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城跡から呉服神社へ 200.5.25(土) 歴史倶楽部第64回例会




		●市内から見る池田城跡公園の櫓風展望台。こういう風に見えるように「天守閣」が欲しいんだろうなどこも。

 

 


		●池田の酒「呉春」の製造元。(上下)

 



 

 


		●下左の一画が、日本初の分譲住宅団地。阪急電車を創設した小林一三が売り出した。当時は有馬電気軌道という会社だったそうだ
		が、住宅地を大坂の郊外へ郊外へ伸ばしていき、そこへ文字通りレールを引いていったのだ。
 



 




		●呉服神社(くれはじんじゃ)
		駅のすぐ近くに呉服神社がある。地元ではごふくじんじゃ、ではなく、くれはじんじゃと呼ぶ。ここには機織裁縫の祖・呉服媛がま
		つられている。呉服神社の縁起では応神天皇の頃、呉の国から渡来した工匠の呉服媛が猪名川を溯ってこの地に住み着き、機織裁縫
		の技術を伝えたといわれている。呉服(ごふく)という言葉はここから来ていたのだ。



 


		●「呉」
		 呉服神社と言い、呉春と言い、ほんとにこの地は「呉」と関係があるのだろうか。





 


		●池田の呉服神社 −猪名川流域を開発した先祖の物語−
		 猪名川の流域にも漢氏の末裔たちの開拓物語が残されている。

		 大阪府下には中国や朝鮮から大陸のすぐれた文化を持って渡来し、日本古代文化の発展に重要な役割を果たした人々と深い関係を持つ
		 地域が幾つかあります。大阪府の西端の池田市も、早くからこうした渡来氏族によって開発が進められたところでした。古代の池田は
		 陸上交通の幹線=西国街道に面していることもあって、摂津国豊島(てしま)郡の政治・文化・交通上の中心的な位置を占めていまし
		 た。この池田地方に、中世への転換期にあたる平安時代末に、河内国の土師(はじ)一族の土師正任が移住し、新たに呉庭荘(くれは
		 のしょう)を開きました。この土師氏は漢(あや)氏系統の渡来氏族の子孫にあたり彼らがここに移住してきたのも、池田が古くから
		 渡来氏族と関係が深かったからでしょう。呉庭荘の開発領主として池田に住みついた土師氏は、鎌倉時代の初頭に一族の氏神として、
		 呉庭総社天王を創立し、その神主を兼ねるようになります。現在の池田市室町にある呉服(くれは)神社はこの呉庭総社天王に起源を
		 もつと言われ、土師氏の祖先と考えられる阿知使主(あちのおみ)が応神天皇の命を受けて中国から渡来した呉織(くれはとり)・穴
		 織(あやはとり)の二工女の伝承が土師氏によって復活され、祖神として祀られるに至ったものと考えられます。

		 阿知使主が呉織、穴織などの織女を日本に連れ帰ったことについては、日本書紀にもその記載が見られ、一定の歴史事実を繁栄してい
		 るかもしれませんが、この二工女が池田の地で機織裁縫につとめてたというのはあくまで土師氏によって作られた伝承でしかないでし
		 ょう。しかしそこには遠い異国から日本に渡り住んで勤労に励んだ自分たちの祖先に対する素朴な尊敬となつかしさの感情を見てとる
		 ことができます。現代も呉服神社の近辺には「呉服野」「織殿」「染殿井」「絹掛松」などの二工女にちなんだ地名や旧址がのこって
		 います。

		 その後、南北朝から室町時代頃には、池田地方が「呉服の里」と呼ばれ、やがて謡曲「呉服」などの流行もあって、本来、土師氏の氏
		 神でしかなかった二工女が池田地方の産土神(うぶすながみ)になっていったことは興味深いものがあります。現在の社殿は、豊臣秀
		 吉の命を受けて片桐旦元が修復したという本殿を除けば、すべて近代以降のもので境内もぐんと狭くなっています。阪急宝塚線の池田
		 駅の西出口のすぐ前に石の鳥居が見えています。

		 【大阪の史蹟を訪ねて−1.原始古代編 1973年8月1日 株式会社ナンバー出版】より抜粋

 

 

 



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