書店で歴史関係の入門書や、歴史雑誌の古代史特集などを読むと、「日本古代史100の謎」とか「日本史、これが謎!」
	とか「邪馬台国99の謎」といった表題の記事によくお目に掛かる。大半は、歴史マニアなら既に知っている事が並べてあ
	るのだが、中に、「へぇー、そうなのかぁ」とか「そうだったのか!」と言うような記事にぶち当たって、まだまだ知らな
	い事もたくさんあるのだと想いを新たにもされるのだが、中には、学問上はもう決着が着いているような問題を、ことさら
	に謎だ、謎だと騒ぎ立てているような記事も見受けられる。売らんが為の苦肉の策なのだろうが、あまり謎だらけだと日本
	史は謎の上に成り立っているのかいな? という気にもなってくる。


	
	1.三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう/さんかくぶちしんじゅうきょう)について
	
	「三角縁神獣鏡」と言う名前は、鏡の縁の断面部分が三角形になっており、背面の模様に「神と獣」が刻まれているという
	解釈から名付けられた名前である。鏡の大きさは概ね直径が23cm前後で、鏡面がゆるやかな凸面を持っている。この鏡
	は前漢鏡や後漢鏡と違って、主に近畿圏を中心として、全国各地の古墳から出土し、その総数は約500枚程度と言われる
	が、正確な数値を把握している者は専門家にもいない。まだ発掘調査されていない、大阪府高槻市の闘鶏山古墳等のように、
	ファイバースコープなどの挿入で既にこの鏡が埋納されている事が分かっている古墳もある。だとすれば、まだ相当数の三
	角縁神獣鏡が地中に眠っている可能性は極めて高く、学者によっては1000枚はあると推測する人もいる。
	この鏡は、いわゆる「魏志倭人伝」に、魏の皇帝が倭の女王卑弥呼に「銅鏡百枚」を与えたと記されている、その鏡そのも
	のであるか否かを巡って、絶えず邪馬台国論争の渦中にある鏡としても有名だ。京都大学教授であった考古学者、小林行雄
	や、元奈良県立橿原考古学研究所所長の樋口隆康氏ら、いわゆる「邪馬台国=畿内説」を唱える学者達は、卑弥呼が魏から
	もらった鏡は、この三角縁神獣鏡を主とする鏡であると主張するが、最近では、畿内説論者であっても、奈良県立橿原考古
	学研究所附属博物館の館長である河上邦彦氏のように、三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった鏡ではないと言う人たちも現われ
	てきた。
	しかし、三角縁神獣鏡は100%わが国から出土し、中国からは1面も出土していない事、また、畿内では、4世紀の古墳
	時代の遣跡からのみ出土し、邪馬台国時代の3世紀の墓からはまったく出土しない事、さらに、鏡の直径も平均22cmほ
	どで、中国で出土する後漢・三国時代の鏡よりも、はるかに大きい事、華南の鏡のデザインや江南の銅が用いられている事、
	三角縁・神像・獣像などの各要素は、洛陽付近出土の銅鏡にはみとめられない事、などの理由から、同志社大学名誉教授で
	考古学者の森浩一氏、産能大学教授の安本美典氏(数理歴史学)、元宮崎公立大学教授の奥野正男氏(考古学)などは、
	「三角縁神獣鏡」は、中国から輸入された鏡ではなくわが国で作られた鏡であろうと主張する。すなわち三角縁神獣鏡は、
	邪馬台国の位置をめぐる畿内説・九州説の闘いの渦中にある鏡なのである。





	
       「神獣」とは、鏡の裏面に彫られている人物図案が、魏・晋の時代に最盛となった中国の神仙思想に基づく仙人を題材にし
	ていると思われる事と、龍虎・駱駝・象などの霊獣が刻印されているのでそう呼ばれるが、果たして仙人が神かとか、駱駝
	・象が霊獣なのかと言った論議もある。しかし、誰が名付けたのかは分からぬが、既に「神獣鏡」という名前は広く浸透し
	ているので、いまさら名前の詮議を始めても仕方ない。単なる記号くらいに考えればいいだろう。以下は、奈良県天理市の
	黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡に描かれた文様である。






	
	2.三角縁神獣鏡をめぐる議論

	議論の中心は、その生産地を巡ってのものである。即ち、舶載鏡(中国製)か、倭鏡(国産)かである。鏡の原料となって
	いる銅そのものは概ね中国産である事は確認されており、鏡の銘文に「出同徐洲」(銅は徐洲から出た。)などと書かれて
	いるものもある。三角縁神獣鏡が、邪馬台国問題とどう関連するのかは、

	・舶載鏡だとすればその枚数から、魏志倭人伝に言う「卑弥呼がもらってきた魏の鏡」に相当し、近畿圏から多く出土する
	 ので邪馬台国も近畿にあったのだという事になるが、

	(1).枚数が既に倭人伝に書かれた100枚どころか500枚に達するのはおかしい、
	(2).出土が全て4世紀の古墳からなのは、3世紀の邪馬台国・卑弥呼の時代と100年もズレている、

	と言った批判を浴びている。反対に、

	・倭鏡だとすれば、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡ではなく、それは、主に北九州を中心に出土する前漢鏡・後
	 漢鏡だという事になり、九州説論者達に有利となるが、

	(3).3〜4世紀にあれほど大量に鏡を鋳造する技術はまだ無い、とか、
	(4).景初3年や正始元年という3世紀を示す銘があるではないか

	と言う批判がある。

	これらの議論のそもそもは、大正初め、考古学者の富岡謙蔵が、銅の出土地や作成者の出身地等(銘文)から、三角縁神獣
	鏡を魏の鏡とみなした事に始まっている。その後小林行雄が「同笵鏡流通論」を展開し、多くの学者達の賛同、反論の渦が
	巻き起こる。1962年には森浩一氏が、この鏡は実用性に欠け、鏡を装飾品・祭祀品として扱う国産品に違いなく、呉の
	工人が日本に来て制作したと言う説を発表した。その後論議を重ねながら膠着状態のまま今日に至っている。

