大津宮(近江宮、近江大津宮などとも言う)をめぐっての謎は3つあった。 一つはその位置である。説明板にもあるように、かって大津宮の候補地は、錦織、南志賀、滋賀里の3ケ所だったが1979年 の発掘調査で錦織地区に大規模な建物跡が発見され、ここが大津宮であった事がほぼ確定した。この地は、古来からの言い 伝えにより大津の宮であるとされ、写真にあるように「志賀皇宮遺跡」という石塔と石碑が建てられていた。石碑はもう字 がかすれて殆ど読めないが、「言い伝えによりここに大津宮があったので記念碑を建てる」、というような事が書かれてい る(らしい)。発掘によりその事が証明されたわけで、「伝承」は結構真実を含んでいるという好例である。宮の全体像は、 ご覧頂いたように廻りを住宅地に囲まれており、当分の間判明しそうにはない。 謎の2つ目は「京」の問題である。果たして「近江京」と呼べるような都が存在していたかどうか。これについてもいろん な議論があるが、大津市は既に市街地化が完了しており大規模な発掘などはしばらく実行できそうにない。従ってこれまた 当分の間論議は続くであろう。 3つ目の謎は「遷都」の目的である。なぜ天智天皇(中大兄皇子)は、都を突然奈良から移したのか。1つの説は、白村江 の戦いに敗れた朝廷が、唐・新羅軍の日本上陸におびえ、大和盆地よりも有利な琵琶湖畔に要塞都市を築こうとした、とい うもの。確かに、筑紫に大規模な水城や山城を築いた防御態勢を見ると分からなくもないが、なぜ近江なのだという疑問は 残る。近畿まで攻め入られたら大和盆地であろうが近江であろうが、さして変わりはないような気もする。2つ目の説は、 律令国家の邁進に燃える天智が、新たな国家の為に全く新しい新天地を求め、それが近江だったというもの。さらに幾つか の説があり、我が子「大友皇子」は琵琶湖畔に住む「大友氏」に養育を任せており、我が子の即位のためにその地に都を造 った、という説もある。いずれも論者による古代観の違いに基づくので、まだまだ「遷都」をめぐる論争は続きそうである。 ちなみに私は「遷都」についてはこう考えている。斉明天皇が飛鳥にいた時点、あるいはそのもっと前から、近江には有力 な渡来人あるいは豪族がいて、その集団は中大兄皇子に肩入れしていたのではないか。天智は、白村江の戦いに敗れて筑紫 から大和へ戻ってくるとき、大勢の百済の亡命者達を引き連れて来ている。そしてその亡命者達は多くが琵琶湖の南側に居 住したと考えられる。それはずっと以前からそこが「同郷」のムラだったからではないだろうか。その為天智は「大友皇子」 も彼らに養育させ、自らもその地に移って新たな国家を建設しようとしていたのではないだろうか。時代をのぼって「継体 天皇」の即位を考えてみても、彼を後押しする集団は北河内・淀川水系の豪族達だった事は明白である。その援護で20年後 に奈良を平定する。同様に天智も、肩入れしてくれる集団への見返りとして近江に都を定めたような気がする。近江に遷都 してわずか5年で天智天皇はみまかり「壬申の乱」に発展するが、もし天智があと20年生きて「近江京」を本格的に整備で きていたら、今の日本の首都は滋賀県だったかも知れない。
国指定史跡 みなみしがちょうはいじあと 南志賀町廃寺跡(大津市南志賀1・2丁目) 南志賀の地は昔から古瓦が出土することが知られていました。 昭和3年(1928)と同15・16年(1940・1941)の2度にわたる発掘調査によって、塔・金堂・伽藍跡塔が見つかり、この地 に寺院が存在していたことが明らかにされました。またその後の調査によって、この寺院跡の伽藍配置は塔と西金堂が東西 に対峙し、これらを取り巻いて回廊がめぐる「川原寺式伽藍配置」であることがわかりました。このうち塔・西金堂・金堂 の基礎は瓦積みで仕上げられていました。 この寺院は天智天皇建立の祟福寺とも桓武天皇建立の梵釈寺とも考えられていましたが、「扶桑略記」に祟福寺が大津宮の 乾(北西)の方向に建てられたという記事があり、この南志賀の寺院跡と同時に調査された滋賀里山中にも寺院跡が発見さ れていることから、そこが祟福寺跡として妥当性が高く、また、「日本書紀」には祟福寺と梵釈寺が近接した位置にあった ことが見られることから、この南志賀に位置する寺院跡は造名の寺院、南志賀町廃寺ということになっています。 調査の際には多数の瓦や土器が出土しており、その中にはこの地でしか見られない、蓮華を横から見た紋様で飾った方形軒 瓦もあります。これらの遺物等から、白鳳時代から平安時代末期頃までこの寺院が存在していたことが明らかになりました。 この廃寺跡から約300m西の地点で、この寺で使用した瓦を焼いた瓦窯群(桂木原遺跡)が見つかっており、 瓦を手がかりにして生産・需要・供給といった流通関係が明らかにされています。 昭和32年(1957)年10月に国の史跡に指定されました。大津市教育委員会 平成9年(1997)3月
重要文化財 ひゃくあなこふんぐん 百穴古墳群 百穴古墳群は、今から約1400年前(古墳時代後期)に造られた墓が多く集まったところです。これらの墓は、大きな石を上 手に積み上げて造られた石の墳墓(横穴式石室)を土でおおったものです。石の墳墓は、死んだ人を納める場所(玄室)と これと外とを結ぶ狭い通路(横穴)とにわかれています。表から見るとこの通路の入り口が穴のように見えます。この穴が たくさんあることから「百穴」という名がつけられました。 石室の蓋の石は、天井にむかうにつれて少ずつ迫り出して積まれているため、天井はドーム状になっています。石室内には 2,3人の人が葬られており、死んだ人は時には金のイヤリングや銅のブレスレットなどで飾られ、木や石の棺桶にいれら れました。また石室内には、多くの土器(土師器・須恵器)もいっしょに納められました。この中には、お祭り用のミニチ ュア炊飯具セット(カマド、カマ、コシキ、ナベ)も含まれています。 古墳時代後期、古墳群は全国各地でたくさん造られましたが、この百穴古墳群のように、石室の天井がドーム状で、ミニチ ュア炊飯具セットが納められているという特徴は、大阪・奈良・和歌山の一部にも認められますが、ほとんどが大津市の坂 本から(不明:判読できず)にかけての地域だけに見られるものです。現在までの研究では、これらの特徴は、遠く中国や 朝鮮半島からやって来た人たちと、深く関係するのではないかと考えられています。 昭和16年(1941)年1月、国指定の史跡となりました。 平成4年(1992)3月 大津市教育委員会