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茶臼山古墳 200.5.25(土) 歴史倶楽部第64回例会


	歴史民俗資料館を出て前の道を5,6分歩くと、五月山の麓の高台にある五月山団地の中に小高い丘の一画があって、公園
	になっている。ここが茶臼山古墳である。五月山の南麓にあり、標高100m弱程の丘陵地にある。古墳時代前期(4世紀
	中頃)の前方後円墳で、被葬者は不明。説明によれば、この周辺一帯を秦氏が治めていたという伝承があり、その一族の墓
	だろうとの説が有力だそうだ。昭和32年(1957)に発掘調査が行われていて、その報告では、全長は62m、後円部径約
	33m、前方部幅18m、後円部高さ6.4m、前方部高さ3.45mとなっている。また内部には石室があり、その大きさ
	は、全長6.35m、幅約1.1m、高さ1mの竪穴式石室が確認され、内面にはベンガラが添沫されていた。出土品は、埴
	輪、脚付椀型土師器、碧玉製管玉、ガラス製小玉(89個)、鉄製品片などと共に、埴輪円筒棺も二基発見されており、これ
	は今歴史民俗資料館に展示されている。

 




	現在、茶臼山古墳は茶臼山公園となっていて、誰でも自由に入ることができる。園内には桜が植えられていて、春には花見
	で賑わう。木々が茂って眺望は余り良くないが、木々の間から大阪湾も見渡せる。背後には五月山が見える。

	茶臼山という名前の山は全国にある。国土地理院の調査では、全国でいちばん多い山の名は、1位 丸山100、2位鳥帽子75、
	3位 天王山60だそうだが、実際には茶臼山が一番多いと言われている。通称も入れると300は超えていると思われる。これ
	はおそらく、江戸時代の 300藩に起因しているのではないかと思う。かって多くの武将は茶臼山に戦陣を敷いた。「茶臼」
	が「引きでは落ちず」「押して落とす」からで、「敵を粉に」するところから侍達に好まれたのだろうと考えられる。
	その全部に古墳が在るわけではないが、結構茶臼山古墳という名前の古墳は多い。これは前述したように、戦術上の要衝と
	いうのは、おそらく古墳時代にあっても同様で、近隣平野を見渡せて、どこからでも望める山(丘)の上に、古代人も葬ら
	れる事を望んだのではないだろうか。

	ちなみにINTERNETで「茶臼山古墳」と検索すると、見切れないほどのヒット数である。勿論重複もあるのだが、ゆうに千は
	超えている。以下はその内の幾つかだが、途中で見るのを断念した。

		山口県柳井市		(茶臼山古墳)
		奈良県桜井市		(茶臼山古墳)
		大阪市天王寺区		(茶臼山古墳)
		大阪府茨木市		(太田茶臼山古墳)	「継体天皇陵?」
		栃木県下都賀郡壬生町	(茶臼山古墳)
		京都府八幡市		(茶臼山古墳)
		滋賀県長浜市		(茶臼山古墳)
		群馬県佐波郡赤堀町		(赤堀茶臼山古墳)
		兵庫県出石町		(茶臼山古墳)
		岡山市湊			(茶臼山古墳)
		岡山市浦間		(浦間茶臼山古墳)
		岡山市吉備津		(中山茶臼山古墳)	「大吉備津彦命御陵?」
		高松市			(茶臼山古墳)
		滋賀県大津市秋葉台		(茶臼山古墳)	「大友皇子墓?」
		奈良県桜井市		(外山茶臼山古墳)
		犬山市			(茶臼山/青塚古墳)
					(夕田茶臼山古墳 )
		山口県下関市		(前田茶臼山古墳)
		名古屋市守山区		(茶臼山古墳)
		岡山県長船町		(牛文茶臼山古墳)
		群馬県富岡市		(北山茶臼山古墳)
		栃木県壬生町		(茶臼山古墳)
		香川県さぬき市大川町	(富田茶臼山古墳)
		群馬県太田市		(円福寺茶臼山古墳)
		福井武生市		(茶臼山古墳群)
		岡山県山陽町		(茶臼山古墳群)

 




	茶臼山古墳は、前方後円墳としては平均的な大きさである。古墳の中心軸は南西−北東方向で、神戸方向を向いている。
	昭和32年の調査では、竪穴式石室は墳丘の中央に古墳の軸とは直角に作られていた。また後円部の南端からは朝顔型埴輪
	円筒棺、北側からは頭巾型埴輪円筒棺が出土した。頭巾型埴輪円筒棺は珍しく、その大きさから子どもを葬ったものではな
	いかと思われる。

	池田市・豊中市周辺には古墳が密集しており、池田市にはかつて古墳が30近くあったと言われる。その多くが、現在では
	土地開発の猛波に破壊されてしまったものと思われる。文化財保護法など関係なかった行け行けどんどんの時代に、古代の
	遺産はその多くが消滅してしまったのである。そんな中でこの茶臼山古墳と、もう一つの鉢塚古墳は、池田に残る貴重な古
	墳時代の遺産であろう。

 


	古墳時代は、一般には4世紀初頭から始まったとされるが、現在3世紀中頃とか3世紀初頭とかいう意見が台頭している。
	3世紀中頃と言えば西暦250年頃で、卑弥呼の時代である。今までは完全に弥生時代の区分であった。近畿の学者達が近
	畿圏(とくに奈良)の古墳の年代をどんどん古い時代へ遡らせているので、古墳時代も遡っているような印象を与えるが、
	これは学問的には何ら証明されていない。もし今まで弥生時代と言われていた年代に古墳築造が始まったとすれば、非常に
	おかしな現象を生じる事になるのである。
	北九州や出雲・山陰にやっと鉄が普及しだした頃、既に奈良の古墳の中には鉄製品が副葬されていた事になり、奈良盆地は、
	北九州や山陰を経ずに、いきなり独自に金属器文化を生み出したことにもなりかねないのである。
	何度も書いたが、文明や文化の発達というものには段階がある。石器を経て土器を産みだし、日本は同時に入ってきたが大
	陸半島では青銅器を経て鉄器の時代へ移る。銅鐸からいきなり飛行機は作れないのだ。
	大和政権がまだ全国を支配する以前の事を、さも大和政権の影響が全国に及んでいたように言う論考は、とても学者の真摯
	な姿勢とは思えない。

 


	古墳時代には、筑紫、出雲、備前、大和をはじめとして各地に多くの豪族が割拠していたものと考えられる。そしてその多
	くは大陸・半島から動乱を逃れて、或いは新天地を目指してやってきた渡来人達だったに違いない。北摂地域でも猪名川流
	域にいくつもの部族が勢力をはっていたようで、茶臼山古墳の被葬者も、そういう豪族の一人だと考えられている。
	古墳時代の最盛期は中期で、ほぼ4世紀半ばから5世紀後半頃だと考えられるが、この頃になると河内や和泉に百舌鳥古墳
	群や古市古墳群のような大規模な古墳群が築造されるようになる。しかし池田には、古墳時代中期以降の古墳はない。おそ
	らくは、河内の勢力が北摂にまで進出し、池田・豊中あたりはこれらの勢力によって駆逐されたか、その勢力圏に吸収され
	たものと考えられる。
	古代人の生きた証であるこの古墳は、風雨に晒されて土が流れ落ちている場所もあり、土塁でくい止められてはいるがもっ
	と本格的な保存法を検討した方がいいのではないだろうか。

 


	以下は、この古墳から出土した円筒形埴輪。歴史民俗資料館に展示されている。		
 

 



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