	(1)(2)(3)(4)に対する反論と、そのまた反論

	(1)・魏への朝見は幾度にもわたっており(239〜266年で4回以上)、倭の使者は、その都度同じものを魏で求めてきたのだ。
	   【ならば、当然中国にも同じ鏡が少なくとも1枚ぐらい残っていても良さそうではないか。一枚も無いのはなぜか?】
	   (倭人向けに特別に作らせた鏡だから。当然中国には残っていない。(特鋳説))

	   ・銅鏡百枚と書かれた内容に相当するものは三角縁神獣鏡しかない。前漢・後漢鏡にしても同一のものが100枚も
		揃っている鏡は無い。
		【銅鏡百枚と書いてあるだけで、同一のもの百枚と書いてある訳ではない。中国でも同じ鏡を百枚作っている例な
		どない。】

	(2)・鏡などはその家の宝であり、もらってすぐ墓に埋めることはせず、代々家宝として引き継がれて(伝世:小林行雄)
		来たのだ。
	   【鏡以外にも、剣や玉も宝だったはずだ。これらは甕棺を主とした弥生墳墓にちゃんと副葬されている。鏡だけを伝
		世するわけがない。】

	(3)・呉の工人を日本に呼び制作したのだ。指導は呉人がやり、実際に鋳造したのは倭人だろう。(呉鏡説)
		【それなら銘文にもっと呉の年号が入っていていいはずだ。年号は魏の国のものばかりではないか。】

	(4)・1986年、「景初四年」鏡が出土している。この年号は、魏には存在しない(景初は三年で終り)。魏で作った
		鏡なら年号を知らない訳がない。
		【改元前に既に作っていたか、或いは改元の通知が鋳造所へ届くのが遅れたのであろう。】

	これらの議論を読んでいく内に、何か次第にむなしくなってくる。これではどこまで言っても水掛け論である。ハッキリし
	た事実に基づく議論ではなく、想像と仮説の上に立った議論だからである。酸素と水素を融合させれば水になったり(H2 +
	 O = H2O)、(a + b = x )において、x と a の値が決まればおのずと b の値が決まるような性質の議論ではないのだ。
	(a + b = x )において、a の値だけが決まっていても、b も x も「解」は無限にある。これらの議論は、その無限にある
	「解」を一つ一つ並べていっているようなものである。





	
	3.三角縁神獣鏡の出土数

	まだ未発掘・未調査のものは置くとして、現在遺跡から出土したとされる三角縁神獣鏡の、都道府県別出土数は以下のよう
	になっている。これは安本教授が公表された資料を基に集計したものだが、公開されたこういう資料にしても、研究者によ
	りその数値が異なるのである。この辺りが我々アマチュアからすれば何とも不可解な部分だ。それは一体どういう理由によ
	るのだろうか。学会内で統一された出土物のデータベースが、一刻も早く整備される事を望みたいものである。

都道府県 10種の魏晋鏡 三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡の主な出土遺跡
およそ
邪馬台国時代
およそ
古墳時代
合計

福岡県
佐賀県
大分県
長崎県
宮崎県
熊本県
鹿児島県
20
4
1
2
0
0
1
17
5
1
1
3
0
0
37
9
2
3
3
0
1
49
5
11
0
3
4
1
一貴山銚子塚古墳8面、若八幡宮古墳、神蔵古墳、石塚山古墳、御陵古墳、原口古墳3面
杢路寺古墳、浜玉町谷口古墳
宇佐市赤塚古墳出土5面、免ケ平古墳、亀甲山古墳

西都原2号墳、持田45号墳
栗崎町城の越古墳

小計 28275573 

山口県
島根県
鳥取県
岡山県
広島県
1
0
1
0
0
1
5
4
10
3
2
5
5
10
3
9
5
7
24
5
長光寺山古墳、松崎古墳、宮洲古墳、竹島古墳
神原神社古墳、八日山古墳、大成古墳、造山3号墳
馬ノ山4号墳、普段寺1号墳、大将軍古墳、国分寺古墳、普段寺山1号墳
備前車塚古墳11面、岡山市湯迫車塚古墳、鶴山丸山古墳、金鶏塚古墳、丸山2号墳
中小田第1号古墳、白鳥神社、掛迫6号墳、潮崎山古墳
小計 2232550 

愛媛県
香川県
高知県
徳島県
0
0
0
0
1
3
1
0
1
3
1
0
3
6
0
3
大下田古墳、国分古墳
猫塚古墳、茶臼山古墳、奥3号墳

国府古墳、宮谷古墳
小計 05512 

兵庫県
大阪府
京都府
奈良県
滋賀県
和歌山県
三重県
2
1
1
0
0
0
0
8
11
14
2
2
1
3
10
12
15
2
2
1
3
44
38
66
100
13
2
15
神戸市西求女塚古墳、へボソ塚古墳、権現山古墳、城の山古墳
高槻市阿武山古墳、安満宮山古墳、和泉市黄金塚古墳、万年山古墳、茶臼山古墳
椿井大塚山古墳32面、長法寺南原古墳、物集女古墳、森尾古墳
天理市黒塚古墳33面、御所市鴨都波古墳4面、広陵町新山古墳9面、桜井市金崎
八日市市雪野山古墳、大岩山古墳、六地蔵岡山古墳
和歌山市岩橋千塚古墳
久保古墳、筒野古墳、神武山古墳、高塚山古墳
小計 44145278 

