Music: Godfather









	「役行者と修験道」をとりまく背景
	1999.9.25−11.14 香芝市二上山博物館開催「役行者と葛城修験」展 
	「展示解説書1.役行者と葛城修験(1).修験道の盛衰」より抜粋
	
	奈良時代の仏教は、国家仏教として七堂伽藍(しちどうがらん)のなかで政府の保護を受ける学問僧と、日本古来の山岳
	信仰が外来の道教や仏教の影響を受け、山岳修行により超自然の獲得に努める私度僧(しどそう)があった。役行者もそ
	の一人で、その呪術的な力を民衆に示し、自由に布教活動を行い、次第に勢力を増していった。そのため、僧尼令(そう
	にれい)等による規制もあったが、途絶えることなく平安時代の密教に継承され、新たな展開をとげた。
	天台・真言両宗の密教が比叡山・高野山を開き、山岳修行を奨励したことから金剛・葛城、吉野・大峯・熊野などの各地
	の霊山に修験者が自らの験力(げんりき)を高めるために入峯(にゅうぶ)した。このような山岳宗教の隆盛にともなっ
	て、役行者を修験道の開祖として仰ぐようになった。
	葛城修験が大峯修験とともに最盛期を迎えた鎌倉時代前後頃になって、修験道は組織化され、天台系の本山派と真言宗の
	当山派とに分かれた。熊野は寛治4年(1090)に園城寺の僧増誉が白河上皇の熊野御幸の先達を努めたことにより、園城
	寺に属し、園城寺あるいは上皇から賜った聖護院(しょうごいん)を本拠とした。これが本山派であり、天台系で役行者
	を開祖と仰いだ。それに対して、吉野から大峯山にかけては、興福寺などの後盾のもとに、大和を中心とする三十六ケ寺
	で組織された当山三十六先達があり、室町時代になると真言宗の醍醐寺三宝院を本拠として当山派と称し、聖宝(しょう
	ほう)を開祖と仰いだ。また、全国各地の霊山においても組織化がおこってきたが、大和中南部の金剛・葛城、吉野・大
	峯・熊野は他地方とは一線を画しており、修験道の中枢であった。
	また、中世には葛城を顕(けん)の峰(密教以外の仏教)、大峯を密(みつ)の峰(密教)と呼び、金剛・葛城の峰中、
	神霊が籠もる28の地に「法華経」28品を1巻ずつ埋納する経塚が祀られた。この経塚は和歌山県紀淡海峡の友ケ島を
	起点に、和泉山脈、金剛山脈を北上し、金剛山、葛城山、二上山、逢坂を経て明神山北麓の亀の瀬まで続いた。この28
	の経塚をひとつながりの行場として葛城修験は形成された。
	なお、大峯修験は75の靡(なびき)と宿(しゅく)を祀った。本山派は法華の峯として葛城修行を重視し、大峯修行と
	は別に集団で入峯し、当山派は大峯修行の後で葛城修行をおこなった。葛城28宿の名称や位置は資料によって相違が見
	られるが、「葛嶺雑記」(かつれいざっき:嘉永3年=1850刊)を基本に、聖護院等の調査によってほぼ確認されている。
	現在、聖護院により28宿の行場を廻る葛城修験が復興されている。
	近世になると、山岳で起居していた修験者達は、全国各地を遊行(ゆぎょう)し、寺社のまつりで護摩をたき、雨乞いや
	病気平癒の加持祈祷をおこなった。また、円空や木喰明満のように、自らの修行として作仏するものもあった。中期以降
	は、庶民が講(こう)をつくり、各地の霊山に登って修行するようになっていった。
	近代に入って、明治の神仏分離令、修験道廃止令によって本派本山に戻って天台・真言両宗に帰入するように命じられ、
	本山派、当山派ともそれぞれに天台宗・真言宗に包括された。第二次大戦後は、宗教法人法の試行により、本山派の聖護
	院は修験宗(現本山修験宗)、当山派の真言宗醍醐派など、多くの修験集団が独立した。




