SOUND:Round Midnight





	
	出雲王国は実在したか?結論から言ってしまえば、この問いに対する私の答えはYESである。後で述べるような意味合い
	においてであるが、出雲に象徴される一大「山陰王国」は実在したと思う。しかもその「王国」は、はるか紀元前後から大
	和朝廷が成立する古墳時代まで続いていた可能性がある。


はじめに


	1984(昭和59)年の夏、神庭・荒神谷遺跡からの大量銅製品の出現は、従来の出雲観を塗り替えたと言ってよい。それまで
	出雲には目立った遺跡・遺物は出土しないとされていた為、日本史上多くの謎を秘めていたのである。なぜ「古事記」「日
	本書紀」に出雲関係の記事が多いのか、日本神話はどうしてああまで出雲を取りあげているのか、山陰の鄙びた一地方であ
	る出雲に、伊勢神宮を上回る規模で最古・最大の神社が存在しているのはなぜか? これらは誰にも解けない謎として、過
	去多くの研究者や古代史マニア達を悩ませていたのだ。

	神話の持つ歴史性にさほど信頼を置かない歴史学者や考古学者にとっては、山陰地方に考古学的遺物・遺跡の少ないことが、
	「記紀」の歴史性を否定する理由にもなっていた。「記紀」の出雲神話や「出雲の国風土記」はもっぱら文学者や民俗学者
	の研究対象だったのである。それが今回の発見で、全国でそれまで出土していた銅剣の数を上回る358本の銅剣、銅矛16本
	(翌'85年)が出土した。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」
	の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土したのである('85年)。日本神話
	の故郷は、一気に考古学最前線としてのアプローチを受ける事になった。

	この時から出雲に対する認識は一変したと言える。誰もが、出土した銅剣のその量の多さに驚き、多くの疑問が各方面から
	提示され、本格的な研究もやっと端緒についた 1996年(平成8年)、今度は加茂岩倉遺跡から実に39個もの銅鐸が一挙に出
	土した。トンボ、シカなどの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人は殆ど通らないような谷間の斜面に意
	図的に埋められていた。出雲はふたたび世間の耳目を集める事になった。更に同じ年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800m
	にも及ぶ環濠跡も発見されている。もはや出雲は何もない国ではなくなったのである。誰もが出雲王国の存在を予感した。

	更に、1992(平成4)年から昨年(1998年)まで発掘調査された鳥取県の「妻木晩田遺跡」の出現は、後述するようにその周
	辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えたと言ってもよい。

	冒頭で指摘したように、私が表題に掲げた「出雲王国」というのは、ただ島根県だけを指しているのではないことをご理解
	いただきたい。現在では出雲と言えば島根県という事になるが、私の考える「出雲王国」というのは出雲を中心として、西
	は山口県から東は丹後半島から、もしかすると能登半島を通り越して現在の糸魚川あたりまでの広い範囲を考えている。
	勿論、ただ一つの国がこれらの広い範囲を支配・管轄していたとは考えられない。2000年前の紀元前後に、王をいただいた
	唯一つの行政機関がこれらの地域を統括していたとは一寸想像し難い。しかし中国においては「漢王朝」があの広大な領土
	を統治していたのであるから全く可能性が無いわけではないが、現在の所この地方にそれを窺わせる文献も考古学的知見も
	存在してはいない。私の言う「王国」とは「文化圏」と同義である。北九州、畿内とは異なる、環日本海文化を共有する集
	団が存在していたと考える。
	クニとしてはそれぞれ独立し、王や首長のもと原始国家を形成していたと思われるが、これらの人々はある一つの大きな事
	実で互いに結びつき、文化圏を同じくしていた。それは「渡来」である。彼ら環日本海地方の人々は、出身地方こそ違え、
	皆朝鮮半島からの「渡来人」であった。一部中国大陸からの人々も居たかもしれない。北九州と同様な、或いはそこよりも
	進んだ文化と技術を携えた人々が、段階的に日本海側に渡来したのである。
	それは縄文末期もしくは晩期にその萌芽を見て、弥生期に入って本格的に形成され古墳時代中期頃まで続いたと考えられる。





