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貝塚市の文化財を訪ねて

(財)大阪府文化財センター 平成17年度第一回例会 2005.4.17(日) 大阪府貝塚市





	(財)大阪文化財センターの「郷土の文化財を見学する会」の例会に、昨年は殆ど参加しなかったので、今年は少しまじめ
	に参加してみようと思った。本年度の第一回は貝塚市の水間地方だった。いつも仕事で、南海本線の貝塚駅で待ち合わせを
	するとき、駅の向こうに「水間鉄道」というのが見えていて、あれはいったいどこへ行ってる鉄道なんだろうかと思ってい
	た。今日訪ねる、貝塚市の水間地方だった。大阪府南端部の田園地帯である。




	ここでの解説は、この例会の資料から転載したが、その源は貝塚市教育委員会が発行している「貝塚市の史蹟と文化財」と
	いう小冊子(平成15年10月31日発行)である。以下、青字の文章がそれに該当している。謝意を表す。

 
	<水間鉄道>

	貝塚市域の交通は、大正七(1918)年に貝塚と水間の間に馬車の便が開通しましたが、明治四十四(1911)年には南海鉄道
	の電化が完成していた、市内海岸部に比ペて立ち遅れていました.その為、大正十一(1922)年に泉州財界の有志により水
	間蒸気鉄道が計画され、翌年には許可されました。大正十三(1924)年には水間鉄道株式会社が設立され、1925年12月に麻
	生郷村海塚 - 木島村名越間が開通しました。そして、2年後の昭和二(1927)年に水間まで開通しました。





郷土資料展示室


	<貝塚市郷土資料展示室>

	貝塚市民図書館の2階に平成元年に開設されました.貝塚市の歴史と文化を紹介する展示室です。年4回ほど企画展、特別展
	が開催されています。隣接の調査室では、貝塚市内の歴史資料の調査や整理を進め、貝塚市の歴史の情報センターとなるよ
	うに活動されています。 



 

 

 



 

 



 

 

 

 



















 

 





 




	<木島谷(きのしまだに)>

	水間寺から近木川中流域に広がる地域が木島谷です。現在の町名では清児、名越、水間、三ツ松、森にあたり、昭和10年
	に貝塚町に合併した旧木島村にあたります.平安時代の「和名類従抄」こよると和泉郡十郷一つとして見えます。その範囲
	は広く、北部の岸和田市にまで及んでいます。
	鎌倉時代の宝治三(1243)年に「木島新庄」と言う表現が見られ、荘園が立荘されたようです。地頭は鎌倉幕府の執権北条
	氏の一門がなり、支配していました.地頭は室町時代には、今川氏や現在の八尾市の教興寺が任じられました。南北朝時代
	になると両朝の地頭が存在し、支配は複難となりました。
	戦国時代は、国人、根来、雑賀衆が支配しました。これらの勢力は三好長慶、織田信長、豊臣秀吉などとも戦いました。
	豊臣秀吉の紀州攻めの際にこれらの一揆衆や地元の農民が、近木川流域に築いた城にたてこもり防戦しますが、落城しまし
	た。その後、秀吉の直轄領となり、天正十三(1585)年には岸和田藩領となりました。江戸時代になって清児、名越、水間、
	三ツ松、森の五つの村々が木島谷地域としてまとまりました。政治的な支配だけでなく、祭祀や水利における共同体として
	の結びつきも強く、現在も祭りをはじめとする年中行事でまとまりを見せ、古くからの水利を農業の潅漑として利用してい
	ます。

	※文章は主に『貝塚市の史跡と文化財』貝塚市教育委員会刊を参照しました。

 





図書館の前は道路で、その向かいに高等学校がある。この辺り一帯が加治・神前・畠中遺跡である。

	<加治・神前・畠中遺跡>
	貝塚市の北東部に位置する。主に弥生時代から中世にかけての集落跡です。市役所近辺はその南東部にあたります。他に
	縄文時代の石器なども出土しています。古代の近木郷にある達跡で、当時の同郷の中心地と言えるでしょう。それを裏付
	けるように、弥生時代前期の井戸が見つかっており、早くから集落があったことを想起させます。奈良時代の集落跡から
	は大型の井戸、石帯、硯が出土しており、役所としての機能を持つ施設の存在も考えられるものです。また、平成12年
	の調査では、12世紀後半頃の瓦窯跡が10基検出され、平安時代の文献に見える「古木堂(近木堂)」の存在を裏付け
	ることになりました。



水間寺




	<水間駅舎>

	駅舎は水間寺に参拝する人々を意識し、正面中央部が卒塔婆風の外観になっています。その一方、左右対称の両端に円形
	の部屋を設置したり、改札前を吹き抜けにしたりするなど洋風のデザインもとり入れられています。当時貝塚では珍しか
	った鉄筋コンクリート造りで、80年以上たった今も、基本構造は当時のままです。平成十年、大阪府では、南海電鉄諏訪
	ノ森駅西駅舎に続き、国登録有形文化財の駅舎となりました。



