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歴史倶楽部・第178回例会 大津市歴史博物館 滋賀県大津市 2012.6.24













	博物館前のテラスから琵琶湖が見渡せる。左右に目を転じれば浜大津の噴水や、左には遠く三上山も見えている。テラスから下を覗くと
	車道の脇になにやら遺跡があって、東屋も作ってあるのでここで昼食にしようと、いったん博物館から下へ降りる。見物し昼食を済ませ
	て、再び博物館へ。





奈良県の高取町にもオンドル設備を持った遺構が幾つか発見されていて、まったく近畿圏は朝鮮渡来の証拠には事欠かない。






	堤庚次郎が名誉市民! 西武を作り上げた実業家としては確かに偉人なのかもしれないが、家庭人、常識人としては異人だろうと思う。
	特に女性関係に関しては、異人を通り越して人非人と言ってもいいかもしれない。たいていの男は確かに助平でたまには浮気もするが、
	息子の嫁や部下の女房を孕ませたりはしない。こんな男に「名誉」を与えていいのか。














	坂本 (大津市)	出典:ウィキペディア

	坂本(さかもと)は、滋賀県大津市の地区名。延暦寺および日吉大社の門前町として古くから栄えた。現在の地名は坂本1〜8丁目に分
	かれる。広義の坂本には下阪本、坂本本町なども含まれる。日吉大社参道の両側には比叡山の隠居した僧侶が住む里坊が並ぶ。また、
	穴太衆積み(あのうしゅうづみ、穴太積みとも)と呼ばれる石垣が街路を形成している。安土桃山時代には、明智光秀により坂本城が
	築城されたが、本能寺の変や続く山崎の戦い後に明智秀満が城に火を放った。
	坂本の町並みは地域的特色を顕著に示しているものとして、種別「里坊群」「門前町」で重要伝統的建造物群保存地区として選定され
	ているほか、2004年(平成16年)6月15日、歴史的風土保存区域に指定された。
 
	地区内の主な名所・旧跡
	
	 日吉大社 - 境内は国の史跡、国宝建造物2棟、重要文化財建造物17棟3基
	 延暦寺坂本里坊庭園 - 国の名勝 雙厳院庭園
	 宝積院庭園
	 滋賀院門跡庭園 - 延暦寺の本坊で、江戸時代末まで天台座主の居所であった。庭園は、小堀遠州作と伝えられる
	 佛乗院庭園
	 旧白毫院庭園
	 旧竹林院庭園
	 蓮華院庭園
	 律院庭園
	 実蔵坊庭園
	 寿量院庭園
	 日吉東照宮 - 権現造の発祥。関西の日光。
	 慈眼堂 - 徳川三代に仕えた慈眼大師天海を祀る廟所。










	膳所城	出典:ウィキペディア

	膳所城は大津市街の東部に位置し、相模川河口付近にあった膳所崎と呼ばれる琵琶湖に突き出た土地に築かれた水城であり、日本三大
	湖城の一つに数えられ、また大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つである。陸続きの部分に三の丸を配し、二の丸・
	北の丸・本丸が琵琶湖に突出する梯郭式の縄張りであった。本丸には4重4階の天守が上げられ、水面に映える姿は里謡に「瀬田の唐橋
	からねぎぼし、水に浮かぶは膳所の城」と謡われていた。
	慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利し名実共に天下人となった徳川家康は、翌、慶長6年(1601年)東海道の押さえとして、大津城
	を廃し膳所崎に城を築かせた。膳所城は江戸城、大坂城、名古屋城など天下普請として江戸幕府が諸大名に号令し築いた城の第1号で
	ある。縄張りは城造りの名手と言われた藤堂高虎に計画させた。湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれた。家康がこ
	の地を選んだ理由として、昔より「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われた瀬田の唐橋に近い場所であったからであると
	言われる。
	築城された年に大津城主戸田一西を3万石で入城させここに膳所藩が成立した。以後、譜代大名の居城となった。その子の氏鉄は元和3
	年(1617年)に摂津国尼崎藩に転封となった。
 	代わって本多康俊が三河国西尾藩より入城。その子、俊次は元和7年(1621年)再び西尾へ転封となった。代わって、伊勢国長島藩より
	菅沼定芳が入城し寛永11年(1634年)丹波国亀山藩に転出。下総国佐倉藩より石川忠総が入城、子の憲之は慶安4年(1651年)に伊勢国
	亀山藩に転封となった。
 	石川氏の後は再び西尾藩より本多俊次が7万石で入り、13代220年の間、本多氏の居城となり明治維新を迎えた。
 	寛文2年(1662年)には地震があり建造物が倒壊した。このため俊次は城の大改修を行った。
 	膳所城は湖沿岸に建造された城であるため、時間を経ると波による浸食に悩まされ続けることとなった。このため絶えず城の補修を余
	儀なくされ、これが藩の財政を逼迫させる一因となっていた。
 
