44年(1969年)に建物の保存を図り、当局が保管していた貴重な貨幣などを一般公開し、造幣事業を紹介するため当
	時の外観をそのままに改装し、「造幣博物館」として開館しました。
	平成20年(2008年)より「人に優しい博物館、環境に配慮した博物館、魅せる博物館」を目指し、展示や設備に最新の手法を導入し、
	皆様方により親しんでいただけるよう大改装を行い、平成21年(2009年)4月にリニューアルオープンしました。
 	また、博物館1階受付にてミュージアムグッズ(絵葉書等)の販売も行っています。



天満橋から北へ行くとすぐ大川である。上左は淀屋橋方面。更に北上して扇町との交差点を右折すると造幣局のレンガ塀が見えてくる。





この塀の前に「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」という石碑が立っている。大塩のぶっ放した砲弾で避けた樹木が立っていた。



2012.4、この石碑を写している早野さん。早野さんは、高校、大学を通じての先輩である。最近まで製薬会社の役員だった。



なにやらTVクルーが造幣局を撮影している。interviewかなと思って近づいたがレポーターはいず、ただ建物を写しているだけだった。





春の「造幣局通り抜け」の時にはここが出口になっていて、桜と人々が芋を洗うようにごった返している。



上は2012年4月、早野さんら有志で「通り抜け」に来たときの様子。
















	造幣博物館北側に、創業当時使用した圧印機が展示されている。

	<フランス製圧印機(トネリ社製)> 上左
	慶応4年(1868年)、閉鎖状態にあったイギリスの香港造幣局の機械一式を6万両で購入した圧印機のうちの1台で、明治4年
	(1871年)の創業当初、金・銀貨幣の製造に使われていた圧印機です。
 

	<ドイツ製圧印機(ユロル社製)> 上右 
	創業とともに作業が順調に進み、新しい圧印機として明治5年(1872年)に購入された大型圧印機で、1分間に60枚程度の圧印
	能力がありました。














	創業当時の造幣寮全景模型(縮尺1/300)
 
	明治6年(1873年)頃の造幣寮の全景で、当時の敷地は約18万m2ありましたが、 現在では約半分の約10万m2です。また、明治
	10年(1877年)までは、造幣寮と呼ばれていました。
 


















































大塩平八郎の屋敷があったあたりは、いまでも「与力町」である。























Video画面の下になにやら模型があって、画面と連動して動きだし最後は当時の造幣局が出現する。












	私は商学部経営学科卒業なので簿記は必須だったが、学生時代は「貸方、借方」も分からなかった。しかし理論は得意で、ゼミは簿記論
	だったので、この帳簿の理論などはよく勉強して「優」を貰った。ゼミの先生が「簿記」の先生でもあったので、お情けで「可」を貰っ
	た。実務の簿記は、就職して必要に迫られて勉強し3級、2級、1級と2年で経理のプロになったが、それは会計のソフトウェアを作る
	ためだった。ド素人が2年でお得意さんの経理部長と対等に話せるまでになった。それもこの「簿記論」の基礎があったからだと思う。
	「動態論・静態論」、懐かしいなぁ。




















































































































	3階展示室には、以下のような様々な貨幣が展示されている。

	<竹流金>
	永禄、天正の頃から豪族・大名達が、軍資金として備蓄したり恩賞用としたもので、竹のような形の鋳型に流し込んで造られたとみら
	れます。昭和10年大阪淀川から発見されたもので、大坂城落城の際の遺物とされています。 

	<明治の金貨> 
	明治政府は維新での大混乱を整理するため、新貨条例を制定し、金本位制の下で新しい貨幣を発行しました。デザインについては、欧
	米各国のように元首の肖像を入れてはという意見もありましたが、「現人神の天皇の肖像が人民の手に触れて汚れることは、恐れ多い」
	という理由から、これに代えて龍(天子の顔を龍顔という)の図案が採用されました。
 
	<富本銭>(レプリカ)
 
	富本銭は、和同開珎の発行(708年)にさかのぼる事25年前の、天武12年(683年)に鋳造されました。 
	平成11年(1999年)に奈良県飛鳥村の飛鳥池遺跡から出土したものをモデルに、奈良文化財研究所が当時の素材及び鋳造方法で忠実
	に再現して製作した、貴重なレプリカです。(奈良文化財研究所 所蔵)
 
	<皇朝十二銭>
	和銅元年(708年)に日本政府は和同開珎を鋳造しました。この鋳造から250年の間に、万年通宝などの銅貨幣11種類が誕生しまし
	た。このうちの銅貨幣を称して、皇朝十二銭と呼んでいます。
 
	<銀箱(丁銀箱)> 
	「江戸の金遣い、上方の銀遣い」とも言われるように、関西地方では銀を中心に経済が回っていたため、銀箱が非常に使用されていま
	した。この箱の中には、丁銀220本ほどと、量目の調整のための小粒銀が、併せて37.5sほど入っていました。(大阪商業大学
	商業史博物館 所蔵)
 
	<小判座模型>
 	造幣博物館が所蔵している金座絵巻の中から、文政小判金を造っている工程の一部を模型で再現したものです。作業を行っている職人
	などが、それぞれ表情豊かに再現されています。
 















	天正菱大判
	豊臣秀吉の造った大判で金の品位も高く、太閤にふさわしく、貨幣史上最も豪華といわれています。大判の上下に菱形の桐極印があ
	るので、菱大判と呼ばれています。 

