Music: I feel fine


卑弥呼以後の邪馬台国はどうなったか?






		卑弥呼の一族から台与(とよ:いよ、という説もある。)が新しい女王として擁立され国中が治まった、
		と倭人伝にはある。倭人伝の記す所を書き出せば、                        
		『卑弥呼以て死す。大いに(大きな)塚を作る。直径(と言うところを見ると卑弥呼の墓は円墳か?)は
		百歩余りである。殉死する者百人以上,男が王になったが国中服さず更に殺し合った,千人以上が死んだ。
		卑弥呼の一族から、年十三歳の台与を王として遂に国中が治まった。(卑弥呼が魏に支援を頼んでやって
		きた)張政たちが台与に檄を送り激励した(告諭す)。台与は、大夫率善中郎将の掖邪狗ら,二十人を張政
		一行のお供として魏へ使わし、張政一行の帰りを送らせた。彼らは宮殿に詣で、男女の奴隷(生口)を献
		上し、白珠五千孔・青の大句珠二枚・異文の雑錦二十匹を貢いだ。』これで魏志倭人伝は終わっている。

 



		この後、西暦265年(魏が滅び晋になった年の翌年)にも倭の女王が晋に朝献したという記事があるが
		その後約150年間中国の史書に倭の記事は出現しない。ぽっかりと記録が途絶えている。従って、卑弥
		呼の死後倭国がどうなったかは、その後の記録や遺跡の発掘結果から推論するしかない。このテーマこそ
		論者の主張する立場によって大きく論旨が異なる。即ち、邪馬台国=大和説に立てば、邪馬台国は強大に
		なり全国制覇を成し遂げやがて大和朝廷になる、と言う事になるし、邪馬台国東遷説に立てば、卑弥呼の
		子孫が東遷し近畿に大和朝廷を立てる、と言う事になる。                     
		又他の九州説(東遷しない)では、勢力を増した近畿の国(大和朝廷の萌芽)と戦い、やがて制服される
		という事になる。私自身は、目下東遷説を信奉しているので、この立場に立ちたいと思う。客観的に考え
		て、この説が一番合理的で論理的であり、その後の我が国の伝承・記録とも矛盾無く、多くの事象を一番
		うまく説明できると考える。


    



		邪馬台国と狗奴国の戦いがその後どうなったかは定かではない。又、卑弥呼の死後国中が乱れたとあり、
		千余人が死んだとあるのも、果たして邪馬台国の事なのか、それとも狗奴国との戦いに勝った後の邪馬台
		国連合国家(邪馬台国が周辺の諸国をその配下に置いていた事は魏志倭人伝に記述がある。従って、広義
		の邪馬台国はこれらの連合国家であったと考えて良いと思う。ただ狗奴国とは敵対していたようである)
		の事なのか、判然としない。しかし、その後倭の女王が晋に朝献するくらいだから、卑弥呼の死後も邪馬
		台国及びその連合国家は倭における最強国家だった事は間違いないだろう。             
		『古事記・日本書紀』の神話が、もし「いにしへ」の記憶をとどめているものであるとすれば、おそらく
		その後の邪馬台国の顛末はこうではあろう。



		卑弥呼=天照大神の死後、台与が女王となり邪馬台国連合国家を治めた。時期は定かでないが、卑弥呼
		か或いは台与かの時代に数年から数十年かけて、一族から頑強な者達が各地へ派遣された。卑弥呼の弟
		素戔嗚尊は出雲へ、卑弥呼の孫邇邇芸の命(ににぎのみこと)は日向へ、その他の、神話に登場しない
		多くの者達も、邪馬台国の覇権拡張の使命を帯びて各地へ遠征したに違いない。おそらく近畿地方へ派
		遣された者も居たであろう。彼らからもたらされる情報は逐一北九州の邪馬台国参謀本部へ届いていた
		と思われる。出雲を平定し熊襲を傅かせた後、近畿からもたらされた情報を元に邪馬台国は東への遠征
		を決行する。この時その任にあたったのが卑弥呼の5代目にあたる神倭伊波礼毘古の命(かんやまとい
		われびこのみこと)である。

		彼は日向を立ち、連合国家の一部である宇佐や遠賀郡等から食料・武器を補給し難波(大阪)から近畿
		上陸を試みる。しかし抵抗され和歌山から大和を目指す。神話では、その時道案内に立ったのがヤタガ
		ラスという豪族であるが、彼も前もって邪馬台国から派遣されていた邪馬台国駐在員かもしれない。 
		神倭伊波礼毘古の命は、紀州の山を越え大和に入り大和地方を平定する。おそらくその後近畿一円を平
		定したに違いない。近畿地方で、まるで隠すように埋められた夥しい銅鐸や銅剣が発見されるが、これ
		は、邪馬台国との戦いで敗色濃くなった近畿勢力が急いで隠したもののように思われる。それで唐突に
		山の斜面や何もない丘陵から発見されるのだろう。

		九州の邪馬台国の宝は剣・珠・鏡であり、銅鐸は新勢力にとって何の意味も持たず、むしろ忌み嫌われ
		るものだった可能性もある。九州邪馬台国の宝は現在でも皇室の三種の神器として継承されているが、
		近畿勢力が弥生時代に使用していた銅鐸については日本神話に全く登場しない。          
		もし邪馬台国が大和にあり、そのまま大和朝廷へ発展したのであれば、祭祀用具として銅鐸を用いてい
		たのであるから、その事実は何らかの形で人々の記憶に残っていてもよさそうであるが日本神話には全
		くその痕跡がない。これは、銅鐸文化が、外来の全く異なる文化圏の勢力に根絶やしにされたから、と
		考える方が論理的である。

		近畿を平定した邪馬台国は、やがて大和朝廷となり日本を統一して行く。神倭伊波礼毘古の命は、橿原
		に都を定め初代天皇神武天皇となった。

		幾世代かを経る内に、邪馬台国の実権は完全に大和朝廷の実権となったが、人々は自分たちの祖先が昔
		九州からやってきた事は記憶に留めていた。その記憶が伝承され、やがて神話となって文字で残された
		ものが『古事記・日本書紀』であろう。それ故『記紀』の神話の舞台は、圧倒的に筑紫地方が多く出雲
		地方がそれに次ぐのである。








邪馬台国大研究ホームページ / INOUES.NET / 卑弥呼以後の邪馬台国