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わが町の文化財「大阪府寝屋川市」
99.11.13(土)




	寝屋川市教育委員会の主催で、平成11年度 第5回 歴史見て歩き講座「市内の古墳めぐり」が行われた。例によって、ど
	こからか何か見つけてくる名人、東江(あがりえ)さんのお誘いで参加する事にした。そうか、東江さんは寝屋川市民だっ
	たか。
	一般に北河内地方と言うとき、枚方市、交野市、寝屋川市、四条畷市、守口市、門真市、大東市あたりのことを言う。この
	地方も古代から人々が多く住み着き、淀川や生駒山系の豊かな水と緑に恵まれた肥沃な土地で生活していた。旧石器時代か
	ら生活の痕跡は残っており、弥生時代には渡来人も多くこの地に移住し、古墳時代の馬の飼育がもっぱらこの地方で行われ
	ていたことは有名である。
	古墳時代に茨田堤が築造されて以来、水田開発が進み農耕文化が栄えた。また位置的に、大阪、京都、奈良の中間点にある
	ため、常に都の政治、経済、文化の影響を受け、交通の要所としても重要な役割を果たしながら発展してきた。江戸時代に
	は守口、枚方が宿場町と定められ、政治的・経済的に重要な道となった。また東高野街道・河内街道・清滝街道・古堤街道
	・磐船街道は、高野山、大峰山、伊勢・野崎詣りへの巡礼や商業・文化を担う道として繁栄した。この北河内地方にはこれ
	らの旧街道の面影を残す道標などが数多く残されている。






寝屋川市立埋蔵文化財資料館

	この資料館は、昭和56年にOPENした。市内には旧石器・縄文・弥生・古墳・古代から中世・近世に至る遺跡が存在している。
	ここでは、これらの文化遺産を発掘・収集・保存・展示している。展示室には三味頭遺跡出土の円筒埴輪や朝顔型埴輪をは
	じめ、太秦古墳群から出土したニワトリ、シカ形埴輪が展示され市内各地の古墳時代の遺跡を紹介している。長保寺遺跡か
	ら発見された準構造船を転用した井戸枠は貴重な資料である。この準構造船は本来は10mを越えるものであった。現在保
	存処理がされ展示公開されている。この日は企画展示ということで、「弥生時代のくらしと道具」展が開かれていた。


 

 

	
	− 高宮八丁(たかみやはっちょう)遺跡の出現 −
	
	高宮八丁遺跡は、初町から本町に所在する寝屋川市の弥生時代を代表する遺跡です。遺跡は、寝屋川郵便局の建設に伴って
	現在の地面の1.5m下で発見されました。弥生時代前期から中期の集落遺跡です。北河内地域では、四条畷市雁屋(かりや)
	遺跡とともに弥生時代最古のムラです。発掘調査では大量の土器の他石器・木器など豊富な遺物が出土しており、この地域
	にとどまらず近畿地方の稲作の始まりを考える上で重要な遺跡です。遺跡からは、木器の未製品やサヌカイト(打製石器の
	材料)の剥片(薄いかけら)が出土しており、ムラの中で木器や石器の製作を行っていたことがわかりました。また、大量
	の土器には、中河内地域(東大阪−八尾市)の山麓部で作られたものや、東海・琵琶湖周辺・京都府南部・瀬戸内海沿岸な
	どの各地域の特徴を持ったものがあり、石器などの材料を含めて広範囲の交流があった事がわかります。
	− 寝屋川市立埋蔵文化財資料館作成「企画展示パンフレット」より −

 



 


	− 高宮八丁(たかみやはっちょう)遺跡のその後 −
	
	弥生時代前期から注記にかけて栄えた高宮八丁遺跡は、弥生時代中期中頃以降の遺物は見つかっておらず、この頃にムラが
	衰退したと考えられます。ムラが衰退したのは、洪水などの自然災害による環境の変化、或いは戦争などの社会的な原因な
	どによると考えられますが、はっきりわかっていません。ちょうど同じ頃に、東側の丘陵上に太秦遺跡(太秦中町・太秦高
	塚町ほか)が出現します。両者の距離は近く、高宮八丁ムラの人々が太秦ムラに移ったのかもしれません。太秦遺跡は、弥
	生時代後期後半まで続くようです。この他周辺では、池の瀬遺跡(池の瀬町)・小路遺跡(小路)で弥生時代後期の土器が
	出土しており、ムラの跡があるようです。寝屋川市の西側の地域では、弥生時代中期末の茨田郡条里(まったぐんじょうり
	:池田川村)遺跡(池田2丁目)・池田西遺跡(池田西町)があり、弥生時代後期には高柳遺跡(高柳2丁目・4丁目)で
	もムラの跡が見つかっています。池田西遺跡と高柳遺跡では、竪穴式住居跡が見つかっています。いづれの遺跡も遺物の出
	土量は少なく、比較的小規模なムラだと考えられます。
	− 同上 「企画展示パンフレット」より −


 

下は高宮八丁遺跡のドングリ貯蔵穴。

 

 

 

 