写真左端、赤い横縞のシャツがわたくし。





 

 

 




	<水間寺>

	水間寺は願泉寺と並ぶ貝塚市を代表するお寺です。貝塚市域のほぼ中心に位置します。天台宗延暦寺の別格本山で、龍谷
	山と号します。本尊は聖観世昔菩薩です.水間の寺名は蕎原(そぶら)川と秬谷(きびたに)川の合流地点に位置するこ
	とによります。当寺は天平十五(743)年に行基が聖武天皇の勅願を得て建立されたと伝えられていますが、和鋼元(708)
	年という説もあります。いずれにしろ、創建当初のことはまだよくわかっていません。中世以降、皇族や武家の信仰を厚
	く受け、特に江戸時代には岸和田藩の岡部氏の厚い保護を受け、繁栄しました。境内の三重塔は江戸時代後期に建てられ
	たもので、大阪府では唯一現存するものです。

 

 

 





『和泉名所国会』(寛政八(1796)年刊行)に描かれた水聞寺

 

 







 

 

	「お夏・清十郎」の伝説

	水間寺に伝わる伝説は次のようなものである。−
	約700年前、天皇の勅使の付き人に山名清十郎という美男子がいた。また、水間村の豪商楠右衛門の娘にお夏という美
	女がいた。勅使の晩餐にお夏が出仕したところ、2人はお互いを思うようになったが、清十郎は都へかえってしまった。
	それからお夏は水間寺境内の愛染明王に毎晩祈願するようになった。そのおかげで、南北朝の動乱時に2人は再びめぐり
	あい、以後水間の地で仲睦まじく暮らした。



 

 

 

 



 

 

 

 



 



 

 



水間寺の裏手の山一帯に作られた水間公園で昼食。

	<水間公園>

	昭和五十一年に開設しました。面積は5.4haを測ります。水間寺の本堂背後に「観音山」に広がる貝塚市営の計画公園
	です。観音山の山頂には、経塚であろう「経岡」があり、山沿いには行基堂、弁天堂、薬師堂などがあるので、元は水間
	寺の寺領であったと考えられます。
	江戸時代には岸和田藩主の岡場氏が鷹狩の本陣を置いたことから「お成り山」と呼ばれたと伝えられています。広大な公
	園には広大な自然林を生かした遊歩道があります。公園の南麓にはコジイ、アラカシの林が広がります。また、アベマキ、
	コナラ、クスノキの落葉樹の一群もあり、相が分かれています。

 
	<辻堂>

	水間街道と旧称中筋道の出会い頭に立つ地蔵堂。安政年間(1854〜1860)から存在したと伝えられている。この堂は、念
	仏行事「三ッ松明土行念仏」のルート上に位置し、念仏を唱える場所の一つにあたる事から、三ッ松地区の主要な地蔵堂
	と考えられる。現在の堂は、荒廃していたものを近年再建したものである。




	<水間街道>

	水間寺への参拝道として、また、近木川の山間部の集落を結ぶ生活道として利用されてきました。水間寺から貝塚の寺内
	町へ至るルートの他、途中、清児の集落で分かれて、岸和田城の外堀付近へと至るルートもあります。熊野街道や紀州街
	道の間道ともいえます。水間寺の奥、和泉葛城山を抜けて和歌山粉河方面に抜ける山道が、延長上にあります。沿道には
	道標や寺院が多<、また、旧家が軒を並ペ、風情をかもしだしています。







妙順寺

	<妙順寺>

	浄土真宗本願寺派のお寺です。本尊は木造阿弥陀如来立像で室町時代の作です。寺蔵の「伝言記」には、住職の南氏はも
	と滋賀県(近江国)出身の朝廷を守る武士でしたが、のちに、当地に移住し木島殿と呼ばれたと記されています。その後、
	本願寺第8世蓮如が布教で当地を訪問した際に南兵衛太郎が帰依し「道円」となり寺を開いたとされています。道円は文
	安二(1446)年に亡くなっています。寺号は、道円の母の尼としての名をとったとも言われています。寺に伝わる「南無
	阿弥陀仏」の六字名号の内の1幅は蓮如の筆によるものとされ、貝塚市の文化財に指定されています。





 

 

 
	<観音堂>

	かつて、堂の後ろに蓮の植えられた淵があったので、地元では「はすね観音」と呼ばれ親しまれています。本尊は、江戸
	時代の作であろう石造伝観音菩薩です。寛政(1789〜1801)年間の「和泉国寺社境内帳」に見えますが、その創建は明ら
	かでありません。現在は、観音講を主催する人々によって維持管理されています。建物には、嘉永三(1850)年の「青松
	寺」と記された棟札が残ることから、森の稲荷神社の神宮寺であった青松寺の建物が廃れた後、ここに移築されたと考え
	られています。