	天正長大判
	菱大判より上下が長いので、長大判と呼ばれています。世界最大級の金貨幣として知られ、長さは17.5p、幅10.2pあります。 







































先程のTVクルーが展示室内も撮影していた。どっかの局で特番を組んでいるのかもしれない。。








































































































	造幣局 (日本) 出典:ウィキペディア

	独立行政法人造幣局(ぞうへいきょく)は、硬貨の製造、勲章・褒章及び金属工芸品等の製造、地金・鉱物の分析及び試験、貴金属地
	金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)などの事業を行う日本の機関。
	本局は大阪市北区天満にあり、構内に造幣博物館がある。また、支局が東京(東京都豊島区)と広島(広島市佐伯区)の2か所にある。
	創設された1871年から工場内および近隣周辺にガス灯を点灯している。これは貨幣を鋳造するために発生させたガスの余剰分を利用し
	たものであり、特に屋外に設置されたものは日本で初めてのガス灯による街灯でもあったため、その明るさに見物人が押し寄せた。
	この造幣局では、東京オリンピックや長野オリンピックの金・銀・銅の各メダル、名古屋城の金鯱なども製作された。地元以外では、
	大阪造幣局と呼ばれることもある。

	1868年5月16日(慶応4年4月24日)、明治新政府は旧金座および銀座を接収し、同年6月11日(慶応4年閏4月21日)に貨幣司を設けて二
	分判および一分銀などの鋳造を引き継いだ。翌1869年3月17日(明治2年2月5日)貨幣司が廃止され、太政官に造幣局が設けられた。同
	年8月15日(明治2年7月8日)、造幣局は造幣寮と改称され、大蔵省の所属となった。
	参与会計事務官・三岡八郎、外国事務局判事・五代才助らは1868年(慶応4年)に、同年に廃止されたイギリス帝国・香港造幣局の造
	幣機械を6万両で購入する契約を結んだ。同年11月 1日(明治元年9月17日)に英国建築技師のウォートルスを雇用し、局舎の設計およ
	び機器の購入などを担当させた。1870年3月3日(明治3年2月2日)には旧香港造幣局長のキンドルが造幣寮の首長に任命された。
	大阪所在の本局は1871年1月17日(明治3年11月27日)に銀貨の製造を開始し、1871年4月4日(明治4年2月15日)に大蔵省造幣寮として
	創業式を挙行した。同年6月27日(明治4年5月10日)には新貨条例および造幣規則が布告され、近代的貨幣制度がスタートした。
	1875年(明治8年)1月31日限りでキンドルらお雇い外国人10人を解雇し、寮務全般に亘り改革が実行された。試験分析局のディロンお
	よび、冶金室のガウランドは造幣頭の顧問役を兼任した。1877年(明治10年)1月11日に造幣局に改称した。
	1879年(明治12年)9月 16日、大蔵省内に東京出張所を開設し、貨幣製造のための地金の受け入れ業務を開始した。東京支局は1907年
	(明治40年)5月17日に一旦廃止された。1929年(昭和4年)7月1日に東京府東京市麹町区内幸町に再び東京出張所が開設され、1939年
	(昭和14年)11月20日には東京府豊島区西巣鴨に移転した。1943年(昭和18年)9月1日には造幣局東京支局に改称した。1945年(昭和
	20年)4月13日に空襲により全焼し東京支局は事業を停止した。同年6月7日には大阪の本局も空襲の被害を受け工場の一部を焼失した。
	1945年(昭和20年)2月1日に広島県佐伯郡五日市町に造幣局広島支局が開設された。同年8月6日には原爆により被災したが、翌1946年
	(昭和21年)1月15日に貨幣製造を再開した。また同月に東京支局も貨幣製造を再開している。
	1949年(昭和24年)6月1日から1952年(昭和27年)7月31日まで造幣庁(長は長官)と称したのち再び造幣局に改称、2003年(平成15
	年)4月1日に独立行政法人化された。
 
	<桜の通り抜け>

	大阪市北区の大川(旧淀川)沿いにある本局には、約120品種、約400本の桜が植えられている。本局のあった土地はもともと藤堂家の
	大坂屋敷があり、同家の植栽していたサクラの樹木が造幣局にも引き継がれた。造幣局長であった遠藤謹助が「役人だけが花見をして
	いてはいけない」と1883年(明治16年)から一般にも開花したサクラを公開することになったのが始まり。大阪大空襲で桜の多くが焼
	失したが職員によって蒐集され多品種の桜並木が復元された。いまでは大阪の春の伝統行事として、毎年4月中旬から下旬にかけての
	開花時期には一般開放され、多くの人で賑わう。この観桜のための一般公開は、南側のゲート(川崎橋)から入場して北側のゲート
	(銀橋)から抜ける一方通行となるため、「通り抜け」と呼ばれている。この通り抜けは夜まで行われるため、日没後の夜桜も鑑賞で
	きる。現在ではサクラの品種といえば「ソメイヨシノ」しか知られなくなったため、毎年「今年の桜」として一品種を選定して紹介し
	ている。日本さくら名所100選に選定されている。なお、この桜の通り抜けが中止されたのは太平洋戦争で空襲が激化した1943年から
	1946年にかけての4年間のみであり、それ以外は毎年続けられてきた。2011年の東日本大震災の際も、内外の反対の声を抑え、規模を
	縮小しながらも、開催が断行された。この際には募金箱が会場に設置され、7日間の開催期間中に集まった募金総額は1000万円以上に
	上った。
	2009年の大阪桜の通り抜けは、4月15日(水)から4月21日(火)に開催された。2009年度の“今年の桜”は『平野撫子』(ひらのなで
	しこ)であった。
	2010年の大阪桜の通り抜けは、4月14日(水)から4月20日(火)に開催された。2010年度の“今年の桜”は『都錦』(みやこにしき)
	また、広島支局でも、毎年開花時期に「花のまわりみち」として一般開放されている。広島支局の桜は1967年に大阪から移植されたも
	のであり、1991年より一般公開を始めた。



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