東高野街道を行く 明光寺・弘法井戸・雷神石

「東 なら いせ ミち」
「南 かうの のさき 大坂みち」
「北 京 八はた 星田 妙見道」
「安政四年巳年正月 為父母 酒勘」

と道標に彫られている。ちなみに安政四年は1857年である。

 

寝屋川市内では、文化財のすぐ側に「鉢かつぎ姫」の石像が立っており、その由来を説明してくれている。

 

 


	明光寺に雷神石と呼ばれている大きな長方形の石碑が存在している。本来これは古墳時代後期の石棺の身である。この石に
	は世の平和と仏教の繁栄を願った文が弘治3年(1557)に前面と側面に刻まれている。江戸時代のガイドブック「河内名所
	図会」には、この付近に「八十塚あり」と書かれているそうなので、雷神石もおそらくたくさんあった古墳の石棺を持って
	きたものに違いない。





高良神社










石宝殿古墳




	打上神社(高良神社)の奥に、八角形をしていた可能性が考えられる石宝殿古墳がある。北河内では唯一の、古墳時代末期
	に属する古墳である。この古墳は巨大な花崗岩を刳り抜いた石槨を持ち、底板と蓋板の石を組み合わせてある。ちょうど飛
	鳥にある「鬼の雪隠・まな板」と同じである。これを見れば飛鳥のものが古墳の石槨の底と蓋だと理解できる。現在は石槨
	が露出しているが、江戸時代初め頃までは土中に埋まっていたようである。江戸中期の記録ではもう現状のように入り口は
	開いていたと記録されているそうだ。
	石槨内の棺や副葬品などについては委細不明であるが、伝聞によれば近くから白骨の入った金銅製の壺が見つかったと言わ
	れている。
	被葬者は不明だが、これだけの古墳を築造できる力を持っていたことを考えると、この地域の豪族で中央政権ともつながり
	を持った人物だったのではないかと推測できる。製造時期は古墳時代末期(7世紀頃)と考えられ、昭和48年に国指定の史
	跡となった。

 

 

 

 





 

 






寝屋古墳

  

 

 



古墳主体部は巨石を利用した横穴式石室だが、主体部の発掘は行われていないので副葬品や被葬者は不明との事。








太秦高塚古墳

	太秦高塚古墳は市東部の丘陵上にある円墳で、付近から出土した数点の円筒埴輪片から見て 5,6世紀に築造されたものと推
	測される。
	太秦周辺に残る地名は「小金塚」「向ヒ塚」「モロ塚」「殿山」など、古墳を想起させるものが多く、かって多数の古墳が
	存在していた事を窺わせるが、この古墳はそれらの「太秦古墳群」の中で現存する唯一の古墳である。現在は大阪市水道局
	豊野浄水場に隣接しており、金網の防護柵のなかは山林になっている。この古墳も発掘調査は行われておらず、被葬者、副
	葬品等は不明である。



 






高宮廃寺跡

	昭和28年の大阪府教育委員会による発掘調査および昭和54年の寝屋川市教育委員会による調査の結果、白鳳時代の大伽藍で
	あった事が判明した。金堂・講堂の位置や回廊が判明し、薬師寺式の伽藍配置と同じである事がわかった。寺院は白鳳時代
	に創建され、奈良時代にかけて営まれた後廃絶し、鎌倉−室町時代に大社御祖神社の神宮寺として再建されたと考えられて
	いる。高宮廃寺跡の西側にある高宮遺跡では、高宮廃寺が建てられる直前の時期に、柵に囲まれた巨大な建物跡が見つかっ
	ており、この地方を治めていた古代豪族の居住地だったと推測される。北河内を代表する古代寺院跡として昭和55年に国指
	定の史跡になった。



 

 





	誰の家にも先祖がいるように町にもまた歴史がある。およそ平野部には、古来から人が住んでないことはないのだ。寝屋川
	にも昔から人々の生活があった。我々の先祖は江戸時代にも、室町にも平安にも、そして弥生、縄文にも必ずどこかにいた
	のである。もしタイムマシンがあったなら、石器人から類人猿へとたどり、たった1個のアメーバまでたどり着くかもしれ
	ない。君の50代前の先祖はもしかしたら、モンゴルの大平原で馬に乗って草原を駆けていたかもしれないし、40代前の君の
	じいさんは、埴輪にあるような準構造船にのって荒波の日本海を渡ったかもしれない。なんと胸躍る光景だろう。なんと興
	奮と感動に満ちた世界だろう。

歴史は過去ではない。「想像力」という道具を使って、君は1万年間の人類の軌跡を君自身で見ることが出来るのだ。







	2000年 3月11日(土曜日)に、寝屋川市で「よみがえる白鳳伽藍」シンポジウムが開催された。高宮廃寺を中心とする古代
	寺院の成立と、北河内地方における古代権力構造の解明がテーマだった。この時一緒に廻った教育委員会の塩山さんも講師
	・パネラーとして参加していた。


邪馬台国大研究・ホームページ /遺跡・旧跡めぐり/寝屋川市