岐阜県
愛知県
静岡県
長野県
福井県
山梨県
新潟県
石川県
0
0
0
0
0
0
0
1
2
2
1
2
1
0
0
2
2
2
1
2
1
0
0
3
16
18
10
2
2
3
0
2
矢道長塚古墳5面、岐阜市坂尻1号墳、南濃町円満寺山古墳、千引奥津社
小木古墳群、東海市兜山古墳、白山藪古墳、井川大塚古墳、天王山古墳
上平川大塚古墳、赤門上古墳、磐田市松林山古墳、連福寺古墳、銚子塚古墳
更埴市将軍塚古墳
福井市花野谷古墳
銚子塚古墳、大丸山古墳

親王塚古墳
小計 1101153 

群馬県
栃木県
埼玉県
東京都
神奈川県
千葉県
茨城県
0
0
0
0
0
0
0
1
1
0
0
0
0
0
1
1
0
0
0
0
0
12
0
0
0
2
2
1
前橋天神山古墳、芝根7号墳、茶臼山古墳、所在古墳



川崎市白山古墳、平塚市真土大塚山古墳
手古塚古墳、城山1号墳、

小計 02217 

福島県
宮城県
0
0
0
0
0
1
1
0
会津大塚山古墳

小計 0000 
合計 35108143484 

	
	上記の表から明らかなごとく、三角縁神獣鏡の出土は圧倒的に近畿地方に偏っている。全国出土数の半分以上が近畿圏に集
	中しているのである。
	数字だけを見ても、フーンそんなもんか、という気がするが、以下のグラフを見るといかにも多いのが一瞬で理解できる。
	会社の資料はもちろんだが、多くの論述においても、図やグラフというのは実に大きな働きをするものである。


	
	ここにおいて、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だという事になれば、これで邪馬台国は近畿に決まりである。北九州にあった邪
	馬台国から、近畿圏に鏡だけを運んでくるわけはないからだ。当然、近在に居た配下の豪族達に鏡を配賦したのであろうし、
	邪馬台国の卑弥呼の勢力は、近畿一円に及んでいた事がはっきり見て取れる。いや近畿圏のみならず、西日本を中心として
	ほぼその当時の日本を既に支配していた事になる。しかし伝世などなかったとすれば、三角縁神獣鏡は明らかに4世紀にな
	って出現した鏡であるし、邪馬台国時代が終りをつげて、古墳時代の幕開けに、急速に邪馬台国とは違う勢力が近畿に出現
	した証拠にもなる。だとすれば、卑弥呼の鏡は北九州一円に散逸している前漢鏡・後漢鏡という事になって、邪馬台国は北
	九州である可能性が俄然高くなる。




	
	4.三角縁神獣鏡の同笵鏡

	同笵鏡(どうはんきょう)とは、鏡の文様から細かい傷まで全く同じ特徴を持つ鏡を言う。同じ鋳型で何枚も作られた。1
	つの鏡に粘土を押し付けて型をとり、それを鋳型として複製を作るものは同型鏡と言われる。明らかに同型鏡のほうが、文
	様や傷は次第にぼやけてくる。三角縁神獣鏡には、この同笵鏡が際だって多い。88組とも、96種類とも言われ、500
	枚近くのうち275枚が同笵鏡だというデータもある。奈良県天理市の黒塚古墳で見つかった33枚の三角縁神獣鏡のうち
	3枚が、これまでに関東や四国で見つかっている鏡と同笵鏡である事が判明している。
	また京都府山城町の椿井大塚山古墳から出土した32枚の三角縁神獣鏡のうちの何点かと同じ鏡を出土した古墳は、北は群
	馬県の三本木から南は宮崎県持田まで23ヶ所の広範囲に散らばっているそうである。三世紀後半の弥生時代に、そんな広
	範囲に鏡を分散することが果たして可能だったのか、騎馬の習慣を持った民族が、馬に乗って分配するまで不可能なのでは
	ないかという意見や、既に中央集権を成し遂げていた邪馬台国が、全国から馳せ参じた臣下に持ち帰らせたのだとする意見
	などが対立している。







	
	5.紀年銘鏡

	古代の鏡の背には、模様の他に文字が刻まれているものがありこれを「銘文鏡」と呼ぶが、その中でも中国の年号が書かれ
	ていて製造年が特定できるものを紀年鏡あるいは紀年銘鏡と呼んでいる。「魏」の時代の年号を持つ紀年鏡としては、以下
	のようなものが知られている。

	・京都府峰山・弥栄町  大田五号墳出土    青龍三年銘方格規矩四神鏡 1994出土
	・大阪府高槻市     安満宮古墳      青龍三年銘方格規矩四神鏡 1997年出土
	・島根県加茂町神原   神原神社古墳出土   景初三年銘三角縁神獣鏡  1972年出土   文化庁蔵
	・大阪府和泉市上代町  和泉黄金塚古墳出土  景初三年銘画文帯神獣鏡  1951年出土   東京国立博物館蔵
	・京都府福知山市天田  天田広峯遺跡出土   景初四年銘盤龍鏡     1986年出土 京都府福知山市教育委員会蔵
	・伝宮崎県児湯郡高鍋  持田古墳出土     景初四年銘龍虎鏡     1986年公表   辰馬考古資料館蔵
	・山口県新南陽市    竹島家老屋敷古墳出土 正始元年銘三角縁神獣鏡  明治21年発見 1980年解読
	・群馬県高崎市柴崎   柴崎蟹沢古墳出土   正始元年銘三角縁神獣鏡          東京国立博物館
	・兵庫県豊岡市     森尾古墳出土     正始元年銘三角縁神獣鏡  1917年出土 