	明治3年(1870年)新政府の早期実現を望む藩士達により、廃城の太政官布告が出された翌日より天守以下の建物の解体・移築が行われ
	た。現在は完全に陸続きとなった本丸跡は「膳所城跡公園」として整備され、石垣がわずかに残っているほか、門が模擬再建されてい
	る。城門は膳所神社(本丸大手門)、篠津神社(北大手門)、鞭崎神社(南大手門)に現存しており、それぞれ国の重要文化財に指定
	されている。なお、高麗門は大阪府泉大津市松之浜町2丁目の「細見記念財団」が所有する地に移築されている。市内の芭蕉会館に本丸
	隅櫓が移築され現存しているが、大幅に改造されており原形を留めていない。
	平成18年(2006年)には民家に移築されていた瀬田口総門番所が取り壊された。また、二の丸跡は現在、膳所浄水場となっている。


























































































	保良宮	出典:ウィキペディア

	保良宮(ほらのみや)は、奈良時代に近江国(滋賀県)に淳仁天皇が営んだ宮で、平城京の北の都「北京」(ほくきょう)とされた。
	保良京、保良離宮とも呼ばれた。また、天智天皇の大津宮に近かったことから、大津宮と記した古文書(天平宝字6年(762年)3月1日
	付「造東大寺司告朔解」(『大日本古文書』第5巻125))もある。
	聖武太上天皇の晩年、藤原仲麻呂が光明皇后の支持を得て台頭。聖武太上天皇の死後、天平勝宝9年(757年)、橘奈良麻呂の乱を平定
	し政権を掌握した仲麻呂は、大炊王を擁立。天平宝字2年(758年)、孝謙天皇からの譲位を受ける形で即位させる(淳仁天皇)。

	孝謙上皇と淳仁天皇の時代の天平宝字3年(759年)11月16日、藤原氏と縁が深く(仲麻呂の祖父不比等は淡海公、父武智麻呂は近江守)
	仲麻呂も近江国守であったことから、近江国に保良宮の造営が開始された。保良宮の近くにあった勢多津は東山道・北陸道方面からの
	物資の集積地であり、保良宮造営以前より朝廷や貴族・寺院が倉庫や別荘の形で勢多付近に施設を有していたと考えられている。また、
	保良宮行幸後には民部省(仁部省)や式部省(文部省)などの官司(あるいはその出先機関)が置かれていた。
 
	<行幸と廃都>
 
	天平宝字5年(761年)
	 1月21日、保良京で諸司の役人に宅地を班給する。
	 10月11日、保良遷都のためとして、藤原仲麻呂らに稲束を支給。
	 10月13日、淳仁天皇と孝謙上皇が保良宮に行幸。
	 10月28日、天皇は平城宮の改作のため、しばらく保良宮に移ると詔し、更に「朕思う所有り、北京を造らんと議る」と勅して、都に近
	 い2郡(滋賀郡と栗太郡と見られる)を割いて永く畿県とし、庸を停めて平城京に準じた調を納めるようにした。これは唐の陪都「北
	 京太原府」を意識したものとみられる。
 
	天平宝字6年
	 1月1日、保良宮が未完成のため朝賀の儀をとりやめる。
	 3月3日、保良宮の西南に新しく池亭を造り、曲水の宴を設ける。
	 3月25日、保良宮の諸殿と屋垣の工事を諸国に分配して一時に完成させる。
	 5月23日、淳仁天皇と孝謙上皇の不仲で平城宮に戻ることになり、淳仁天皇は中宮院に、孝謙上皇は出家して法華寺に入る。前年に孝謙
	 上皇が病気に倒れ、弓削道鏡の看病を受けて平癒。2人の関係を批判した淳仁天皇と上皇が対立していた。
 
	天平宝字8年
	 このころ、孝謙上皇と関係が深い吉備真備が台頭。藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)勃発。仲麻呂の敗退により造営中止。廃都。


