Music: Moon River




	魏志倭人伝には「黒歯国」(こくしこく or くろはこく?)と「裸国」(らこく)、「侏儒国」(しゅじゅこく)という国
	の名前が出現する。卑弥呼は楼閣を持った宮殿に住んで、千人のしもべがいる。男が一人この宮殿に出入りしているといっ
	た記事の後、突然女王国の東に国がある、と続くのである。思うに「魏志倭人伝」の記事はどうも脈絡がない。記述が連続
	していないのである。話の内容があっちに飛びこっちに飛びしている。どうも、「記紀」同様この記録も、四方八方からの
	記事を寄せ集めたものではないかという気がする。まぁ、それについては又別の機会に譲るとして、このHPの主題へ戻ろ
	う。

	これら3つの国を巡っても昔から議論はある。しかし邪馬台国や狗奴国を巡るほどではない。むしろこれらの国について本
	格的に記述した文献は見あたらないと言ってよい。邪馬台国や卑弥呼について記述した後、申し訳程度に、「これらの国に
	ついては定かではない」とか「おそらく当時中国が知っていた南方諸国について記述したものであろう」という程度に記述
	されているだけである。しかしそれも無理からぬ所かもしれない。「黒歯国」「裸国」「侏儒国」についての情報は以下下
	段の文章のみなのだ。


	魏志倭人傅(読み下し文:一部)


	倭人は帯方の東南、大海の中に在り。山海に依りて國邑をなす。旧百余国。漢の時、朝見する者あり。今、使訳の通ずる所
	三十国。 郡より倭に至るには、海岸に循して水行し、韓国を歴て、乍は南しあるいは東し、その北岸、狗邪韓国に至る。
	七千余里。 

                       	  (略)

	女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。
	 また裸國、黒齒國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、
	あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。 

                      	   (略)


	下段を訳してみると、「女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。更に侏儒国(しゅじゅこく)が
	その南にある。この國は皆身長が三、四尺(90cm〜120cm)である。女王国を去る事、四千余里である。またその東南に裸国
	・黒歯国があるが、船行一 年で到達する。倭の地は、海の中に島として存在しており、地続きだったり島になったりいる。
	周囲は五千余里程である。」となる。
	「尺」や「里」の解釈を巡っては色んな意見があり、必ずしも標準値というものはないが、侏儒というのが「小さい人」を
	意味するのは概ね定説となっているようである。古代神話の中に、少名彦命(すくなひこのみこと)というこびとの神が出
	現するが、これは一寸法師のようなもので侏儒とは一寸異なるようである。「日本書紀」の巻第三神武天皇(即位前紀己未
	年二月)の部分に以下の記事が出現し、ここに侏儒という言葉があり、これは明らかに背の低い人種の事を記録しているよ
	うだが、何と畿内である。昨年訪れた葛城山麓の「一言主神社」にもこの記述があった。
	
	『己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸将練士卒。是時層富県波丘岬有新城戸畔者。<丘岬此云塢介	佐棄。>又和珥坂下有
	居勢祝者。<坂下此云瑳伽梅苔。>臍見長柄丘岬有猪祝者。此三処土蜘蛛並恃其勇力、不肯来庭。
	天皇乃分遺偏師皆誅之。又高尾張邑有土蜘蛛。其為人也。身短而手足長、与侏儒相類。皇軍結葛網而掩襲殺之。因改号其邑
	葛城。』