	私事で恐縮だが私は学生時代にワンダーフォーゲル部に所属していた。入部するまでは、特に山登りが好きという訳では
	なかったが、自然を相手にするスポーツというのに惹かれたのだ。我がクラブは、「真のワンダーフォーゲル活動」を目
	指していたので、山登りばかりでなく、川下り、スキー合宿、ロッククライミング等、自然を相手にしたあらゆるスポー
	ツに取り組んでいた。同好会ではなく体育会に属していたのでトレーニングはきつかった。Wifeもそのクラブの後輩だ。
	結婚してからも、子供が出来てからもよく山海や川へ行った。北アルプス、八ケ岳、浅間山、田沢湖等々。しかし子供達
	も大きくなってもう親の遊びに付いてこなくなり、私自身も仕事が忙しくなってアウトドア・スポーツからしばらく遠ざ
	かっていたが、40代半ばになって、ひょんな事から2つの山の会に所属する事になった。山の会と言っても中年の集ま
	りだから、もう学生時代のようなトレ−ニングの意味合いは薄い。関西の低山を歩くトレッキングである。生駒山、葛城
	山、京都北山、比叡山、高見山など近畿の山々を歩き回るようになった。ちょうど、再び歴史に興味を持ちだした頃であ
	った。




	近畿の山々を巡っていると、たいてい山中か麓に古い寺がある。昼食を取ったり、休憩にそれらの寺の境内を使わせて貰
	う事が多かったのだが、ある時私はふと気づいた事があった。それは、寺の縁起を読んでいて思ったのだが「役行者開祖」
	という山や寺が近畿にはやたら多いのである。役行者(えんのぎょうじゃ)又は役小角(えんのおづの)という人物が、
	京都の山奥から奈良・和歌山に至るまで、あらゆる山寺を開山しているのである。「なんだこりゃ。ここも役行者かい!」
	という所だらけなのだ。後で知ったが、役行者が開いたという修験場や寺は、近畿一円ばかりか全国に及んでいた。歴史
	倶楽部を主宰してからは、みんなで訪ねる旧跡の近くには殆ど「役行者開祖」の修験場があったが、さすがに歴史倶楽部
	と言うだけあって、みんな幾らかづつは役行者についての知識を持っていた。私は、「修験僧の元締め」くらいの知識し
	か無かったのでみんなの話に耳を傾けたのだが、それにしてもなぜ一人でこんなに広範囲を開山できたかの疑問は残った。
	ある人は、「役行者は忍者の祖で、山を一日に10山位駆け登るなんざ朝飯前やったんよ。」と言い、ある人は、「役行者
	は実在の人物では無い。」という。又ある人は、「役行者の弟子達が手分けして全国に散ったのさ。」と説明してくれる。




	一体「役行者」とはいかなる人物なのか。文献によると、役行者が実在したと思われる唯一の記述は『続日本記』文武天
	皇三年(699)の記述に、「役君小角は葛城山に住み、呪術をもって称えられたが、弟子の韓国連広足(からくにのむらじ
	ひろたり)に讒訴(ざんそ)され、伊豆島に流された」とあり、続いて、巷間伝わる話として、「小角はよく鬼人を使い、
	水を汲ませ、薪を取らせた。もし鬼人が命に従わないときは、呪をもってこれを縛った」と伝えている。これが唯一、信
	頼できる文献に現れる役行者で、これをもって一応実在はしていたらしい、というのが通説のようである。しかしその後
	の風評は実に多彩で、まさしくスーパースターと呼ぶべき縦横無尽の活躍をし、宗教史に偉大な足跡を残している。天を
	飛んだ、谷から谷を一瞬で渡り鬼人を操って様々な土木工事を行った、妖惑の術を用いた、などと伝承されている。
	伊豆から大宝三年(701)年に帰国し、68才の時摂津の箕面山で没したとも言う。終焉についても諸説紛々で、天に飛
	去ったといい、或いは、海を渡って彼の地に消えた、いや唐に着いたと様々である。実在したとすれば、役行者は奈良時
	代の初め頃に没したと思われるが、平安時代中期以降の役行者伝説は、『三宝絵詞』『本朝神仙伝』『今昔物語』などに
	書かれ、鎌倉時代になると『古今著聞集』『私聚百因縁集』『元亨釈書』等に詳しい。これらの書を通じて「役小角」は
	「役行者」と呼ばれるようになり、修験道と強く結びつけられていく。
	修行の場所も生まれ故郷の葛城山から、生駒山、信貴山、熊野山中と広がっていき、やがて全国各地の霊山が役行者の聖
	跡となっていくのであるが、これらの伝承の大元は、実はたった一書である。

	奈良後期から平安初期に生きた薬師寺の僧、景戒(けいかい、ぎょうかい)がまとめたとされる、我が国最古の仏教説話
	集「日本霊異記」に役行者の記事がある。
	上巻の「孔雀王の咒法を修持して異しき験力を得、以て現に仙と作りて天を飛びし縁 第二十八」
	というのがそれだ。ちなみに読み方を記しておくと、十八」
	「くじゃくおうのじゅほうをしゅぢしてめづらしきげんりきをえ、もってげんにせんとなりててんをとびしえにし 第二
	十八」となる。