	また、「呉」の年号が記された鏡はこれまでに2面しか出土していない。 

	・山梨県三珠町     狐塚古墳       赤烏元年(238)平縁神獣鏡
	・兵庫県宝塚市     安倉高塚古墳     赤烏七年(244)平縁神獣鏡


	景初三年は、魏志倭人伝に言う卑弥呼の使者が魏を訪れた西暦239年と考えられており、鏡を持ち帰った前年に当たるた
	め、三角縁神獣鏡の出土当初は、これこそ卑弥呼の鏡であるとして脚光を浴びたが、その後、魏では存在しない年号(景初
	四年銘)を持った鏡が出土して、俄に三角縁神獣鏡=国産鏡説も勢いを盛り返して、今日まで決着は付いていない事は前述
	した。ちなみに青龍三年は235年、正始元年は240年である。

	銘文は、学者によれば21のパターンに分かれるそうで、「中国の年号、地名、鋳造の工房、作者名、それに縁起の良いこ
	とを現す吉祥文、神仙や霊獣の名前」等々が刻まれている。銘文鏡の主なものとしては以下のようなものがある。


	・福岡県・沖ノ島出土の三角縁神獣鏡 
	 銘文、四方に「天」「王」「日」「月」

	・伝島根県神原神社古墳出土の「景初三年陳是作銘」三角縁同向式神獣鏡
	 銘文「景初三年、陳是作鏡、自有経述、本是京師、杜地命出、吏人銘之、位至三公、母人銘之、保子宜孫、寿如金石兮」	

	・兵庫県揖保郡・権現山51号墳の仙人鏡。
	 銘文「張氏作鏡真巧、仙人王喬赤松子、師子辟邪世少有、渇飲玉泉飢食棗、生如金石天相保兮」。

	・奈良県天理市ホケノ山古墳出土の画文帯神獣鏡
	 銘文「吾作明鏡、鍛錬三剛、配像世京、統徳序道、敬奉臣良、彫刻無祀、百身挙栄衆事主、世徳光明、富吉安楽、子孫繁
	 昌、士圭高升、生如金石、其師命長」

	・大阪府柏原市国分神社蔵の三面の鏡(二面が三角縁神獣鏡、一面は盤竜鏡)。大阪市立歴史博物館蔵。茶臼山古墳出土。

	 (1).三角縁神獣鏡
	     第一の銘文「吾作明竟真大好浮由天下□四海用青同至海東」。第二の銘文「君宜高官」。
	 (2).徐州・洛陽鏡 三角縁四神四獣鏡
		「新作明竟、幽律三剛、銅出徐州、師出洛陽、彫文刻鏤、皆作文章、配得君子、清而且明、左龍右虎、転世有名、
		 師子辟邪、集会并王父王母、遊戯□□□宜子孫」
	 (3).平縁盤龍鏡
		「青蓋作竟、四夷服、多賀国家、人民息、胡虜殄滅、天下復、風雨時節、五穀熟、長保二親、得天力、傳告后世、
		 楽毋極」

	・群馬県柴崎蟹沢古墳出土の「正始元年陳是作銘」三角縁同向式神獣鏡
	 銘文「正始元年、陳是作鏡、自有経述、木自猟師、社地命出、寿如金石、保子○○」


 

黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文



	
	6.結論

	「三角縁神獣鏡の謎」というタイトルにしたが、私見では、これは別段「謎」でもなんでもないと思う。見て頂いたような
	現状を、全く先入観無しに読んでもらえば結論は出ているように思う。私は現在、個人的には邪馬台国が九州であろうが奈
	良であろうがどこでもいい。私の願望に論理を近づけたりねじ曲げたりするような事はしたくないし、公開されている情報
	に基づき、出来るだけ客観的に判断したいと思っている。それからすれば、おのずと以下のような結論に導かれるのだが。

	三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏からもらってきた鏡ではなく、日本で製作された倭鏡である。

	その理由は、

	(1).三角縁神獣鏡が、中国本土や朝鮮半島から一枚も出土していない。また魏晋朝当時の中国ではこれほど大きな神獣
		鏡は存在しないし、中国の学者による調査でも、三角縁神獣鏡とおぼしき鏡はいまだに発見されていない。魏は日
		本向けに三角縁神獣鏡を特別に鋳造したといういわゆる「特鋳説」にしても、1枚のサンプル、鋳型の破片くらい
		は残っていてもよい。魏がそれらをことごとく粉砕してしまうような積極的な理由は何も見あたらない。

	(2).三角縁神獣鏡は全国から既に500枚近く出土している。未出土のものや、古物商、個人蔵のものなども入れると、
		おそらく1、000枚を越えているだろう。卑弥呼が受領した「100枚」どころではない。卑弥呼・台与時代に
		4回の中国への朝貢が行われているが、毎回100枚もらったとしても400枚にしかならない。仮に1000枚
		日本へ下賜したとすれば、魏王朝は長期間三角縁神獣鏡を作り続けたことになり、中国本土からも少なくとも1枚
		くらい出土してもいいはずだ。

	(3).魏では存在しなかった「景初四年」銘の三角縁神獣鏡が2枚発見されている。これは明らかに、この三角縁神獣鏡
		が魏年号の改元を知らなかった海外で、即ち日本で製作されたことを示している。弥生時代に、既に青銅製品の鋳
		型や製品は北九州を中心に多く出土している。古墳時代初頭に、三角縁神獣鏡を製作する技術は既に近畿圏におい
		ても確立していたと考えて良い。中国の考古学者・王仲殊氏は「三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本
		で製作したもの」としているが、これは未検証である。

	(4).三角縁神獣鏡は、すべて4〜5世紀以降の古墳から出土しており、初期大和政権時代の日本製と考えるのが妥当で
		ある。黒塚古墳も考古学的には4世紀後半から末の築造とするのが大勢で、卑弥呼が死去した247〜248年と
		は100年以上の差がある。