	
	訳すと、「己未(きび)の年の春二月の壬辰朔(じんしんついたち)の辛亥(しんがい:20日)に、諸将に命じて兵卒を調
	練された。
	この時、層富県(そほのあがた:奈良市と生駒市の辺り)の波(はた)の丘岬(おかさき)に新城戸畔(にひきとべ)
	と云う者がいた。<丘岬はここではヲカサキと云う。>また、和珥(わに)の坂下(さかもと)に居勢祝(こせのはふり)
	という者がいた。<坂下はここではサカモトと云う。>臍見(ほそみ)の長柄(ながら)の丘岬(おかさき)には猪祝(い
	のはふり)と云う者がいた。この三カ所の土蜘蛛(つちぐも)は、ともにその勇猛さを頼んで帰順しなかった。そこで天皇
	は、軍隊をそれぞれに差し向けて皆誅伐せしめた。又、高尾張邑(たかおわりのむら)に土蜘蛛がいた。その風貌は、身の
	丈が低く手足が長くて侏儒(しゅじゅ)に似ていた。
	天皇軍は葛で網を作って、不意を襲って殺してしまった。それでその邑(むら)の名前を改めて葛城(かずらき:今のかつら
	ぎ)と言う。」(<>内は原文では小文字で表記されている。注記である。)

	「古事記」にも神武天皇が土雲(つちぐも)の八十建(やそたける)と戦う記事があるが、ここでは小さな人々という記述
	はない。これを見ると明らかに「侏儒」という、ある単位でかたまった人々の集団が有ったように思われる。
	元広島大学名誉教授の松崎寿和氏は「侏儒国はコロボックルの事に違いない。コロボックルの話を耳にした漢魏の史官がそ
	れを記録したと考えられないだろうか」と述べているが、コロボックルが弥生時代に広く知られていたとはとても思えない。

 


	「裸国」「黒歯国」についての記事は「記紀」には無いようであるが、「黒歯国」については、その字面から、歯を黒く染
	める風習を持った民族で、やがて日本にもその風習は移入され「お歯黒」として近世まで存続していたという意見がある。
	台湾原住民の間には、ビンロウ(檳榔)を噛む風習があったと言われ、恒春(ホンチュン)半島の懇丁(ケンチョウ)では、
	石棺墓の人骨からビンロウを噛んだ跡が発見されている。ビンロウを噛むと歯は赤黒く斑になり、この斑を取るため歯を一
	様に黒く染めたのではと言われる。沖縄や南西諸島にはビンロウ自体がないため、「黒歯国」はそれより南の台湾ではない
	かと見られている。また台湾原住民族の間では小人伝説があるとも言う。中国にもこの事実は早くから知られていて、文献
	にもあるらしい。私は読んでいないが、「人類学雑誌」47巻3号に、鹿野忠雄博士がこの「台湾原住民族の間における小
	人居住の伝説」を採集し発表しているそうである。


左の図は、倭人伝に記された帯方郡から邪馬台国に至る方位・距離を図示したものである。最小の円内を邪馬台国と考えると、その東にまた倭人の国があって、その南に侏儒国があり、その東南に裸国、黒歯国があるという表現で、この図のようになる。邪馬台国の南には狗奴国があり、その途中に投馬国がある。投馬国は近畿説に立てばこの位置とは異なってくる場合もある。

この図を一応、邪馬台国=北九州説の立場に立って考えてみる。東方の倭人国と言えば四国から東になる。四国だとすればその南に侏儒国に該当しそうな島はない。裸国・黒歯国も同様だ。東方の倭人国を大阪難波から奈良県北部と考えると、侏儒国は南紀白浜辺りに比定できないことはないが、やはり裸国・黒歯国はない。東方の倭人国を九州島内に、例えば東端の国東半島辺りに持ってきて、無理矢理侏儒国を鹿児島あたりに比定し、裸国・黒歯国を更に南の島々に持ってくることは出来るが、倭人伝の記事から判断するという条件の下では、誰が見てもこじつけである。

では邪馬台国=近畿(奈良)説ではどうだろう。東方の倭人国の候補地は山ほどある。どこかにこれを比定したとして、侏儒国に当てはまりそうな所も何とか探し出せるに違いない。では裸国・黒歯国はどうか。これも、中部・東海地方から関東地方に東方の倭人国を持ってくれば、何とか八丈島あたりに設定できる可能性はある。八丈島では、縄文時代の土器が発見されているし、おそらくは縄文人が本土から渡っていっただろうと思われる痕跡もあるので、何とか裸国・黒歯国をこの辺りに比定することは出来るかもしれない。しかし、ただ位置上の問題だけでそんな所に比定していいものかという疑問が残り、なんかスッキリしない。

