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藤井寺市・羽曳野市の文化財を訪ねて 2005 5 8(日)郷土の文化財を見学する会




近鉄藤井寺駅に集合して、今日の解説員上田氏の紹介があった後、出発。いい天気で良かった。

 


	<長尾街道>

	長尾街道は堺の花田口を起点に反正天皇陵の北側、方違神社をとおりそのまま東へ天美、松原、藤井寺から国分に
	いたり、田尻峠から大和の北葛城郡当麻町長尾へはいるルートです。大阪側では古代の大津道をほぼ踏襲している
	といわれています。松原からつながる道は現雄略陵で北に廷回しながら東に向かい、藤井寺市小山で南北道を下り、
	岡でさらに東に向かいます。この小山と岡の二カ所に道標が認められます。古代大津道は小山で南下せずそのまま
	東に向かうルートが考えられています。
	しかし考古学的成果から考えると、このまま東進すると河内国府や衣縫廃寺などの北側、つまり裏側の低いところ
	を通る事になりますので、現大津道推定地よリ200m南側を考えたいと思っています。そうすれば、北岡遺跡内で検
	出された道の遺構こあたり、このまま西進すると反正天皇陵の南側を通ることになります。

 

上左は、北岡A遺跡、B遺跡の説明をする上田氏。弥生から古墳にかけての遺跡だが、今はもうなにもない。ビルの下。



善光寺

 


	<小山善光寺>
	現在、浄土宗に属し、南面山無量寺院善光寺と称します。本尊は信濃善光寺と同じ一光三尊仏阿弥陀如来です。
	寺伝によりますと推古朝(7世紀初頭)に若使主東人(本田善光)によってもたらされた仏像を本尊として、隆
	聖法師が津堂鳩山古墳の西側(「善光寺屋敷」の字名が残る。)に寺院を建立したということです。また、百済
	滅亡時に百済王禅広(善光)が河内にいた王氏一族に世話になり、この寺院が建立されたという言い伝えもあり
	ます。寺所蔵の「善光寺参詣曼茶羅」には、これら創建の経緯や当時の庶民の参詣や習俗を描かれています。
	しかし実際は出土軒瓦の様相などから見ると、渡来系氏族の津氏によって、今から約1300年前の7世紀後半
	に建立されたことが堆定できます。その後、戦国時代の兵火によって三好氏の小山城と共に、諸堂焼失して廃寺
	となりましたが、江戸時代初期の慶長年間(1596〜1614)、宗珍法師によって現在の地に再興されました。毎年
	4月24日午後4時から本尊のご開帳があります。

 




	天正年間(1573〜1591)までは津堂城山古墳の後円部の外側に接する善光寺屋敷にあったと考えられている。織田
	信長の河内攻めのとき、戦火によって焼失し、慶長年間(1596〜1614)になって僧宗珍によって現在の位置に再建
	された。この寺では上記「本田善光の伝説」が有名である。推古天皇の御代に、若使主東人(別名本田善光)が信
	州に帰る途中、難波の堀江で一光三尊仏という阿弥陀如来像を拾い、これを背負って小山の里(実は津堂付近)の
	小さな堂に宿泊した。住職の隆聖法師はその仏像を所望したが、聞き入れてもらえなかったので3日3晩供養勤行
	を行い、3日目になり、仏像が2体になったので、隆聖法師はそのうちの1体を本尊としてまつり、他の一体を信
	濃の善光寺の本尊としたといわれている。

 

これは教典を3,353部奉納した記念に建てた燈籠のようである。境内にある。

 

 

 


	上左が小山常夜灯。各種文献にみえて、結構有名な常夜灯だったようだ。小山1丁目の住宅の南側にある。文政13
	年(1830)に建立された石造りの常夜灯。常夜灯脇のこの道は、小山から葛井寺へ通じ、葛井寺・道明寺を経て、
	高野山や吉野・伊勢へ詣でる巡礼者が行き来する道で、道路の脇に当時の道標を見つけることが出来る。
	常夜灯は、電気のない時代はもちろん、近世に至っても道行く人の心のささえとして現代まで守り継がれてきた。

	上右は「産土神社」。素戔嗚尊、牛頭天王(ごずてんのう)とその妻である櫛稲田姫(くしなだひめ)を祭神とす
	る小山地区の産土神。もともと小山村の人々は岡村の辛国神社(からくにじんじゃ)を共有の形で祭っていた。し
	かし祭事の度に岡村の氏子達との争いが絶えなかったので、江戸時代初期に小山村独自の氏神として、現在高鷲北
	宮にある「大津神社」から分霊したものと言われている。大津神社は渡来した百済国王の子孫津史(つのふひと)
	一族が氏神として建立した神社で、延喜式にも記載がある古社である。






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