	(5).100年間家宝にしてきたのだという、いわゆる「伝世鏡」などという考えは、そもそも、考古学のよって立つ基
		盤を危うくする考え方である。遺物は発見された遺跡のほぼ同時代に使用されていたものと考えるのが妥当である。
		伝世を認めたら考古学などは成り立たない。
	    弥生時代の甕棺に埋葬されている勾玉が、「いやこれは縄文人製作のものだが、何百年にも亘って大事に保管して
		いたのだ。弥生時代になって墓に副葬したのであろう。」というような議論が成立してしまう。殆ど「ねつ造」に
		近い。藤村進一を考古学界が糾弾しないのはこの辺りにその遠因がある。

	(6).黒塚古墳の発掘調査においても、棺内の死者の頭部分に画文帯神獣鏡1枚(後漢鏡画文帯神獣鏡)が大切そうに添
		えられ、三角縁神獣鏡は棺の外に、一段低い評価のごとく並べられている。発掘の実務にあたった河上邦彦氏、石
		野博信氏、菅野文則氏などは、そういう扱いもあって三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないとの見解を打ち出してい
		る。森浩一氏も、他の発掘現場で同様の思いを持ったと述べている。

	ほかにも多くの「三角縁神獣鏡=魏の鏡=卑弥呼の鏡」という説がなりたたないと思える根拠はあるのだが、述べたように、
	これは私が 「三角縁神獣鏡 NOT= 魏の鏡 NOT=卑弥呼の鏡」を前提にして考えているからではない。既存の情報を寄せ集
	めるとどうしてもこういう結論になると思う。三角縁神獣鏡は、初期大和政権黎明期の4〜5世紀の時代に日本で製作され
	たものである。大和盆地には、鏡作神社(石見)、鏡作伊多神社(保津)、鏡作麻気神社(小坂)、 鏡作伊多神社(宮古)、
	鏡作坐天照御魂神社(八尾)などが鎮座しており、これらの場所は明らかに鏡を作った集団が住居していた所の名残りと考
	えられ、 三角縁神獣鏡は初期大和政権時代に、これらの場所で製作されたものと判断できる。





	
	弥生時代の鏡は、多くが北九州から出土している。庄内式土器の時代の鏡は、奈良県よりも、福岡県から出土しているし、
	古鋳の三角縁神獣鏡も、福岡県から出土している。このことは、八咫の鏡についての国内伝承とも重なりあい、三角縁神獣
	鏡の誕生の地が、北九州であることを示唆している。しかし、現在出土している三角縁神獣鏡のほぼすべては、四世紀後半
	の、崇神天皇-景行天皇を中心とする時代に、主に近畿圏を中心に、九州から関東にわたる日本各地で生産されたものと考
	えられる。  

	三角縁神獣鏡に謎はないのである。


	読売新聞97年9月5日夕刊に「飛騨国府シンポジウム」という記事が載っている。そこに、銅研究の第一人者久野雄一郎
	氏の、「分析した4枚の三角縁神獣鏡の鉛の同位体比は、みな神岡鉱山に該当する。」という話があり、それを聞いた明治
	大学名誉教授大塚初重氏は、「私は、従来の鉛同位体比の研究に導かれて、三角縁神獣鏡は中国製だと思っていたので、大
	変ショックを受けました。私が新聞記者なら、明日の朝刊トップの記事にします」とその重要性を強調している。

	【神岡鉱山】国府町の北に接する神岡町にある神岡鉱山は、金、銀、銅、鉛、亜鉛などを産出し、その埋蔵鉱量は世界的規
	模といわれる。銅の産出では、江戸時代に世界最高の記録があるほか、鉛と亜鉛は現在も日本最大の産出量を誇っている。
	従来の鉛同位体比による産地同定が、日本最大の鉛の産出量をもつ神岡鉱山を除外しておこなわれていることに対し、久野
	雄一郎氏は疑問を投げかけている。

	【同位体比】考古学で、青銅器に含まれる鉛の同位体比(鉛の同位体の混合比率)が産地によって異なることを利用して、
	鉛の産地を推定しようというもの。(鉛の産地がわかっても、イコール青銅器製作地ではない。)

	以下は、1989年の京都大学文学部発行『京都大学文学部博物館図録』に収録された、京都大学考古学研究室編の「椿井大塚
	山古墳と三角縁神獣鏡」と題する報告書の抜粋である。お読み頂いて、述べてきた論点と対比して欲しい。どちらが客観的
	かをよく見極めて欲しい。これが京都大学考古学界(?)の現状である。

	
7.推薦図書 鏡に関する著作は、古典に属するものも入れると相当あるが、最近の著作を紹介すると以下のようなものがある。いずれも なかなかユニークな視点に立った論述で非常に面白い。特に、最後の奥野正男氏の著作は、氏がまだ宮崎公立大学の教授 (現在は退職)になるまえの、いわば在野の研究者だった時に書かれた著作で、へたな学者の論文などより遙かに学究的で 読み物としても面白い。アマチュアでもここまでやれるという、我々からすればそれこそ「鏡」のような著作だと思う。 「三角縁神獣鏡」王仲殊(おう・ちゅうしゅ)著: 尾形勇・杉本憲司編訳 学生社 -------------------------------------------------------------------------------- 「三角縁神獣鏡」  その謎を解明する 藤田友治(ふじた・ともじ)著: ミネルヴァ書房  -------------------------------------------------------------------------------- 「三角縁神獣鏡の時代」 岡村 秀典著:  歴史文化ライブラリー   -------------------------------------------------------------------------------- 「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か」 安本美典著: 廣済堂出版 199 -------------------------------------------------------------------------------- 「邪馬台国の鏡」 奥野正男著: 新人物往来社  昭和57年 --------------------------------------------------------------------------------




樋口隆康氏などは、昔は三角縁神獣鏡が絶対にhimikoの鏡だと主張していたもんだが・・・・・




これは謎かもしれない!