  


	
	孔雀明王(くじゃくみょうおう)の呪法を修めて霊術を身につけ、この世で仙人となって天を飛んだ話 第二十八
	
	役優婆塞(えんのうばそく)と呼ばれた在俗の僧は、賀茂(かも)の役君(えんのきみ)で、今の高賀茂朝臣(たかかも
	のあそん)はこの系統の出である。大和国葛城上(かつらぎのかみ)郡茅原(ちはら:現在の奈良県御所市あたり)の人
	である。生まれつき賢く、博学の面では近郷の第一人者であった。仏法を心から信じ、もっぱら修行に努めていた。この
	僧はいつも心のなかで、五色の雲に乗り、果てしない大空の外に飛び、仙人の宮殿に集まる仙人達といっしょになって、
	永遠の世界に遊び、百花でおおわれた庭にいこい、いつも心身を養う霞など、霊気を十分に吸うことを願っていた。
	このため、初老を過ぎた40余歳の年齢で、なおも岩屋に住んでいた。葛(かずら)で作ったそまつな着物を身にまとい、
	松の葉を食べ、清らかな泉で身を清めるなどの修行をした。これらによって、様々の欲望を払いのけ、『孔雀経』(くじ
	ゃくきょう)の呪法を修め、不思議な験力(げんりき)を示す仙術を身につけることができた。また鬼神を駆使し、どん
	なことでも自由自在にこなす事ができた。
	多くの鬼神を誘いよせ、鬼神をせきたてて「大和国の金峯山(きんぶさん)と葛城山(かつらぎさん)との間に橋を架け
	渡せ」と命じた。そこで神々はみな嘆いていた。藤原の宮で天下を治められた文武(もんむ)天皇の御代に、葛城山の一
	言主(ひとことぬし)の大神が、人に乗り移って、「役優婆塞は陰謀を企て、天皇を滅ぼそうとしている。」と悪口を告
	げた。天皇は役人を差し向けて、優婆塞を逮捕しようとした。しかし彼の験力で簡単にはつかまらなかった。そこで母を
	つかまえることにした。すると優婆塞は、母を許してもらいたいために、自分から出てきて捕らわれた。朝廷はすぐに彼
	を伊豆の島に流した。
	伊豆での優婆塞は、時には海上に浮かんでいることもあり、そこを走るさまは陸上をかけるようであった。また体を万状
	もある高山に置いていて、そこから飛び行くさまは大空に羽ばたく鳳凰(ほうおう)のようでもあった。昼は勅命に従っ
	て島の内にいて修行し、夜は駿河国(するがのくに:静岡県)の富士山に行って修行を続けた。さて一方、優婆塞は極刑
	の身を許されて、都の近くに帰りたいと願い出たが、一言主の再度の訴えで、ふたたび富士山に登った。こうしてこの島
	に流されて苦しみの三ケ年が過ぎた。朝廷の慈悲によって、特別の放免があって、大宝元年(701年)正月に朝廷の近く
	に帰ることが許された。ここでついに仙人となって空に飛び去った。
	わが国の人、道照法師が、天皇の命を受け、仏法を求めて唐に渡った。ある時、法師は五百匹の虎の招きを受けて、新羅
	(しらぎ)の国に行き、その山中で『法華経』を講じたことがある。その時、講義を聞いている虎の中に一人の人がいた。
	日本の言葉で質問した。法師が「どなたですか」と尋ねると、それは役優婆塞であった。法師は、さては「我が国の聖
	(ひじり)だなと思って、高座から下りて探した。しかしどこにも見あたらなかった。例の一言主大神は、役優婆塞に縛
	られてから後、今になってもその縛(いまし)めは解けないでいる。
	この優婆塞が不思議な霊験を示した話は、数多くあってあげつくせないので、すべて省略することにした。仏法の呪術の
	力は広大であることがよくわかる。仏法を信じ頼る人には、この術を体得できることがかならずあるという事を実証する
	だろう。
	訳文は、講談社学術文庫「日本霊異記(上)全訳注 中田視夫」による。

