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藤井寺市・羽曳野市の文化財を訪ねて
2005 5 8(日)郷土の文化財を見学する会
羽曳野市立陵南の森 歴史資料室
大王級と呼べる突出した古墳墓域が河内・和泉地域にある。それは5世紀代にピークを迎えたと考えられ、中国「宋書」
に記載された「倭の五王」の時代と重なる。大阪府堺市「百舌鳥古墳群」、大阪府藤井寺、羽曳野市にある前方後円墳を
中心とした「古市古墳群」である。これらは大和の墓々をしのぐ、日本の二大古墳群と言って良い。
古市古墳群は墳丘長日本第2位の応神陵(誉田御廟山)古墳を中心として、4世紀後半末の津堂城山古墳から6世紀中
頃の白髪山古墳に至るまで継続する。河内の古墳時代を代表する古墳群である。域内の北岡遺跡の円墳、青山遺跡や高屋
城跡の出土埴輪など、早くからこの地において古墳築造があったことが窺える。大型墳出現以前にも古墳が点在し、消失
後も小口山古墳、ヒチンジョ池古墳、来目皇子墓といった七世紀の古墳が存在する。百舌鳥古墳群に比べ、こうした意味
からは在地性の強い場所にある古墳群といえる。
2004年10月23日、羽曳野市教育委員会は小口山古墳の現地説明会を行った。羽曳野市教育委員会では、羽曳野市
軽里2丁目の峰塚公園で「郷土の森ゾーン」の建設にともなう埋蔵文化財の確認調査を実施している。河内軽里の掘抜石
棺として古くから知られ、明治44年に喜田貞吉博士が「歴史地理」で紹介した小口山古墳を、同教育委員会は9月末か
ら墳丘部分の発掘を実施してきた。トレンチによる発掘調査で、終末期古墳特有の丘陵側に掘削された掘割を検出。この
掘割の平面形状から、小口山古墳は直径14mの円墳であると結論した。石槨の周囲には、切石が積み上げられ、上には
天井石があり、石槨を保護する石室状の特異な遺構があることが判明した。
直径14メートル円墳と判明 小口山古墳 2004/10/21 Asahi.com
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全容が明らかになった小口山古墳。岩をくりぬいた石槨が目を引く=羽曳野市軽里2丁目で
巨岩をくりぬいた石室状の横口式の埋葬施設として知られる羽曳野市軽里2丁目の「小口山古墳」が、公園建設
に伴う市の発掘調査で石槨(せっかく)が掘り出され、直径14メートルの円墳であることが分かった。朝鮮半
島から渡来した有力氏族の墓と考えられる古墳の全体像が、初めて明らかになった。
小口山古墳は1911(明治44)年、発見された。全国でも4例しかない凝灰岩をくりぬいた横口式石槨と
して注目されてきた。しかし、79年に部分的な発掘があっただけで、3枚あるとされる石槨上部の天井石の行
方も分からないままだった。
今年8月からの発掘調査で、横幅と高さが1・6メートル、長さ2・7メートルの石槨全体が初めて浮かび上が
った。岩の重さは12トン。石槨の形状から、7世紀半ばから後半に造られたと見られるという。
天井石の1枚(長さ135センチ、幅60センチ、厚さ38センチ)は、石槨から10メートルほど離れた落ち
葉の下から見つかった。
平安時代の書物「日本後記」には、渡来した有力氏族がこの地を墓にしたという記述がある。市教委歴史文化課
は「当時は古墳の建造が禁止されており、直径14メートルは小さいとはいえない。渡来した氏族の中でも、リ
ーダー格の墓である可能性もある」としている。
奈良大の白石太一郎教授(日本考古学)は「横口式は7世紀前半から南河内で多く造られ、7世紀後半からは最
高支配者の墓にも採用された。小口山古墳の大きさ、埋葬の形状が正確に分かったことは、古墳の変遷過程を見
るうえで大きな意味がある」と話す。
市は23日午前10時から、現地説明会を開く。問い合わせは市教委歴史文化課(0729・58・1111、
内線4482)へ。
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