Music: 赤い靴

  

	我が国古代の人口問題については、多くの先人達による研究が残されている。
	近代科学としての人口学でその業績が際だっているのは、数学者で歴史学者(東京帝大の物理学科と国史学科を卒業)
	でもあった沢田吾一(1861〜1931)である。今日でも、古代人口学において彼の研究を越える研究は現れていない。
	幾つかの問題点は内包しているが、彼の研究は現在でも、古代史における人口問題(邪馬台国時代から奈良時代、特
	に奈良時代について。)を研究する際の基本となっている。


	沢田吾一氏の研究
	沢田氏の取った方法は次のようなものであった。@、古文書等を基に、奈良時代の行政単位であるの平均人口を推
	定算出し、これを @1,399人 とした。A、これに和名抄の郷数 4,041 を
	掛け全国総人口を560万とした。B、更に、この数に賤民、雑民、私民の数等を加え奈良時代の全国総人口を 600万人
	〜700万人と推定した。
	沢田氏は國別郷別の人口も算出しているがここでは割愛する。沢田氏の算出したこの数字は、今日でも概算値として
	よく用いられているが、現在の研究成果ではやや少な目である、という事になっている。
	沢田氏の算出した数字から、邪馬台国の主な比定地である大和地方と筑前・筑後地方の数字だけを拾い出すと以下の
	ようになる。(延長5年(AD.927年)頃の値)

國名推定人口(人)郷数郷別人口(人)
大和130,300 891,464
筑前 89,150102  874
筑後 74,300 541,376




	魏志倭人伝には、邪馬台国の人口は残されていないが7万戸という戸数は書き残している。古代の家族構成が一戸
	あたり何人であったのか判然としないが、極々少な目に見積もっても4〜5人は居たであろう。今日でも発掘され
	続けている古代遺跡(縄文晩期から弥生時代中期)の状況からすると、私の考えではおそらく一戸あたりの人口は
	10人〜15人ではないかと思うのだが、これだと70万人〜105万人という事になり、これは今日でも大都会
	の人口である。少な目の4〜5人で計算しても28〜35万人となり、これでもまだ大都市の人口であろう。
	先述の沢田氏の人口計算と照らし合わせてみても、奈良にも筑紫にもこれだけの人口は存在しない。筑前・筑後を
	合わせても16万3千人にすぎない。では一体どういう事になるのか?

	@、魏志はいい加減に戸数を記録したのか? 
	A、奈良/筑紫にほんとはもっと沢山の人が居たのか? 或いは、
	B、もっと人口の多い、奈良でもなく筑紫でもなく、第三の有力候補地が存在するのか?

	答えは、わからないである。今日では、@、A、B、のそれぞれの見解に立った説が百花繚乱である。推理作家
	であり古代史にも造詣の深かった松本清張氏は、@ の立場であった。即ち、7万戸というのはあまりに多すぎる、
	中国では三、五、七という数字はいわばゴロあわせのように用いるのであって、ここで言う7万戸という数字も実
	際はもっと少なかったに違いない、と言う。安本美典氏は、筑前・筑後に肥前(今の佐賀県)の有明海沿岸の人口
	も加算して7万戸であろう、とする。いずれにしても、魏の使いが一体どういう基準で7万戸を割り出したのか、
	明確に答えられた者は居ないのである。

	現在の人口学は、沢田氏のとった方法よりもっと科学的である。
	桑原秀夫氏(1869〜1997:日本数学史学会、近畿数学史学会会員)は、古代人口の推計方法として次の3つを挙げ
	ている。
	@、地理学的方法 A,考古学的方法 B,人口学的方法である。@は、地域面積とその単位人口からある地域、或い
	は日本全体の総人口を計算しようとするもので、Aは、古代の住居跡の遺物から計算する方法、Bは、現在の人口
	状態から推移して古代の人口を求めようとするもの、である。桑原氏は数学者の視点から、数式モデルを用い B 
	の方法で考察している。桑原氏も奈良期の人口を6〜7百万人としているが、邪馬台国には言及していない。
	人口問題では、古代現代を問わず今日でも沢山の研究が進行中である。我が国古代の書物による人口記載の分析か
	ら、電算機を用いた数式モデルのシミュレーションによるものなど方法は様々だが、今もって多くの研究者が真理に迫ろう
	と努力を続けている。幾つかの参考文献を以下に記す。
	願わくば新たなる学究の徒が出現せん事を祈りたいものである。


	人口学研究参考文献

●福本誠・『筑前誌』・1903国光社(昭和49年に臨川書店から復刻) ●末永茂世編・『筑前旧志略』・明治20年刊行           ●沢田吾一・『奈良朝時代民族経済の数的研究』・昭和2年富書房 ●古屋芳雄・『日本民族混成誌』・1944日新書院 ●本庄栄治郎・『日本人口史』・昭和16年 ●舘稔・『形式人口学』・昭和35年 ●賀川光夫・『この当時の家族構成はどの程度までわかるのか』・昭和49年日本書籍刊「日本考古学の視点」 ●文化庁・『全国遺跡地図』・1965文化庁 ●高橋梵仙・『日本人口史之研究』・1971学振 ●関山直太郎・『日本の人口』・昭和41年至文堂 ●板倉聖宣・『歴史の見方考え方』・仮説社 ●斉藤忠・『日本考古学の視点 上』・1974日本書籍 ●藤岡健次郎編・『日本歴史地理総説 古代編』・1975吉川弘文館 ●鬼頭宏・『日本二千年の人口史』・PHP研究所「二十一世紀図書館」 ●小山修三・『縄文時代』・1984中公新書 ●穴沢和光・『古代文化』・1984/10月号 ●植原和朗・『骨から古墳人を推理する』・1986中央公論社刊「日本の古代5 前方後円墳の世紀」 ●他
邪馬台国大研究・ホームページ / INOUES.NET / 邪馬台国の人口