	
	2004年、中国の「上海博物館展」が日本の幾つかの博物館で開催されている。殷・周時代から前漢・後漢・唐等に渡る時代
	の、特に青銅器を中心に展示されていて、日本では初めて公開されるものも多く、人気を集めている。私も4回見に行った。
	鼎(てい)や爵(しゃく)や鬲(ゆう)など、ここでは表現できない初めて見るような漢字の器も数多く展示されていた。
	その中に鏡も5,6点展示されていたが、いずれも日本初公開だった。ここに1点、私の目を引いた鏡があった。以下に紹
	介する「張氏車騎神獣画像鏡」である。初め見たとき驚いてしまった。「これは、三角縁神獣鏡じゃないのか!」 大きさ
	と言い、神と獣の神仙画像と言い、何よりも、周縁部の切り口は正(まさ)しく三角形に見える。中国では三角縁神獣鏡は
	出土していないはずではないか。これは何だろう。









	
	さぁ、歴史ファンの皆さん、わかりますか? これは三角縁神獣鏡ではないのでしょうか、形式は全く三角縁神獣鏡のよう
	ですが、この展示ではそうはなっていません。しばらく考えてみて下さい。そして自分なりの一応の結論が出たら、以下の
	段落を右クリックしたままなぞって反転させ読んでみて下さい。
	−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−	
	
	3回目に見た後、私はこの展示を担当している博物館の学芸員に電話をして、この疑問をぶつけてみた。学芸員とは10数
	分間話したような気がするが、彼がこの鏡が三角縁神獣鏡ではないとした理由は、結論から言えば、
	(1).これは後漢の鏡で時代が違う。三角縁神獣鏡というのは魏の鏡であり、魏の時代のものでなければ三角縁神獣鏡と
		は言えない。
	(2).縁は三角のように見えるが、少し丸みを帯びているようにも見える。この鏡の断面図は無いので、三角縁と言える
		かどうかはわからない。
	(3).中国から(三角縁神獣鏡が)出土していないと言っても、中国で魏時代の墳墓はまだ1基しか発掘されていないの
		で、今後出る可能性はある。
	というものだった。
	そして、会話の中では、「三角縁神獣鏡」とは書けないので「張氏作」としました、というような事も言っていた。
	
	−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
	私は、この大きさや三角縁を持つ、まるっきり三角縁神獣鏡のような鏡は、中国には全く存在していないと思っていたので、
	正直この鏡には驚いてしまった。そして学芸員氏の返答にはなにか納得できないものを感じた。これは日本へ持ってきてど
	こかに埋めておけば、即、三角縁神獣鏡と判断されるのではないか。三角縁神獣鏡とこの後漢鏡の形式的な、或いは組成的
	な違いはどこにあるのだろう。後漢と魏。私の思いはこの鏡を見て少し訂正された。まだ謎はあるのかもしれない。
	(2004.5.1)





マスコミ的邪馬台国論への疑問




	
	卑弥呼の鏡」中国製と同成分 強力X線で分析  2004.5.15 asahi.com
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	古墳時代の遺跡から出土し、「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる青銅鏡、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)8枚を、
	世界最大級の放射光施設「スプリング8」で分析した結果、一部の鏡の微量成分が中国製の同時代の青銅鏡とほぼ一致し、
	同じ原料でつくられた可能性のあることが分かった。魏志倭人伝は邪馬台国の女王・卑弥呼が魏から「銅鏡百枚」を与えら
	れたと記しており、これが三角縁神獣鏡にあたるとする説がある。
	一方で、中国での出土例がないことから三角縁神獣鏡のすべてを日本製と見る考古学者もいて、分析結果は製作地論争に新
	たな議論を呼びそうだ。 
	青銅鏡のコレクションを持つ京都市の泉屋博古館(せんおくはくこかん)(樋口隆康館長)と、スプリング8を運営する兵
	庫県三日月町の高輝度光科学研究センターが共同で分析に取り組んだ。15日午後、京都市で開かれる文化財科学会大会で
	発表する。強力なX線を鏡に当てて、不純物としてごく微量に含まれている銀とアンチモンの反応の強さを調べた。この方
	法で、同館所蔵の中国の戦国時代(紀元前3世紀)から三国西晋時代(3世紀)にかけての鏡69枚と、古墳時代前・中期
	(3〜4世紀)の三角縁神獣鏡ではない日本製の鏡18枚を分析したところ、中国製の各時代の鏡と日本製の鏡はそれぞれ
	異なるまとまりをつくった。 
	その上で、同館にある三角縁神獣鏡8枚を同方法で分析した結果、6枚からは三国西晋時代の年号が入った中国製鏡と近い
	測定値が得られ、残る2枚は日本製のまとまりに入った。 
	中国製鏡と近い数値を示した6枚のうち、2枚は京都府内の古墳で出土したものだが、ほかの鏡の出どころは不明。中国の
	鏡と異なる反応が出た2枚については、粗雑な文様などから、これまでも中国製を模倣した日本製と見られていた。 
	同館の広川守・学芸員は「断定するには鏡をもっと多数分析する必要があるが、材質からは三角縁神獣鏡の一部が中国産で
	ある可能性が高まったのではないか」と話している。 
	「魏志倭人伝」には、邪馬台国の女王・卑弥呼が三国時代の239年、魏王朝に使いを送り、その返礼で金印と「銅鏡百枚」
	を与えられたとの記述がある。三角縁神獣鏡には239年にあたる魏の年号が記されたものがあり、古代中国の思想を題材
	にした文様などから中国製が多いと考える学者が主流だ。 
	一方、三角縁神獣鏡が国内の3〜5世紀の古墳などから500枚以上も見つかっているのに中国では1枚も出土していない
	ことなどから、日本製と見る説も根強く、論争が続いている。 (05/15 16:14) 