しかも上記の推察は、いくら信用できないと言っても、里程・行程を全く無視している。里程のみで判断すれば「侏儒国」は、九州説では鹿児島あたり、近畿説では南紀白浜辺りが妥当な距離となる。しかしいずれも、その東南に「裸国」「黒歯国」に該当しそうな処はない。しかも、行程1年の船旅である。あの時代、舟で1年掛かって行くような場所の記憶が、果たして出発地へ正確に還元されるものだろうか。その前に、1年間航行出来るような船や装備・設備がその当時とても存在したとは思えない。1年間の食糧を積んで大海へ出、「裸国」「黒歯国」に至り、さらに倭国へ戻ってきて誰かにその情報を伝達する。それが「魏」の官吏の知るところとなる。3国を太平洋側に求める限り、これは幾ら何でもあり得ない。不可能だ。

勿論、縄文・弥生の航海術を甘く見ては行けないという意見があるのは知っている。南米に多く存在する縄文土器は、太平洋を渡っていったものだという説も、一つの可能性としては認めてもいいだろう。しかし私見では、それはアクシデントのなせる業(わざ)だと思う。たまたま外洋に漁に出ていた縄文人(弥生人・古墳時代人でもいい)が、流されて、魚を食べながら生きながらえて、或いは船の上で死に絶えてミイラになり、もしかしたら人は乗らず漁の間に船だけ流されて、結果的に丸木船が北米・南米にたどり着いたという可能性はあるだろう。しかし計画的に、太平洋に浮かぶ島へたどり着き、再び無事に倭国へ帰還できたとはとても思えない。
航海学の権威、茂在寅雄博士は、「古代日本の航海術」(1981)の中の「航海術的倭人伝の解釈」において、「侏儒国」を熊野附近、「裸国」「黒歯国」をパナマに近いところと想定しているが、これなどは、1年かかればその辺りまでは行けますよと言っているだけのような気がする。とても本気とは思えない。

	
	2008年10月12日、吉野ヶ里遺跡にて茂在先生と。94歳というのに矍鑠としてお元気である。


	ここに一つの仮説がある。この記事は全くのでたらめだ、という可能性である。これも棄てきれない。「倭人伝」は、陳寿
	をはじめとする修史官達が、机上で製作した1つの虚構ストーリーだという考え方である。中国の人々が断片的に知ってい
	た「倭国」についての情報と、その他の国々との情報を組み合わせて作り上げた「偽史倭人伝」だというものだ。それ故、
	ある部分は正確で、ある部分は全くの出鱈目になっている。対馬や壱岐を経て北九州に至る行程は、実際に漢や魏の使者が
	訪れたりしているから、少なくとも伊都国あたりまでは正確だが、それ以降は想像と伝聞情報で成立していると言う意見な
	どは、「邪馬台国」が全く霧の中になってしまう方位・行程情報などを考えると妙に説得力がある事も確かである。

	では、これらの国々を探す手がかりは他に全くないのだろうか? 倭人伝に書かれたあの50字程の文字しか情報がないとし
	たら、おそらくこの3つの国の位置を推測する事は永久に出来まいと思われる。
	歴代の中国の史書が、驚くべき数の周辺諸国の情報を伝えている事は広く知られている。北方の鮮卑やだったん民族から、
	台湾は言うに及ばず、遠く東南アジアの国々や島々についても、その習慣・風俗を伝えているし、我が国の奴国王が西暦57
	年に金印を授かったほど昔から、周辺諸国の中国詣(もう)ではある。しかもそれらの情報を、歴代の史書は、先行の記述
	にならい、繰り返し繰り返し記録して続けているのである。勿論、それ故に誤った記事が幾世代にも渡って、王朝が変わっ
	てもそのまま誤って記録されている可能性も大いにある。いずれにしても、そうやって集め記録した周辺諸国の情報の中に、
	背の小さな民族や、年中裸で居る民族や、歯を黒く染めた種族のことが昔から知られていて、代々それらの国々を「倭国」
	の近くにあると誤解していた可能性もあるのである。



以下の図は、朝貢してきた各国の使者を書き残した中国の絵である。
この中に倭国の使者も描かれているがお分かりになるだろうか。時代はいつ頃でしょう?





