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神話に現れる卑弥呼像






		古事記・日本書紀に関する研究の歴史は相当に古い。およそ700年程前から今日に至るまで、古くは日本の
		神道研究の対象として、近世に入ってからは、哲学、文学、歴史学、考古学、民族学、宗教学、神話学、言語
		学、文献学、そして社会学と言った人文科学系のあらゆる学問の対象として解読・分析されてきた。そもそも
		は歴史書として編纂されたものが、今日では多角的にあらゆる方面の学問分野の照射を浴びているのである。

		第二次大戦以後は、『記紀』は歴史書としてより専ら文学や民族学の研究対象とされてきた。それは、戦前の
		皇国史観に基づく歴史教育が敗戦後全面的に否定され、『記紀』に記述された神話部分は一切歴史ではないと
		されたからである。これは当時としては至極当然の成り行きであった。『記紀』の記述を全て史実であるとし
		て国民を鼓舞してきた戦前の歴史観は、天皇家を絶対視する政策を採った当時の政府・軍部や財閥の政策だっ
		た事を、敗戦後全ての国民が知ってしまったのである。勿論、当時から伊弉諾・伊弉冉尊(イザナギ・イザナ
		ミのみこと)が国を造ったなどと頭から信じていない人達も相当居た。しかし口に出せば投獄される環境の中
		では誰もが口をつぐんでいたのである。今日では小学生でも、これらの歴史観が荒唐無稽なものである事を見
		抜くだけの自然科学の知識を身につけている。従って、『記紀』の記述を史実だと鵜呑みにする人は現在まず
		居ないと言っていいだろう。

		しかしながら最近になって、『記紀』を歴史書として再び見直す動きがある。これは政治的な運動とは関係な
		い。いわゆる右翼や超右派と呼ばれる人達はいつでもそういう事を唱えている。そういう主張とは無関係に、
		純粋に学問上の意見として『記紀』の意味を問い直そうというのである。

		それは、要約すると以下のような主張になる。


		●『記紀』は我が国最古の歴史書であり、日本人が自らの言葉で語った記録である。
		●『記紀』共に、神代の事を記録した部分は必ずしも神々や天皇家の賛美ではなく、生き生きとした
		 人間模様ともとれる。
		● 世界史的に見ても、神話が実際の事跡を伝えたものであった事例が多数存在する。
		●『記紀』における神話部分は、現存する九州地方や出雲地方の事を、地名も含め具体的に記述して
		 いるものが多い。
		● 従って記紀は、少なくとも神話部分は全くの創作ではなく、古代に起きた何らかの史実を伝えた
		 書物である可能性が高い。
		● 故に、これらの神話部分から何が史実で何が創作なのかを見極めれば、我が国古代の歴史が見え
		 てくる。


		この主張は、『記紀』を全くの創作であり歴史書として省みる必要はないとする主張よりも合理的であるよう
		に思える。又、古事記に出現する地名や文字は、現在でもあそこではないかと思わせるような名前を沢山残し
		ている。例えば、高木や御井(三井)や井上などは現在でも地名や人名として九州に多く存在する。更に、近
		年の出雲地方における考古学の成果は、これまで何もない出雲がどうして『記紀』に多く登場するのかという
		疑問を吹き飛ばしてしまった。やはり出雲は、古代においては筑紫と並ぶ一大勢力であった事が実証されつつ
		ある。これらの事実から、私も『記紀』を見直すという歴史学の分野に賛成する。『記紀』は何らかの古代の
		事跡を伝えていると思う。




	国生み
	『古事記』によれば、天地創造を行ったのは伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二神である。         
	天の御柱を廻って最初に生んだのが淤能碁呂(おのごろ)島である、と記載されている。この島は今の沼島(瀬戸内海:
	淡路島の脇に位置する小さな島)という説が有力だが、淡路島そのものであるという説や、博多湾に浮かぶ能古(のこ)
	の島であるという説も捨てがたい。


	天照大神の岩戸隠れ
	天照大神は、弟、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の荒々しい所業に怒り、天の岩戸に隠れてしまう。このため世の中は真っ暗にな
	るが、八百万(ヤオヨロズ)の神々の機転により、天照大神は再び岩屋からでて天地に光が戻る。素戔嗚尊は高天原から追放
	される事になる。この姉弟の関係こそ、魏志倭人伝に言う、卑弥呼とそのという関係に酷似している。            
	卑弥呼と天照大神には、同じ人物ではないかと思わせる多くの一致点が存在する。中国にまで名前が響くほどの女王卑弥
	呼と、『記紀』神話において重要な位置にいる女帝天照大神は、同じ人物の事だと言われても何ら違和感がないように思
	える。


