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四条畷の遺跡を訪ねて

住吉平田神社・弥勒寺・南野十三仏板碑




住吉平田神社




		【住吉平田神社】

		祭神 : 住吉大神、平田大神

		嘉永6年(1853)の南野村庄屋、重右衛門の覚え書きに「平田住吉明神」と記され、住吉神社と平田
		神社が合祀された年代は、寛延年間(1750)ではないかと推測されているが、記録文書は不明である。
		住吉大神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)は、「みそぎ」「おはらい」の神格をもって出現し、210
		年に、住吉大神は大阪住之江に鎮座する。
		社殿は、平成2年6月23日に再建立された。境内には稲荷神社・八坂神社がある。石燈籠は、寛文
		12年(1672)のもので、四条畷市で最古のものである。また狛犬には、万延元年(1860)の年号が刻
		まれている。
		明治前半、小楠公の「四條畷の戦い」の跡に、神社を建立して正行の偉業を称えようと熱心に運動し、
		政府へ嘆願書を提出したのは、当時の住吉平田神社の神主だった。

 




		我々は四條畷神社の脇から飯盛山の中腹を横滑りしてここへ来たので、この石段は昇らずにすんだが、
		228段の石段は北河内地方では一番長い。見上げたら昇りたくはない。


弥勒寺

 


		阿弥陀仏を本尊とする浄土宗。弥勒信仰に関する民話がつたわる。古くから農業用水として使われた
		権現川沿いにあり、この川も民話に登場する。
		この寺の起源は、資料がなくあまりよくわかっていない。境内に高さ2mの十三仏板碑があり、1670
		年の舎利吹観音縁起の存在から察して由緒ある寺院で、開山は江戸時代以前にさかのぼるのではない
		かと考えられている。

 


		(弥勒寺に伝わる民話)舎利吹観音

		1670年の頃、音羽というそれは美しい娘がいました。村一番の器量よしと評判の娘を両親は宝物
		のように大事に育てていました。ところが、ある日のこと、娘の顔一面に吹き出物です。はやり病の
		疱瘡にかかってしまったのです。美しい顔は見るも無惨な姿です。「おおー、なんてこった。かわい
		そうな。」「なんとかしてやらないと。・・・」両親は何とかして娘の顔を元通りに戻してやりたい
		と考えました。「そうだ、・・・3人で弥勒寺の観音様におすがりしよう。」娘と両親は観音堂に籠
		り、必死に祈願しました。
		「観音様、どうか娘の疱瘡を治して下さい。」
		「観音様、どうぞ私の顔を元通りにして下さい」と祈り続けました。満願の10日目の朝のことです。
		「音羽、おとわの顔が・・・・・」両親は娘の顔を見てびっくりしました。音羽は元通りのまぶしい
		ばかりの美しさです。親子は手を取り合って喜びました。さっそく観音様に御礼を申し上げようと顔
		を上げると、どうした事でしょう。観音様は全身に汗を流し胸棟には舎利が吹き出ていました。
		「観音様が娘の身代わりになってくださったのだ。」親子はあらためて観音様に御礼をのべ、涙を流
		して慈悲に感謝しました。




		この十三仏は、永禄2年(1559)の年号や「逆修」という文字が刻まれている。逆修とは、通常は親
		より先に死んだ若い者の冥福を年長者が祈ることだが、ここに刻まれた「逆修」は、自己の死後の冥
		福を祈るために建立したものという。
		下の写真、一番下の列の右から左へ、「初七日」「四十九日」「一回忌」と法要を司る仏で、それか
		ら一段上がり、今度は左から右へ、「三回忌」「七回忌」・・と進んでいくのだそうな。一番上が、
		「三十三回忌」を司どる虚空蔵菩薩で、これを1年でやってしまう(1年間お参りする?)と、生前
		に自分の供養をしてしまうことになるそうだ。詳しい説明は後段を参照されたし。

南野十三仏板碑

 


		天正20年(1592−安土桃山時代)につくられたもの。平らな石の前面に十三体の仏像が彫られてい
		るのが、「十三仏板碑」と呼ばれ、中世の仏教信仰を物語る石造物である。仏教では、人が亡くなる
		と死者の追善供養のための仏事が営まれる。このうち初七日から三十三回忌までの十三回の供養には、
		十三の仏(如来)・菩薩が配され、不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・薬師如来・
		観音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閃如来・大日如来・虚空蔵菩薩の十三菩薩がそれぞれ司る。
		四条畷市には、7基の十三仏があり、5つは平野部に2つは山中にある。
		上右の写真、奥の方で説明しているのが野島さん。




		南野十三仏板碑の場所から振り返ってみた飯盛山。(戦国時代)

		飯盛山は生駒山系に属し、標高314mのこんもりとした山で北西方から見るとちょうど飯を盛った
		形に見えることからこの名前が付いた。戦国時代、飯盛山に畠山氏の家臣、木沢長政によって飯盛城
		が築かれる。その後、四国から出た三好長慶は畠山氏と争い、永禄3年(1560)11月13日に飯盛
		城の城主となる。
		長慶はこの飯盛城を本格的な山城とし、勢いを近畿一円に振るい、キリスト教布教を認めたりしたが、
		やがて織田信長の近畿平定によって終りを告げる。
		また、飯盛城の出城としての機能を果たしたのが四条畷市上田原にある田原城である。城から北に4
		00m離れたところの発掘調査(平成6年)で「千光寺」の刻印瓦が発見され、田原城主とその一族
		の菩提寺千光寺で有ることが明らかになった。千光寺は地元で伝説として残ってはいたが、その場所
		は不明だった。また城主の墓から中国龍泉窯で焼かれた最高級の青磁袴腰香炉が完全な姿で発見され、
		大阪府指定文化財となった。
		この香炉は、この後訪れた「歴史民俗資料館」に展示されていた。野島さんは。重要文化財級なんで
		すけどねぇ、と言っていた。


  
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