稱念寺

	<称念寺>

	浄土真宗本願寺派のお寺です。本尊は木造阿弥陀如来立像で江戸時代前期の作です。寺伝によると、寛文五(1665年、源
	成によって創建されたとされ、江戸時代の森の惣道場といわれていました。明治時代初年の廃仏毀釈により森村にあった
	無任寺、蓮光寺、青松寺とともに廃寺となりましたが、地元の人の努力で村の寺院として復興しました。





 
行松邸のむくの木(上右)
	<行松(「木」の下に「公」)邸のむくの木>

	行松家は江戸時代に森村の年寄りを勤めた旧家です。むくの木はニレ科に属する落葉広葉樹林です。高木で、関東では街
	路樹として使用されています。木の高さは約15m、地上より約3mの所で大きく2本に分かれ枝が上方に張っています。
	樹齢約300年と推定されます。その大きさと樹齢から昭和五十六年に大阪府指定の天然記念物となりました。





森稲荷神社





	<森稲荷神社>

	主な祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)です。古くから木島谷の総社とよばれもとは東方の山頂にあったというこ
	とです。天正七(1579)年の『かりそめのひとりごと』には「繁昌なりし時の神事の記」として記載されています。和泉
	地方だけでな<、摂津、河内、紀州からも参詣者を集め、岸和田藩主岡部氏も田畑を寄進し、祭日には警護の武士数十人
	を出すのが通例となっていたといいます。明治五(1872)年には村社となり、木島内の他の社も合祀されました。本殿は
	三間社流造で江戸時代中期に建立されたものです。

 





 

 


	<不動堂(廃青松寺)>

	稲荷神社の拝殿脇には木造不動明王等を安置する不動堂があります。このお堂は神社の神宮寺としてあった青松寺の一部
	です。中世からこの地域は、真言宗の高野山や根来寺の影響のもと、密教の儀式を執り行ったお堂が村々にあったようで
	すが、青松寺もそのようなお堂の1つであったようです。元禄(1688〜1704)年間には真言宗御室派仁和寺の末寺となり、
	岸和田藩の保護を受けていましたが、明治初めの廃仏毀釈によって廃されてしまい、今ではこのお堂が残るだけとなりま
	した。



 







常照寺


	<常照寺>

	浄土真宗本願寺派に属します。本尊は江戸時代後期〜末期の木造阿弥陀如来立像です。天文元年(1532)の名越の豪族甚
	兵衛が仏門に入り、「教西」と名乗り、当寺を開山したといいます。寺院が整備されたのは江戸時代後期のことで、嘉水
	五(1852)年の寺号使用の免許が残っています。寺宝として慶長十九(1614)年の和歌山城主浅野長成の禁制があります。
	現在の本堂は、明治はじめに廃寺となった半田の海岸寺の岡部家位稗堂を移築したものです。境内の五輪塔は天文九年の
	(1540)ものです。





 



 





安養寺




	<安養寺>

	浄土宗知恩院の末寺です。本尊は室町時代末期に製作された木造阿弥陀如来立像です。寺伝によると、永正九(1512)年
	に、和泉各地で浄土宗の寺院の建立や中興に活躍した燈誉良然が紀州に向かう途中、草庵を見つけ再建したのが当寺とい
	います。元禄〜享保年間(1688〜1736)にかけて整備されたことが知られています。江戸時代以来の伝統として、檀家に
	より、春秋の彼岸と盆には、双盤を打ち鳴らし独特の節回しで念仏を唱える双盤念仏が夜念仏行事として行なわれます。







 









これが双盤念仏で使われる双盤である。表も裏もたたけるようになっている。








	<高井天秤廃寺、高井城跡>
	名越駅近<の近木川北岸の河岸投丘上に位置し、現在は一部が、公園となっています。当地には高井天神社が祭られてい
	ましたが、明治四一年に森稲荷神社に合祀されました。平安時代の瓦や水煙の破片が出土したことから、神宮寺である高
	井廃寺の存在が考えられています。室町時代末期には当寺を出城として、根来、雑賀衆が中世城郭、高井城を築きました。
	天正十三(1586)年の豊臣秀吉による根来攻めで近隣の農民約200名がたてこもりましたが、福島正則により攻められ、
	落城しました。


	
	真正面に見えている森が「高井天秤廃寺、高井城跡」である。ホームから目の前に見えているのに、今日のルートからは
	はずれていて、行こうとするとだいぶ遠回りらしく、今日はパスとなった。今日は始めて歩く地方でなかなかおもしろか
	ったが、しかし、いくらジサマ・バサマが多いと言ってもこう寺社仏閣ばかりではなぁ。もうちょっと気の利いた遺跡も
	加えてほしいもんだ。



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