夏は来ぬ 3世紀の東アジアはどんな状態だったか?















	二・三世紀から四世紀にかけての東アジアの情勢は激動の時代と言っていい。
	当時の東アジアの中心は中国であったが,これは中国に史書が多く残っているからであって,それによると朝鮮半島や倭に
	おいても大乱の様相を呈していた。中国では400年に渡った漢王朝が衰退し,後漢の末期,いわゆる群雄割拠の時代に曹操が
	華北を統一して,その子曹否(そうひ)が「魏」を起こした(220年)。華南では孫権が「呉」を建国し(229年),内陸部
	の四川省で劉備が「蜀」を立てた(221年)。 
	この三国がそれぞれ漢王朝の正統性を主張し睨み合った時代がいわゆる三国時代であるが(三国志はこの頃の事を記した史
	書)、この時代も長くは続かない。263年蜀は魏によって滅ぼされ、その2年後魏も西晋王朝にとって代わられる。280年に
	西晋王朝は呉を吸収するが、やがて内乱の時代を迎え王朝は衰退する。この衰退に呼応して遊牧民であった鮮卑や凶奴がそ
	れぞれ勝手に政権を樹立し,やがて西晋王朝は滅亡する(316年)。






	後漢王朝の衰退時は,倭においても大乱が在ったと「後漢書」に記されているし(150年頃〜190年頃),同じ頃朝鮮半島に
	おいても。韓や高句麗やカイが台頭して、動乱の時代を迎える。魏志倭人伝による卑弥呼を擁立しての邪馬台国の成立も、
	正にこの動乱のまっただ中なのである。



	卑弥呼は積極的な外交策をとり魏に再三使者を派遣する。そもそも倭は,魏が遼東,楽浪郡の公孫氏を滅ぼすまでは約50年に
	渡って公孫政権と交渉を持っていたが,公孫政権が滅ぶと同時に魏と交渉を開始する。公孫政権の滅亡は238年,卑弥呼が魏
	へ使者を送るのが239年(景初三年)である。何ともしたたかな外交,臨機応変な国際感覚ではないか。この年の朝見時に魏
	は卑弥呼に「親魏倭王」の印を授けたとされている。

 

 


	魏が晋にかわった年(265年)の翌年10月にも,倭の女王が遣使貢献したとされているが,これ以後約150年に渡って晋の記録
	に倭の記事は無い。再び倭が史書に登場するのは,413年倭使が東晋の安帝に朝見した時である。西晋王朝は滅び東晋王朝と
	なっていた。日本史上では,記録のないこの約150年間を「謎の四世紀」と呼んでいる。



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