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史蹟 海会寺跡
2002.5.12(日) 大阪府泉南市








	海会寺跡(かいえじあと)
	海会寺は昭和6・7年、石田茂作博士によって調査され、「飛鳥時代寺院址の研究」で、左に塔、右に金堂を配する「法
	隆寺式伽藍配置」を持つ寺院として有名になった。しかしその址は、昭和50年大阪府の国史跡申請のための資料作成を
	目的とした調査が行われるまで眠り続けていた。その後、昭和56年のゲートボール場設置計画に伴う緊急調査が行われ
	た。その結果、予想以上の成果が上がった。昭和59年に「海会寺遺跡調査指導委員会」が組織され昭和62年に国史跡
	の指定を受けた。

 



 

 


	上右は、この日海会寺と博物館を案内してくれた泉南市教育委員会の城野氏。



 

 

 


	海会寺は、付近の一番高いところに建設されている。平坦な丘陵の上に2mにもなる盛り土をほどこして、その上に基壇
	を築き礎石を配している。この大阪平野の南端に、どうしてこのような当時最新の技術を駆使して大伽藍を構築する必要
	があったのか。本日解説をしてくれた泉南市教育委員会の城野氏は、「今はこの公園は木々に囲まれていますが、もし木
	がなければここからは大阪湾が見渡せます。反対に大阪湾からもこの丘に聳える五重塔が見えたはずで、天皇の権力はこ
	こまで及んでいるぞ、という象徴だったのではないでしょうか。」と語る。
	古文書には「近畿」の範囲を定めた記事が見え、この海会寺はまさしくその南端に位置しているので、城野氏の言うよう
	に境界としてのシンボルの意味合いが濃い。

 

 





 






	海会寺の瓦は、山田寺式、河原寺式の瓦が使用されていることでも有名だが、特に、創建時に使用された山田寺式瓦は山
	田寺で使用されていたものよりも古いタイプのものとして有名である。1997年に飛鳥の吉備池廃寺の調査が行われ、
	海会寺と同じ笵で作られた同笵の山田寺式の瓦が出土した。同寺は最初の天皇発願の寺、百済大寺と推定されている。
	また四天王寺でも同笵の瓦が使用されている。百済大寺は伽藍配置も海会寺と同じ法隆寺式である。最新の研究では百済
	大寺 → 四天王寺 → 海会寺の順に笵型が移動したのではないかと考えられている。

	見てきたような事実は、海会寺創建に関わった当地の豪族が中央政権との結びつきが強かった事を指し示している。また、
	創建年代も7世紀後半に求められるようになり、伽藍ができた順番も判明してきた。より、具体的な年代が与えられよう
	としている。さらに最近の調査で、当時の瓦窯跡、粘土採掘跡が見つかり、豪族居館や伽藍配置の軸のズレの検討なども
	行われている。







 

 



 

 






	海会寺跡の調査では寺跡だけではなく、掘立柱建物で構成された7世紀初めから9世紀前半まで続く集落も同じに検出
	された。このような例は和泉地方(大阪府南部)には多く、和泉市の池田寺跡、貝塚市の秦廃寺跡でも同様の遺構が見
	つかっている。これらの遺跡は、当地に居住する有力な豪族が寺を建立し、その経営にも関わったことを示すのではな
	いかと考えられている。豪族の居住地と考えられるこの建物は、建物の配置軸が正確に東西南北を示しており、これは
	当時の都(飛鳥)で用いられていた豪族の館の配置と同じであり、最新の技術を採用して建てられていることがわかる。
	その豪族が誰であるかについては諸説ありはっきりしないが、阿部氏或いは大伴氏などの名前が挙がっている。またこ
	れらの事から海会寺そのものも、650年前後、ちょうど大化改新の前後に創建されたのでは無いかという推測が成り
	立つ。

 

 

 


	改築に伴い公園内に移動された、海会寺の礎石。もと一岡神社の境内にあった。




	一岡(丘)神社(いちおかじんじゃ)
	現海会寺跡に立つ神社。境内には海会寺の礎石があったが、近年の改築に伴い公園内に移動された。この日は近所の若者
	によるFree Marketが開催されていた。





	発掘により出土した多くの遺物は、すぐ向かいの古代史博物館(泉南市埋蔵文化財センター)に収蔵・展示されている。








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