	<遺跡>

	琵琶湖から流れ出す瀬田川右岸に位置し、滋賀県大津市の石山国分遺跡の周辺に比肩する説が有力。ここからは築地塀の跡や平城京と共
	通の天平宝字年間前後の瓦が出土しており関連した施設の跡であると考えられる。周辺には石山寺や近江国分寺、瀬田川対岸には近江国
	庁があり環境も整っており、国分2丁目には「へそ石」とよばれる保良宮の礎石の一つと伝えられている石が残っている。さらに関津遺
	跡の幅18メートルの道路跡も関連する遺跡であると考えられる。
	紫香楽宮跡近くの玉桂寺(滋賀県甲賀市信楽町勅旨)を跡とする説がある。同寺には「保良宮跡に空海が一堂を建立した」との言い伝え
	がある。宝亀11年12月25日(781年)付で作成された『西大寺資材流記帳』(『寧楽遺文』所収)に神護景雲2年(768年)に近江国の荘
	園2件を称徳天皇(孝謙上皇)の勅によって西大寺に寄進したことを記した太政官符の写しが含まれている。その中の一つと推定されて
	いる滋賀郡保良荘が保良宮の跡地と言われている[2]。
	琵琶湖の北部にある長浜市西浅井町管浦の須賀神社がこれに当たるとの伝承がある。神域は裸足で参拝しなければならないとの慣わしが
	現在も厳しく守られている。また、この神社では50年ごとに「淳仁天皇祭」が斎行されており、次は平成25年(2013年)に1250年祭が奉
	祀される予定になっている。
















	大津城	出典:ウィキペディア

	現在の滋賀県大津市浜大津、京阪電鉄浜大津駅周辺一帯にあった水城で、本丸は、現在の琵琶湖大津港桟橋付近にあたる。関ヶ原の戦い
	では上田城などと共に、数少ない激しい城の攻防戦が行われた。その騒音は連日京都にまで届き、市民の中には弁当と水筒持参で見物に
	行く者まで出たという。
	戦後に廃城となり、天守などが膳所城や彦根城に移築されたと伝えられる。彦根城の天守がかつての大津城天守の用材を転用して建てら
	れている可能性が、昭和32年(1957年)に行われた彦根城天守解体修理の際に符号、墨書きが見つかったことを根拠に示されている。
	これにより大津城の天守は望楼型の4重5階であったと考えられている[2]。
 
	1586年(天正14年)、豊臣秀吉は坂本城を廃城とし、浅野長政に命じて新たに築城された。その後、城主は増田長盛、新庄直頼と代わり、
	1595年(文禄4年)に京極高次が城主となり6万石を与えられた。
	1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで高次は東軍に属し大津城に籠城した。しかし大津城はもともと琵琶湖の水運を利用して美濃、越前
	方面から運ばれてくる物資を安全に保管するための城郭であり、攻防戦には不向きであった。9月7日より毛利元康・立花宗茂ら西軍1万
	5000に城を囲まれ攻防戦が開始された。これに先立ち、京極軍3000は12時間かけて城下を焼き払い、町は荒野と化した。京極軍は家臣赤
	尾伊豆守、山田大炊以下、奮戦し、7日間持ち堪えたが、9月13日からは近くの長等山から大砲で砲撃を受け、砲弾は眼下に落ちるような
	勢いで天守その他の建築物を破壊し、城内が混乱した間隙を縫って立花軍が二ノ丸までを占拠した。ここに至り、北政所の側近孝蔵主と
	高野山の木食応其の仲介による講和が成立する。9月14日に降伏開城した高次は園城寺に入り、剃髪して高野山に上った。しかし、西軍
	1万5000を大津城に釘付けにした功績は大きく、戦後、徳川家康は高次を召しだし、若狭小浜城8万2000石に加増転封させた。
 	高次が若狭へ移ってまもなくして、家康は大津城を廃城にし、新たに膳所崎に膳所城を築城した。大津城攻防戦で戦禍を免れた建築物の
	一部は、彦根城、膳所城に転用、移築された。
 
	<歴代城主>

	 浅野長政(1586年 - 1589年)
	 増田長盛(1589年 - 1591年)
	 新庄直頼(1591年 - 1595年)
	 京極高次(1595年 - 1600年)
	 戸田一西(1600年 - 1601年)






















	大津事件	出典:ウィキペディアより抜粋

	大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀
	県滋賀郡大津町(現・大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した、暗殺未遂事件である。
 	当時の列強の1つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫し
	た状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は
	死刑を免れ無期徒刑となり、日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職し、6月には司法大臣・山田
	顕義が病気を理由に辞任した。 
 







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