	
	「卑弥呼の鏡」中国製と成分一致、産地論争に一石   2004/5/16/01:35 読売新聞
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	中国製の可能性が高いとされる三角縁神獣鏡(手前)。奥は国産とされる

	「卑弥呼の鏡」といわれ、国産か、中国製かの論争が続く「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」に、邪馬台
	国(3世紀)と同時期の中国製の青銅鏡と微量成分の割合がほぼ一致する鏡があることが、大型放射光施設「SPring
	―8」(兵庫県)の分析でわかり、泉屋(せんおく)博古館(京都市)が15日、発表した。 中国製説を補強する新たな
	資料となりそうだ。 
	 同館の依頼で、同館所蔵の8面に、同施設で強力なエックス線を当て、銀とアンチモンの割合を高精度で分析。うち6面
	は精巧な文様から、中国製とみられてきたが、同様に分析した三国西晋時代(3―4世紀)の中国鏡と成分比率がほぼ同じ
	だった。国産とされる2面は不純物が多かった。同館は「微量成分は原材料の産地、製造法の違い。中国で作られた可能性
	が高い」と指摘している。 
	 魏志倭人伝は「卑弥呼に銅鏡100枚を贈った」とし、近畿に多く出土する三角縁神獣鏡を、この鏡とみる説が根強い。
	しかし、国産説の有力根拠として、中国に存在しない年号「景初4年」を刻む鏡もあり、製作地特定が論争になってきた。 
	 今回の分析手法が、「景初4年」など他の三角縁神獣鏡に応用されれば、論争が活発化するとみられる。 
	 一方、国産説の河上邦彦・奈良県立橿原考古学研究所付属博物館長は「中国の材料を使えば日本で作っても同じデータが
	出るはず。中国製と断言できない」としている。






	
	見て頂いた一連の報道は、はっきり言ってしまえば、マスコミを使っての世論操作にも等しい。泉屋博古館の樋口隆康
	館長は、邪馬台国畿内説の急先鋒であり、「三角縁神獣鏡=中国産製品」を唱える近畿考古学界のドンである。以前は、
	三角縁神獣鏡は絶対に中国産の製品であると主張していたが、橿原考古学研究所の所長時代に、部下の河上邦彦氏など
	が「三角縁神獣鏡は魏の鏡ではない。三角縁神獣鏡は国産である。」と唱えたものだから、ここ数年は、「画文帯神獣
	鏡が卑弥呼の鏡である可能性は十分ある。むしろ画文帯神獣のほうが三角縁神獣鏡より重視されてよい。」などと自説
	を訂正していたものだが(前掲新聞記事:日本経済新聞10月27日)、ここへきてまた自信が湧いてきたように見える。

	これらの一連の報道は、突き詰めてしまえば「三角縁神獣鏡の原材料である青銅の成分が、中国産鏡と一緒だ。」とい
	うものである。つまり「成分である青銅が中国産だから、三角縁神獣鏡も中国製」である、と結論づけていることにな
	るのだが、これは大きな過ちである。そもそも古代の青銅製品、銅鐸や鏡や矛などの原材料が国産品ではない(多くは
	中国産)事は、歴史学界では常識である。今までに発見されている銅鐸は、まず殆どの原材料が中国産の銅である。
	しかしこれを中国製品だという人はいない。中国では日本式の銅鐸が存在しないからである。銅鐸が日本固有の祭祀用
	具という見方は、朝鮮・中国でも定説なので、ことさら「銅鐸=中国製」を唱える学者はいない。
	しかるに、鏡となるとどうして中国製品だ、中国製品だと騒ぎ立てるのだろうか。

	それは、いままで見てきたように、「邪馬台国を近畿に持ってきたい」一心からである。何度も述べたが、私は邪馬台
	国が北九州であろうが畿内であろうが別段かまわない。そのことは、私の人生にそんな大きな影響を与えることではな
	いし、私の「邪馬台国探しの旅」は、たくさんある私の人生の楽しみの一つで、少し知的なゲームのようなものである。
	しかしながらその探求には、あくまでも客観的に、公表された事実に基づいて、一番合理的な解釈に基づいて判断した
	いとつねづね思っている。しかし、畿内に居住し活躍する一部の考古学者達は違うようである。まるで、邪馬台国が近
	畿にあったという「事実」は、「考古学上、文献上明らかな事実」に目をつむってでも、何が何でも証明しなければな
	らない、人生の最大関心事であるかのように思える。

	私は九州生まれである。大学を卒業するまで博多にいた。30代の終わりに東京に3年間赴任したが、それ以外はずっ
	と大阪で生活している。住まいこそ大阪、兵庫、京都、そして又大阪と転居したけれども、生活圏はほぼ大阪である。
	今年で、福岡と大阪で暮らした年数が同じになった。武田鉄也じゃないけれど、「思えば遠くへきたもんだ」。会社の
	東京人達の目から見ると、私などは典型的な難波の商人(あきんど)風に見えるらしい。しかし根っからの大阪人達を
	見ていると、今でも自分はよそ者であるという感じを拭えない。まだ大阪人にはなり切っていないという気がする。な
	りたいのかどうかも良くわからない。博多から来たという事と、東京に3年暮らしたという経験から私なりの「大阪観」
	を少し話してみたいと思う。

