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藤井寺市・羽曳野市の文化財を訪ねて 2005 5 8(日)郷土の文化財を見学する会





雄略天皇陵(高鷲丸山古墳)


	<島泉丸山古墳>

	丸山と呼ばれる経75mの大円境と平塚と呼ばれる一辺50mの方墳からなる。前方部は後世に方墳を取り込んで付け加えられ
	たもので、宮内庁によって雄略天皇陵に治定されている。出土した埴槍は中期のものと考えられる。実際の雄略陵は、墳
	丘長3Z5mの前方後円墳河内大塚と考える説もあるが、最近では岡ミサンザイ古墳を堆略陵と考える説が有力になってきて
	いる。



 


	安康3年(457?)、天皇が眉輪王に暗殺されるという事件が発生する。すかさず安康天皇の実弟である雄略は、異母
	兄の二皇子を疑い、眉輪王・円大臣及びその協力者である坂合黒彦皇子を攻め、更に履中天皇の第一皇子であった政敵の
	市邊押磐皇子らを滅ぼし、丁酉年11月13日、泊瀬朝倉宮で自ら即位する。大伴・物部を中心とした伴造系氏族の武力
	を背景とし、葛城系と見なされる眉輪王らの「葛城系勢力」を排除しての即位であった。それはその後、「大伴・物部系」
	の平群真鳥が大臣、大伴室屋・物部目が大連に任命されている事から、当時の二大勢力に後押しされての大王就任だった
	事がわかる。
	雄略23年8月崩御。陵墓は、明治政府によってここ丹比高鷲原陵(大阪府羽曳野市島泉)とされたが、現在の学説によれば、
	大阪府松原市西大塚にある大塚山古墳説が有力視されているようである。




	雄略9年3月、天皇は朝貢してこない新羅を征伐するため、大伴談・紀小弓・蘇我韓子らを新羅に派遣する。雄略21年
	(477)、百済に任那の一部を割譲し、百済はこの地を新都として再興する。日本書紀には、他にも小さな闘いを全て
	武力で鎮圧した記事が見える。
	これらから、雄略は武力に長じた強力な大王だったと思われ、その為、宋に上表文を送った「倭の五王」の一人「武」に
	比定される。478年、倭王「武」が宋に送った上表文には、「私の先祖は、自ら甲冑を纏い山川を跋渉し戦を続け、東
	は毛人55カ国を、西は衆夷66カ国を征服し、また海北へ渡り95カ国を平定した。」とある。
	その後有名な文言、「寧所(ねいしょ)に暇(いとま)あらず。」と続くのである。そして宋から「武」は、「使持節都
	督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任ぜられている。

 


	日本書紀によれば雄略天皇は、残虐非道な暴君として記録されている。市邊押磐皇子(いちべのおしはのおうじ)を殺し
	た時のやり方は残虐で、体を切り刻み、馬の飼い葉桶に入れて土中に埋めたと伝えられる。雄略2年、妃に望んだ百済の
	池津姫(いけつひめ)が石川楯(いしかわのたて)と密通していることが露呈した。天皇は激怒して大伴室屋(おおとも
	のむろや)大連に命じて来目部(くめべ)を派遣して二人を磔にしたあげく焼き殺した。
	また吉野宮に行幸した際、狩りの獲物の事で部下の言動に怒り、御者を斬り殺した。天皇はまもなく還幸したが群衆は恐
	れおののいた。心を痛めた皇后等は、宍人部(ししひとべ)を設けることを提案して天皇を諫め、天皇もこれに従った。
	しかしその後も独断専行の残虐ぶりは続き、多くの人々を殺害したため「はなはだ悪しくまします天皇なり」という評価
	を後世に残す。






	雄略天皇の治世下では、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返された事が伝えられている。日
	本書紀によれば、吉備氏もこの天皇の御代にその配下に組み込まれた。勢力拡大の範囲は北から南に及び、埼玉県稲荷山
	古墳出土の大刀の漢文表記の銘文からもその勢いの凄まじさが想像できる。

 


	前回この古墳を訪ねた時は正面からしか見なかったが、今回こうやって横からみると、前方部と後円部がはっきり別れて
	いるのが分かる。もともとは円墳で、後から前方部を付け足したというのが納得できる。




	発掘から20年を経て、埼玉県稲荷山古墳出土の大刀に漢文表記の銘文が発見され、ここに「ワカタケル大王」とあった。
	雄略天皇を指すとする説が有力である。これにより熊本県江田山古墳から出土していた鉄刀銘文もワカタケルと解読でき、
	五世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠となった。
	(一部には反論もあるが今日ほぼ定説。)

	【銘文の大意】
	「辛亥の年、私、ヲワケの一番の祖先の名はオホヒコ、その子の名はタカリノスクネ、その子の名はテヨカリワケ、その
	子の名はタカヒシワケ、その子の名はハテヒ、その子の名はカサヒヨ、その子の名はヲワケノオミ。先祖代々の(大王の
	親衛隊長)として大王に仕え、今にいたっている。ワカタケル大王(雄略天皇)がシキの宮にあるとき、私は大王が天下
	を治めるのを補佐した。この何回も鍛えよく切れる刀をつくらせ、私が大王に仕えてきた根源を記すものである」	
	
 





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