最後に


	私はHP制作には Windows98の「メモ帳」を用いている。IBMのホームページビルダーを一寸試してみたが、使い勝手は
	メモ帳のほうがはるかにいい。そのメモ帳がこの「出雲王朝は存在したか」を編集するのにもう容量が限界だとメッセージ
	を出している。紹介したい先人の業績は山ほどあるが、それそろ結論に入りたいと思う。下の図は、私の考える我が国にお
	ける「渡来」の段階である。





	縄文人は、明らかに旧石器時代、新石器時代と我が国に生きてきた旧人・新人達の末裔であろう。しかしながら、縄文時代
	と弥生時代の人口比を考えると、弥生人は明らかに渡来人である。勿論縄文人との混血という意味においてだが、人口の割
	合から考えるともう圧倒的に弥生人は渡来の人々である。小規模な渡来は遙かな昔から散発的に行われていたと考えられる
	が、本格的な渡来は縄文末期から弥生時代に駆けてであろう。

	それはまず距離的に最も大陸・半島に近い北九州に向かって行われ @ 、
	ついで出雲は北九州とは別個に「渡来人の国」を山陰に築き、その勢力を拡大していた A。 
	その勢力は大和にも及んでいたと考える B。
	やがて出雲を傘下においた北九州勢力は大和を攻めこれを征服する C。
	勢いに乗った新興勢力は矢継ぎ早に周辺部族を征服し、初期王権国家を立てる。そして未だまつろわぬ西国・東国を攻める
	D E。
	今日大和朝廷と呼ばれるこの勢力は、ほどなく全国を統一して中国に倣って律令国家を樹立する。その課程で大陸・半島か
	ら多くのブレーンを呼び寄せ、国家建設のシンクタンクとして重用する F。

	出雲王国は、我が国古代において「渡来系」の主要国家として北九州と並び重要な位置を占めている。続々発掘される最近
	の環日本海地方の遺跡はその証拠である。鳥取県淀江町の「上淀廃寺」の頃まで、いまだ「出雲王国」は権勢を保持してい
	たものと考えられる。



	最後に、最近の出雲に関する新聞記事を一つ紹介してこのHPを終結したいと思う。長時間読んで頂いて深謝。




金のるつぼ出土 【朝日新聞 99.9.28(火)】
出雲  古墳時代に加工か
島根県出雲市上塩治町(かみえんや)の三田谷(さんだだに)遺跡で金属が付着した土器が見つかり、 島根県埋蔵文化財調査センターの依頼を受けた奈良国立文化財研究所が調べた結果、高純度の金が含まれていることが28日までにわかった。
金を溶かすために使われた「るつぼ」とみられる。出土した地層は縄文時代中期(紀元前3000年)から平安時代(12世紀)の層が混在する包含層で、 同センターは「るつぼが古墳時代のものである可能性もある。出雲の地で金製品が作られていたことを示す貴重な発見だ」としている。
金のるつぼは、奈良県明日香村で発見された飛鳥時代(7世紀後半)のものが最古とされており、出雲のるつぼが古墳時代のものと確認されれば、 古墳から出土している金製の副葬品が国内で加工されたことを示す画期的な発見となる。
るつぼの口径は8.2cm、高さ4.9Ccm。外側は火にかけられた跡があり、赤茶色に変色している。内側の2ケ所から高純度の金がみつかり、ほかに銀、銅が付着していた。
製造跡はじめて確認か
【町田章・奈良国立文化財研究所長の話】
古代の金製品は日本製と大陸製の2系統があるとみられていたが、古墳時代に日本で製造されたとみられる跡は確認されていなかった。るつぼが古墳時代のものだとすれば、 それが初めて確認されるという点で意義がある。朝鮮半島から直接か、大和経由で持ち込まれた金を溶かしていたのではないか。

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