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藤井寺市・羽曳野市の文化財を訪ねて 2005 5 8(日)郷土の文化財を見学する会




津堂城山古墳

	<津堂城山古墳> 
         
	古市古墳群の最端」に位置する、前方部を南東に向けた墳丘長208m、後円部径128m、前方部幅121mの前方後円
	墳です。さらに二重目の濠や堤をくわえると全長は400m以上の規模になります。明治45年には後円部で竪穴式石榔が
	発見され、そこから巨大な長持ち型石棺や、鏡、銅鏃などの副葬品が発掘されました。副葬品の種類や、円筒埴輪のの特徴
	は古い様式と新しい様式が同居しており、古市古墳群最古の4世紀後半に造営されたことがわかります。なお最近の発掘調
	査によって、二重の濠を持ち外堤にも葺石を施していること、明確な作り出しが備わっていること、前方部の両脇集周濠内
	には方形の島状遺構が存在する事などが分かりました。また、これらの状況は、大王陵としてふさわしく、古市古墳群内で
	は初代の大王陵として考えられます。また、最近奈良県巣山古墳で同様の遺構が検出されましたが、津堂城山古墳状況をコ
	ピーしたものと考えられます。



 






	この地域では150年におよんで大王級の墓がつくられるが、その契機である津堂城山古墳は、装飾豊かな長持形石棺をは
	じめ、5世紀に盛行する墳丘モデルプラン、造出し、二重の周濠、堤と、次代の古墳墓制を担う先駆的なモデルとも言える。
	この古墳の次に築造されたと思われる「仲津姫陵古墳」の築造に至って、大古墳群が河内・和泉で展開されることになる。
	この古墳群は墳丘長400mを越す応神陵古墳の築造でピークを迎える。





上をクリックして貰えば、この位置からの古墳の全景が見れます。



 

 



 

一角に八幡神社があるが下の神社の名板石碑は、どうやらこの古墳にあった竪穴式石室の天井石らしい。

 



古墳の中心部、後円の最上部一帯は現在宮内庁の管轄になっている。金網の柵が張られており中へは行けない。






	金網の前、八幡神社の横にグラウンドと広場がある。広場で上田氏の説明を聞く。

	明治45年、後円部から竪穴式石室とその中から巨大な長持ち型石棺が発見され、銅鏡、石製品、鉄製武器など豊富な副葬
	品が出土した。前述したように、最近の調査で二重の濠も見つかり、前方部両脇に一対の方形のマウンドがあることもわか
	った。また、衝立型埴輪や水鳥などの形象埴輪の存在は、ここを大王墓とみなす材料になっている。古墳の北側には、平成
	11年に「史蹟城山古墳ガイダンス棟」(まほらしろやま)がオープンし、この古墳についての発掘調査や研究成果を見る
	ことができる。
	津堂城山古墳は昭和33年(1958)に、墳丘と内濠の部分が国指定史蹟となった。現在内濠部分には小山しょうぶ園と津堂
	草花園があり、四季折々の花を楽しむことができる。




 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

  上下の水鳥埴輪はレプリカである。本物は藤井寺市の博物館である「アイセルシュラホール展示室」にある。

 





 

 








上をクリックして貰えば、この位置からの古墳の全景が見れます。



 

 




	ここが方墳状施設の上。中央の花壇は意味はない。ただのモニュメント。ここから水鳥の埴輪が出土した。掘り起こした
	のは、な、なんと、説明してくれている上田さんだった。まさかそんなものが有るとは思わず、ユンボでグイツと掘った
	ら水鳥の首をひっかいて傷が付いたそうである。「アイセルシュラホール展示室」にある本物には確かに傷があった。








	<小山花しょうぶ園>

	この小山花しょうぶ園は、藤井寺市の進める全市公園化構想(すげぇ!)の一環として、平成3年4月2日に津堂城山古
	墳の周濠部に水辺公園としてオープンした。古墳北東部の長さ225m、最大幅42m、面積約4,000平方mにわた
	って、花しょうぶ6,000株、すいれん6,000株などが植えられている。

 

 

宮内庁管理からはずれている前方部分に登ってみる。



前方後円墳でよく見るカブトムシの角だ。




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