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四条畷の遺跡を訪ねて
墓の堂古墳・東高野街道道標・奈良井遺跡
墓の堂古墳

歴史民俗資料館から200mほど北に歩くと中野共同墓地がある。この墓地はもともと前方後
円墳だった。古墳の後円部を利用しているため盛り上がっている。古墳を壊さないように避け
て東高野街道が走っている。平成7年に古墳の一部が調査され、その結果周濠が見つかり、全
長62mと推定され、周濠の形と出土した円筒埴輪の形から、中期の前方後円墳である事が分
かった。墓地には鎌倉時代の十三仏板碑がある。

この古墳は現在も墓の中にあって、外から周辺を見てもとても古墳とは思えない。しかし昭和
17年に写されたという下の航空写真を見ると、立派に前方後円墳の形をしている。

東高野街道道標

農協前の角っこに、東高野街道の道標が立っている。東高野街道は明治9年に県道に指定された。
四條畷を通る道筋は改修されながらも、街道の面影を残している。和田賢秀(楠木正行の家臣)
の墓から資料館の前を通り、墓の堂古墳を過ぎると清滝街道に交差する。ここ、農協側の交差点
が、清滝街道と東高野街道が交差する地点である。ここに3基の道標が立っている。刻まれてい
る文字は、左の角形石柱に、
「右清滝街道 /すく東高野街道」(すく、というのはまっすぐという意味。)とあり、蒲鉾型
のまん中の石碑には、
「東いせ なら/鶴澤亀莱/南かうや/門弟中。」とあり、右端のお地蔵さんの背中には、
「右/なら/いせ道/左/京/やハた/道 (裏)寛政十午天十一月/中野村願主」(1798年)
と書かれている。
当時の人々は、道標を頼りに旅をし、お地蔵さんに手を合わすことで心の支えとしたことだろう。
奈良井遺跡
5世紀後半から6世紀後半にかけては、大阪の東大阪地方、生駒山麓や旧河内湖周辺の遺跡から、
馬の骨の出土例が50を超えている。四条畷市では、5世紀中頃から6世紀中頃と見られる奈良
井遺跡から6頭以上の馬の骨が発見され、うち1頭は丁寧に板の上に乗せられており、周辺に馬
型土製品やミニチュアの人形などが出土している。この時代、馬を祭祀用に葬った事が推定でき
る。

東大阪一帯が、「馬飼いの集団」が居住していた所であることを証明したような、古代史上では
画期的とも思える遺跡なのに、この石柱1本というのはあまりにも悲しすぎる。説明板もない。
しかもしかも、この建物が市民綜合センターときてはアングリである。この扱いで何が文化ぞ!
と言いたくなる。復元遺跡にしろとまでは言わないが、せめて説明板くらいは立てておくべきで
はないか。

当時(古墳時代中期:1500年前)の日本には馬はいなかった。四條畷は日本で最初に馬の牧
場を開いた土地である。蔀屋北遺跡や中野遺跡や城遺跡は集落跡で、鎌田遺跡(現給食センター)、
奈良井遺跡(市民センター)で馬の祭祀を行った。
奈良井遺跡は、昭和45年市民綜合センター建設に伴う発掘調査で見つかった馬の祭祀場である。
一辺40cmの四角いマウンドの上で祭りを行った。最大幅5m、深さ1〜1.5mの溝がマウン
ドの周囲を巡っていた。溝の中から馬が6頭分以上見つかったが、その中には、神に捧げる「いけ
にえ」にされた馬もあった。(下の写真)その他には土器やミニチュアの土器・人形・馬型の土製
品などが出土している。

馬の祭りで見つかった馬は、朝鮮半島から準構造船に乗せられて馬飼とともに四條畷にやってきた
馬の子孫である。四條畷で育った馬は権力者のもとに届けられ、権威の象徴とともに、通信・運輸
・軍事力に大活躍した。馬は大きな役割を果たすのでまたたくまに普及した。
最近の調査で、山すその木間池北方遺跡や城遺跡まで集落が広がっていることがわかった。これま
では馬飼い集団の墓域(大上古墳群)と考えられていたが、川跡から、甑(こしき)や取っ手付き
鍋などの韓式系土器とミニチュア高杯がかたまって出土した。この調査では、他にも韓式系土器だ
まりが多く見られ、今までにない様相をみせている。尚馬歯も出土している。この地域では後期の
古墳が多くみられるが、今回の調査で前方後円墳も見つかった。
また、蔀屋北遺跡では馬一体分が出土したり、準構造船をリサイクルした井戸などが発見され、馬
飼い集団の大集落と話題になっている。







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