	出雲での素戔嗚尊
	高天原を追われた素戔嗚尊は、出雲の国肥の川(ひのかわ:今の斐川)の上流に天降(あまくだ)った。ここで八俣大蛇 
	(ヤマタノオロチ)を退治し、櫛稲田姫(クシイナダヒメ)と夫婦になり、須賀の地に新居を建て(なんとすがすがしい土地だ、と感嘆
	した処からこの名が付いたと言う。)子をもうけた。その五代目の子孫が大国主命(オオクニヌシノミコト:日本書紀では二人の子 
	という事になっている。大巳貴(おおなむち)神とも言う。)である。


	出雲の国譲り
	大国主命は、因幡の白兎にも見られるような善政で出雲を治めていたが、高天原から派遣された建御雷神(タケミカズチ)は、
	稲佐の浜で大国主命に出雲を高天原に譲るよう迫った。大国主命は、我が子、事代主命(コトシロヌシノミコト)と建御名命(タケミナ 
	ノミコト)に相談するが、二人とも服従の意を示したのでいさぎよく天つ神に国を譲り、自らは壮大な宮殿を建てて(今の出 
	雲大社の場所?)隠遁する。異説によれば海中に没したとも言う。これで出雲は高天原勢力の傘下に入る事になる。   


	天孫降臨
	出雲を平定して、『記紀』の伝える天孫降臨の舞台は九州に移る。天孫番能邇邇芸命(ホノニニギノミコト)は、筑紫の日向の高 
	千穂の久士布流多気(クシフルタケ)に天降った。ここで木之花佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)を妻とし三人の子をもうける。この子
	達の二人が海幸彦と山幸彦である。山幸彦は日子穂穂出見命(ヒコホホデミノミコト)となって、豊玉毘売(トヨタマヒメ)との間に子を
	もうける。この子は天津日高日子波限達鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタリウガヤフキアエズノミコト)と言う長たらしい神名を持つが
	、やがて成人して豊玉毘売の妹(つまり叔母さんにあたる)である玉依毘売(タマヨリヒメ)と夫婦になる。この二人に生まれ 
	た子供達が、五瀬命(イツセノミコト)や豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)である。豊御毛沼命は神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)
	とも呼ばれ、兄五瀬命と共に東征の旅に出、やがて初代天皇神武天皇となるのである。


	これが神武東征までの『記紀』神話の概略であるが、ここに登場する地名を巡っても長年に渡って研究が続いており、
	今なお論争が絶えない。高千穂という地名を見ても二カ所存在するし(宮崎県北部と南部)、或いはこの二カ所以外か
	もしれないのである。久士布流多気(クシフルタケ)というのは、現在の久住岳(クジユウタケ:九重山)であるという説もある。
	事ほどさように、神話の舞台そのものは今だ特定できていないが、大きな範囲として、出雲(島根県)、筑紫(福岡県
	あるいは九州島全体)でおきた出来事の記憶であろう、という事は理解できる。



見てきたように、『記紀』において卑弥呼を彷彿とさせる人物は、何と言っても天照大神である。古くから多くの学者・研究者が「卑弥呼=天照大神」であるという説を唱えているが、私も目下の処この説に賛成である。出雲や九州で起きた、古代人の記憶にある多くの事跡が幾世代にも渡って伝えられ、やがて古事記としてまとめられる時、卑弥呼は天照大神となって神話に残った。こう考えるのが一番自然であるように思える。従来言われてきた卑弥呼と天照大神の活躍した時期のズレ(約200年の差)は、安本美典教授の研究によりほぼ解決したと考えられる。天皇の在位期間の研究については、安本教授の見解を越えるだけの合理性を持った説は今の処現れていない。
高天原=邪馬台国(北部九州:具体的には筑後川北岸の朝倉郡(甘木市を含む))、八百万(ヤオヨロズ)の神々=邪馬台国連合国家の首長達(伊都国王、奴国王、不弥国王等)、天の安の河=筑後川支流・安川、卑弥呼=天照大神、等々に想いを馳せる時、日本神話の情景と魏志倭人伝の倭国描写が重なって、私の脳裏ではあざやかに古代のイメージが増幅されるのである。


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