	
	後世の、役行者について書かれた書物は、すべてこの「日本霊異記」に基づいていると言ってもいい。この説話をBASEに、
	あること無いこと、よってたかって脚色されていくのである。「古今集」などは明らかにこの「日本霊異記」の焼き直し
	だと言っていい。平安から鎌倉へ中世に入ってからも江戸時代になってからも、各山や寺の縁起(由来)が作られていく
	が、それらの作者は旧説に自説を加えて、どんどん「役行者」のイメージを広げてゆく。
	つまり、修験道の分派と発展に伴い、各修験派は自派の開祖を「役行者」として、その生い立ちから果ては終焉に至るま
	で、他派に無い独自の「役行者」像を創造していくのである。熊野に籠もった、富士山で修行した、箕面の滝に千日打た
	れた、九州の英彦山に籠もった等々、まさしく日本中を股に掛けての活躍ぶりである。ついには、それらの話がさも真実
	であるかのように世間に受け入れられ、古代に「超人」が存在した事が明らかな事実であったようになってしまった。
	寛政年間には天皇までもが、その「役行者」の働きに対して「大菩薩」の称号を授けている。つまり「役行者」とは作ら
	れたSUPER HEROなのだ。実際の所、修験道を創設した教祖ではなく、逆に修験者達によって理想的なあこがれとも言える
	行者に祭り上げられた教祖なのである。






	我が国では古来より、山岳は神の領域として崇め奉られる事が多かった。風雲をいただく山頂に、深い谷を取り巻く森林
	に、人々は何か人間の営みを越えたものの存在を感じていたのである。やがて山頂や山中やそして山麓に人々は祠を建て、
	そこに山の神を具現化して日々これを敬うようになっていく。これが神道の始まりだという説もある。一体何時の頃から
	そういう山岳信仰が芽生えたかについては、研究者間でも諸説あり判然としない。遙か石器人の時代からという人もいる
	し、仏教の影響だという人もいる。私見では、それはおそらく縄文中期から末期にかけてではないかと考える。
	即ち、人々が社会性を持つようになってからだろうと思う。人々が集まり、意識はしないまでも社会というものが発生し、
	一定のルールが必要になりだした頃、人間の存在を越えたものが必要だったのではないか。神は常に季節とともに在り、
	風とともに去って行く。そして高い山々から人々の営みを統治している。山は常に神がおわす聖域であり、侵すべからざ
	る霊域だったのである。
	弥生時代になってからは、稲作と農耕の中にも神々が存在し、又渡来人のもたらした新しい技術や渡来人自体も神と見な
	されるようになるが、山岳信仰は根強くそれらの新しい神々と共存しながら日本民族の中に根付いていったものと思われ
	る。律令国家が発生する頃になると、山を対象として神と対話し、己の精神性を高めるための修行を山岳や峡谷で行う者
	達が現れた。これには明らかに外来の道教や仏教の影響が見受けられる。山岳信仰は渡来の新しい教典をも取り込み、時
	代により場所により変化を見せながら今日まで生き残っている。







再びワンダーフォーゲルの話に戻るが、前述したように、私の属していたクラブは体育会所属であったため、トレ−ニングはきつかった。ドイツで始まったワンダーフォーゲル活動は、どちらかと言えば文化活動に近く、肉体の鍛錬を目的としたものでは無かったのだが、この運動が日本に移入されてからは、次第に「心身の鍛練」それも「身」に重きを置くようになっていった。私の大学は九州では一番にワンダーフォーゲル部ができた学校だったのだが、部は私が入学した頃ちょうど10周年だった。30年前、1年生の時に受けたトレーニングは昔ながらの鍛錬で、思い出してももう二度とああいう体験はしたくない。馬鹿みたいに重い荷物を背負わされて山中を歩き、気絶するまで休めないこともあった。水を掛けられ、工事現場のドタ靴のさらに大きなやつのような山靴で蹴られたものである。今になって思えば、これは「修験」ではなかったろうか。 「自然に触れ、自然の持つ大いなる力に敬服しつつ、自然とともに心身をリフレッシュする。」目的のワンダーフォーゲル運動は、日本では古代からの「山岳信仰」と「修験道」に包まれて、次第に「精神と肉体の鍛錬」を目指すものになって行ったのだ。 そうしてみると、「役行者」というのは日本における「体育会系」ワンダーフォーゲル活動の元祖、とも言えるのかもしれない。








	今年(2000年)は「役行者」1300年紀年という事で色んな催しが開催されるようだ。「生誕1300年」なのか
	「没後1300年」なのか「賜号1300年」なのか判然としないが、(何時生まれたのか死んだのかわからないのだか
	ら、どうして1300年と言えるのかもよくわからんが。)とにかく1300年という事らしい。
	(遠忌とあるから没後だろうな、やっぱし。)



頂いたmailに「役行者」と「邪馬台国」の関係は? というのがあったが、まぁ「日本史の謎」番外編と思って下さい。




 


邪馬台国大研究・ホームページ /古代史の謎/ 役行者