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わが町の文化財「大阪府枚方市」
2000.12.10(日)郷土の文化財を見学する会


歴史倶楽部の服部さんと河内さんを誘って「枚方歴史散策」に参加した。
寝屋川の東江さんも誘ったがグズって来なかった。でも会が終わって麻雀に誘うと飛んできた。なんちゅうヤッちゃ。





枚方宿400年の歴史


		東海道って53次じゃなかったっけ? そうお思いになった向きもおありだろうと思う。実は私もこの催しに
		参加するまでそう思っていた。安藤広重の版画や十返舎一九の東海道中膝栗毛などですっかり東海道は53次
		と思いこんでいたのだ。ところが違うようである。

		実は57次がほんとらしい。慶長20年(1615)の「大坂夏の陣」の後、幕府は東海道を大坂まで延長し、京都
		から大坂までを京街道と呼んだ。そしてその京街道に、伏見、淀、枚方、守口の4宿を追加したのだ。幕府の
		公文書にも「(東海道は)品川宿から守口宿まで」と記録されており、五街道を支配する道中奉行の管轄下に
		あった事はほぼ確からしい。枚方宿は、泥町、三矢、岡、岡新町の4村で構成され、東西13町17間(1.5km)、
		道幅2間半(4.5m)で、人足100人、馬100疋を常備することになっていた。
		天明年間(1781〜1789)には、341軒が街道の両側に軒をならべ、本陣のほか旅籠は32軒、茶屋は6軒、商
		人や職人は47軒を数えるなど、人口およそ1,600人の賑やかな町だったようだ。

		
		その後調べたところでは、正徳6年(1716)までは品川から守口までを東海道と呼び、江戸と大坂間の事を指し
		ていたが、文化8年(1812)から品川−大津間が東海道宿場となり、以後東海道とは江戸−京都間を言うように
		なった。当時、京都−大阪間は淀川を行き来する三十石船と呼ばれる船便が盛んに利用されていたので、ここは
		京街道として分離されたのである。江戸(日本橋)から京都(三条大橋)までの間に53の宿場があって、東海
		道五十三次という呼び方はこれ以後広く用いられる様になった。53次、57次いずれも正しかったのだ。

 


		このあたりは旧岡新町村。今は堤防になっているあたりにも宿場がひしめいていたらしい。枚方宿遺跡第13次
		調査では、3面の遺構面が検出された。竈(かまど)が発見され、焼土層も見つかっている。

 



岡本町地区。京阪電車の「枚方市」駅近く。ここでも多くの宿場町跡が発掘されている。
18世紀半ばから19世紀始め頃の火災の跡も残っていた。

 

 

 

下は本陣跡。今は児童公園になっている。参勤交代で紀州徳川家が泊まった記録もある。

 

 




		船宿の多くが、下(1階)がそのまま川につながっていて、2階から階段を下りてきて船に乗り、そのまま淀川
		へ出ていけるようになっていたらしい。そんな船宿の一つ「鍵屋」。今は資料館としてRe-newalの最中だった。
		来年(2001年)の夏OPENするそうである。








		各宿場跡の発掘調査の資料があるのでなんとかここに掲載したかったが、容量の関係から全て割愛した。宿場を
		構成した4村のそれぞれで、何次にも及ぶ調査が実施されていてその写真や図版もある。





宿場町を見学した跡淀川堤防へ出て、淀川資料館に寄った。




意賀美(おかみ)神社(万年山古墳)


		当社の創建年代は不詳であるが、延喜式内の古社である。当社は元伊加賀宮山の地にあり、産土神として、又
		淀川の鎮守として御神威高く、古来航行の船人達が通航の安全と、水害排除祈願のために創建、開化天皇の御
		代伊香色男命、伊香色女命の邸内にあったと伝えられる。

		明治5年村社に列せられ、同42年12月神饌幣帛料供進社に指定された。明治42年10月14日村社須賀
		神社(素戔嗚尊)、村社日吉神社(大山咋神、大国主命)を合祀、翌15日境内狭隘のため、須賀神社の旧地
		である現鎮座地に遷座した。昭和9年大風害で社殿・社務所を大破、同10年10月現社殿・社務所を復興した。
		合併した須賀神社は、牛頭天王社(祇園社)と称し、もと現鎮座地にあり、清和帝貞観14年(872)天下に悪疫流
		行の時、万年寺の開祖聖宝上人が天皇より神璽を賜り、終息祈願のため山上に勧請した。万年寺は明治3年廃
		寺となり、社は同5年村社に列せられた。(以下略) 【意賀美神社由緒書きより】


 

下左は説明する入江さん。後ろの広場のような所に枚方城があったという言い伝えがあるが、
発掘されていないしはっきりとはわからないそうである。

 

 

 




		意賀美神社、萬(万)年寺、万年山古墳の関係が、それぞれの説明を聞いても或いは由来を読んでもどうも今一
		ピンと来ない。じっくりそれぞれを照らし合わせてみるとこういう事のようである。
		古墳時代前期4世紀中頃に、この山に築造された前方後円墳と思われる古墳があった。既に全壊しているが前方
		後円墳の可能性が高い。主体部は割竹形木棺で、長さ3m以上、幅0.3m以上の棺の断片が採取されている。またこ
		こからは、三角縁吾作銘四神四獣鏡など数面の中国製鏡が出土しているが、全国の幾つかの古墳(椿井大塚山古
		墳など)から出土したものと同範鏡だと言う。ここに清和天皇の御代、872年以降のいつ頃か疫病終息を祈願して
		萬年寺が建てられた。伊加賀宮山には意賀美神社が既にあり、万年山にあった須賀神社、日吉神社と合併し、こ
		こが意賀美神社となった。萬年寺は明治3年廃寺となった。
		ざっとこういう事になるのだろうか? この万年山に古墳、萬年寺、須賀神社があってその前には中世頃「枚方
		城」もあった。

		
 

 



鷹塚山古墳・遺跡

下左の写真、左側山が鷹塚山古墳。標高67mを測る淀川を一望に望む丘陵の高台にある。
前方後円墳かどうかは明確でない。淀川の反対側は北摂方面を望む。

 

 

 



台鏡寺

永禄2年(1559)明誉願生上人の開基で、現在の本堂は亨保19年に再建されている。

 

境内の一角に鬼瓦を配置した砂庭がある。デカイ瓦が並べてある。

 

 

帰路、京阪電車の線路向こうに台鏡寺が見える。商店街にMusical star「川崎麻世」の実家があった。
喫茶店「コハク」。今は居ないと思うが表札に名前はあった。







今回は訪れていないが、枚方市のはずれ楠葉にある古代史跡「継体天皇樟葉宮跡」。これもりっぱな枚方市の文化財だ。




2003.7.9(土)郷土の文化財を見学する会 再び枚方へ



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