	東京は理屈の街、大阪は情の街とはよく言われる言葉だが、これは当たっていると思う。大雑把に言って「論理」の街、
	「感情」の街という区分は正しい。BUSINESSの分野に置いては勿論「論理」が先行するのだが、局面局面において「感
	情」が影響している場合も多い。又、誉め言葉として「権威におもねらない。」「反骨精神がある。」とも良く言われ
	る。しかしこれは裏返せば「自分勝手」「わがまま」という事と表裏一体である。赤信号でも平気でわたるし、路上駐
	車は全国ワースト1である。体裁や体面にはあまりこだわらない。ザックバランで初対面の相手にも平気で自分の悩み
	をうち明けたりする。こんな事は東京ではまずあり得ない。こういう違いは一体どうして生まれたのであろうか。それ
	は、東京、大阪という街の、歴史的な成立過程に起因している。周知のように、大阪には藩主が居なかった。江戸時代
	大阪は幕府の直轄地だった。代官がいるのみだったのだ。ある学者によると江戸時代中頃には、大阪の人口は町人14万
	人に対して侍900人だそうである。 侍が町を歩いている光景など殆ど無かったに等しい。力を持っていたのは豪商であ
	り町役だったのだ。殆どのもめ事や相談事は侍達ではなく自分たちで解決していたであろうという事は容易に想像でき
	る。こんな町では理屈や法則はあまり通用しない。コネとカネがモノを言う。
	一方江戸では、地方から来ている侍達でごったがえしていた。庶民は下町の長屋に押し込められ、藩邸や蔵屋敷のひし
	めく山の手には行くこともなかったに違いない。慣習や風習の違う侍達が付き合うためには世間の常識や法則を遵守す
	るしかない。ルールを守り、理詰めで付き合うからどうしても体面や世間体は重視される。庶民も侍達の風習に染まっ
	ていく。こうして理屈の町江戸が形成されていったのだ。
	こういう違いが現在の東京、大阪を形成している。町の大きさは勿論東京のほうが圧倒的であるし、文化度もダントツ
	に違う。現在、歌手がRecordingできる本格的なスタジオは東京には100近くあるが大阪には2軒しかない。あらゆるモ
	ノが東京を中心に廻っている。その反動で大阪人は東京を嫌う。これは裏返せばコンプレックスである。しかしその劣
	等感が新たな東京にはないエネルギッシュなものを生み出している事もまた事実である。阪神タイガースのファンの心
	理は殆どこのコンプレックスを裏返した敵愾心である。私自身はいつまでこの大阪に住むのかわからないし、別に大阪
	が好きでもキライでもないが、大阪の町が持っている「庶民しか居ない」空気のようなものには愛着を感じている。

	つまり、大阪を中心とする近畿人は、どんな田舎者より「土着性」が強いのである。それは学者達にも共通している。
	邪馬台国近畿説を狂信的に唱える学者連中は、島原半島に生まれたから邪馬台国は島原にあったとか、四国で生まれた
	から邪馬台国は四国にあったとする輩とまったく変りがないのである。自説の為にはマスコミをも利用するし、また、
	そのマスコミ人も近畿人だったとしたら、もう歯止めがかからない。

	Springー8という、さも最新式の分析で「三角縁神獣鏡=中国産製品」が成立したように思わせるような記事(或いは
	発表)の内容だが、その科学的な分析結果は、年輪年代法や炭素14・年代測定法などに比べるとはなはだ粗い。また、
	泉屋博古館が比較したとされる「中国製鏡」も、樋口隆康氏たちが「中国製」と判断した鏡を用いている。記事をよく
	読んでいただければ、はなはだ不正確な表現と巧妙な言い回しで、邪馬台国=畿内を強調しようという意図が見て取れ
	る。もちろん、新しい事実や新しい考え方・発想でその是非を世間に問う内容の発表記事なら大歓迎である。真摯な畿
	内説論者たちのまじめな意見には傾注すべきであるが、昨今の一部の研究者(特に畿内の考古学者たち)には、信じら
	れないような頭の構造をした人たちがいる。そして、それにマスコミが踊らされているのが現状である。あれだけの捏
	造事件を経験しながら、全く「懲りない面々」というほかない。


	以下は、「季刊邪馬台国85号」に載った、編集長安本美典氏がこの一連の報道に対して、感想を求めた森浩一氏から
	の返答である。	
	 あいかわらずご健筆の様子、頼もしく思います。「季刊邪馬台国」に連載された奥野正男さんの「神々の汚れた手」
	も、果たしてどれくらいの考古学関係者(研究者と学生を含む)が読んだのか、不安を感じています。
	私も「魂の考古学」(五月書房)で、「魂を失う考古学者」を渾身の力をこめて書きました。さらに「歴史評論」7月
	号で、「日本考古学と『捏造』『誇張』について」も語りました。
	要するにいつまでも混迷のつづく学界では前途が見えません。そのため研究の基礎資料には、出土地と出土状況の確実
	な一等資料を使うこと、それと学会発表のまえにマスコミを利用して世論操作することを恥とする姿勢が欲しいのです。
	出土地不明の銅鏡を分析すること自体時代おくれでしょう。これでは混迷を助長するだけです。もちろん新しい装置に
	なれるためにテストを行うのは自由ですが、その結果はマスコミに発表するほどのものではないでしょう。
	新聞やテレビに事前に配付された「三角縁神獣鏡の原材料産地を探る」のペーパーには、「三角縁神獣鏡は紀元三世紀
	を中心に製作されたと考えられ、これまで邪馬台国の女王卑弥呼が中国魏の皇帝から授かった鏡といわれたことがある」
	とマスコミの飛びつきそうな文章があります。
	第一、「紀元三世紀を中心に製作された」といえば、二世紀にも四世紀にもあるように聞こえますが、四世紀にはあっ
	ても、二世紀の当該の鏡の存在は聞いたことはありません。不正確な情報がマスコミを混乱させ、そのことが度重なる
	につれて、日本人に曖昧な知識をまき散らしてしまうのです。
	今回の発表関係者が、もし一連の行為に何らかの問題点も感じていないとすれば、何をかいわんやです。繰り返します
	が、出土地不明の鏡は古美術品ではあっても、第一等の考古学資料ではありません。この辺りは、考古学についての認
	識の違いといってすませることかどうか、不安はつのるばかりです。以上が感想です。

	安本美典様								森浩一



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