そう、上右端に「倭国使」と書いてありますね。裸足で、頭にはターバンのようなものを巻いている。
服装は着物の原型のようでもある。この11枚の絵の中で裸足は3ケ国だけ。倭人伝にも「皆徒跣。」とある。





	以下の地図を参照して頂きたい。これは、中国元代の地図に、日本の「行基図」を挿入した古地図で、明の建文4年(1402)
	に朝鮮で作られた、「混一疆理歴代国都之図」(こんいつきょうりれきだいこくとのず)という。この地図では、日本は実
	際よりはるか南に位置する島として描かれており、日本列島をほぼ90度南へ傾けて描かれている。九州を北に、東日本を南
	に置いている。私の保持するもの(下左)は勿論複写だ。中国大陸に書き込まれた文字は、小さすぎてもう私の目では判別
	不能であるが、日本周辺は何とか眼鏡をはずして読む事ができる。東北地方の南にある島には「扶桑」と書き込まれている。

	この地図は「邪馬台国」研究者達の間では昔から有名である。特に、近畿説論者達にとっては強力な援護射撃の役目を果た
	している。この地図に描かれた日本が、もし古来からの中国人達の地理観に基づくものであるとすれば、「倭人伝」に言う
	方位記事は畿内説にとって頗る有利となる。南方の風俗や習慣、動植物の分布相などの記述も矛盾しなくなる。






	この地図の日本周辺を拡大したのが上左の図である。この図には「侏儒国」「裸国」はないが「黒歯国」はちゃんとある。
	四国とも思える位置にある羅利の下に、黄色でマークした島がそれである。この「黒歯」島は一体なんだろうか。倭人伝の
	記事とは全くかけ離れた処にちゃんと「黒歯」となっている。
	しかしながら、この図は明代に製作されたにしては若干稚拙なようである。宋・元・明の時代には、中国の対外貿易は相当
	な発展を遂げていたはずであるし、元代にはインドシナ半島にも交易の範囲を拡大していたことが文献に残っている。足利
	幕府も対明貿易を行っているし、琉球王朝政府による華南交易も盛行している。東南アジアの状況は、宋・元・明を通して
	中国人社会にはかなり把握されていたはずなのに、この図では、本州に近い海中に東南アジア諸島が描かれていている。
	学者達の見解に依れば、大琉球の西にある琉球が台湾で、三仏斎はスマトラ東南のバレンバン、琉球の南にある羅利は東南
	アジアの島国羅刹だという。まるででたらめである。(見解がではない、地図がである。)


	結論的に言えば、この図からも「侏儒国」「裸国」「黒歯国」は特定できないと言う事になる。しかし、この3国が太平洋
	側ではなく東南アジアにあったどこかの国らしい事は何となく感覚で理解できる。魏志倭人伝は、「倭人」の国を「会稽・
	東治の東」にあって、南へ伸びていたと理解していたのであるから、これらの国々も東シナ海、南シナ海のどこかにあった
	国の事なのだ。そしてそれらの種族は、倭種も含めて、文身(いれずみ)や、潜水による漁労や多くの南方的風習で、極め
	て海洋民族に近い種族であった可能性がある。という事は・・・。

	そう、邪馬台国を含む魏志倭人伝の記事は、近畿圏よりも九州のことを書いていると考えたほうが正解である。





邪馬台国大研究・ホームページ /古代史の謎/ 黒歯国・侏儒国はほんとにあったか