<昼神車塚古墳>(ひるがみくるまづかこふん) 高槻市天神町一丁目 JR高槻駅北口から北へ徒歩約8分 大阪と京都のほぼ中間に、北は北摂山地に連なる山々があり、南は沃野を挟んで淀川にいたる地域がある。高槻市はここ で南北に長い市域をもつ。この地域は古代から人々が住んでおり、北摂の中でもとくに古墳が多く造られた地域としてよ く知られている。その古墳群の中でも、比較的規模の大きい古墳の一つに、昼神車塚古墳がある。
<古曾部(こそべ)焼> 古曾部焼は、大部分が江戸時代から明治にかけて焼かれた。主として生活雑器を中心とした焼き物で茶碗、壺、花器など が多いようである。高槻城跡にある高槻市立しろあと歴史館、歴史民族資料館に古曾部焼のいくつかが展示されているが、 いずれも素朴な趣の渋い色の陶器が多く、なかなかの風合いだ。今も古曾部の町ではささやかながら古曾部焼の伝統が守 られているようである。昼神車塚古墳はこの古曾部の町の西側にある。
墳丘は金属製の柵で囲まれ保護されており、普段は上宮天満宮の神域ということになっているため、一般人が自由に入る ことはできない。今日は特別に許可を貰って見学した。集団で来るとこれがあるからいいよなぁ。高槻市教育委員会の方 が古墳で我々を待っていてくれた。この古墳の説明をしてくれた。
昼神車塚古墳は北側の天神山の南側裾部分にあり、北向きの前方後円墳である。上宮天満宮参道のすぐ東側に位置する。 全長約60m、前方部幅約40m、後円部径約35mで、後円部より前方部の方が高く造られている。前方部の発掘調査 では、犬や猪、角笛(つのぶえ)をもった狩人などの埴輪が出土した。現在、前方部は復元・整備され、その様子は復元 埴輪でみることができる。(本物は高槻市役所にあるらしい。) 古墳の北側を除いて何れも一般民家が古墳に近接して建てられており、古墳前方部の下はトンネルになっていて、府道が 通っている。昭和51年頃、トンネル建設に先立って発掘調査がおこなわれ、現在の古墳はトンネル建設後、調査結果に 基づいて復元されたものである。この府道を造るときに古墳の前方部を切り取る予定だったが、住民の強い要望により現 在の形で保存されたといわれる。
古墳の築造年代は、遅くとも6世紀中頃までと考えられ、古墳時代後期にあたる。被葬者はこの地を支配していた首長で あろうと推定される。「日本書紀」に記述のある三島県主(みしまのあがたぬし)を葬ったのかもしれない。あるいは、 ここより南方の広域は、後に野見郷(のみのさと)とよばれたので、その一族の首長であったのかもしれない。猪を追う 犬たち、角笛を手にする者や片手を挙げて祈るような巫女(巫女を力士とする説もあり)の埴輪列は、いかにも「狩り」 の情景を現している。ちなみに「車塚」とは、江戸時代の学者「山片幡東」が言い出した、前方後円墳を牛車に見立てた 時、後円部が車にあたるところから、この名がつけられる。全国的にも「XX車塚」という古墳は多い。
テラスは、墳頂部から北にかけて、上段、中段、下段の三段になっており、上段のテラスには、人頭大の河原石を敷き、 下段は削りとられている。中段のテラスに、埴輪が二列に並べられていた。発掘では、山側の一列は、山側に倒れ、谷 側の一列の埴輪は谷側にくずれ落ちていた。現在復元されている、山側の一列であり、それが犬と猪と人物である。
2体の人物埴輪は、死者を安置したとみられる墳頂部を背にして、北側を向いているので、神聖な場所を区切る者とし ての役割で、巫女ではないかといわれる。犬と猪の埴輪は、明らかに猪猟を表現している。埴輪の猪を真ん中にその前 後から2頭の犬が吠えついていて、犬が猪を抱えている状況を表現している。古墳の被葬者は、おそらく犬を連れて猪 狩りを習慣としていた人物なのだろう。
犬は立耳、巻尾で表現され、猪は怒り毛をたてており、尻尾は垂れていて、犬と区別されている。犬には首にヒモが巻 き付けてあり、これは犬の飼い主が、犬を常にヒモで繋いでおき、狩猟だけに使用していることを示している。