Music: 聖夜
みちのくの「キリストの墓」


  



青森県三戸郡新郷村大字戸来にキリストの墓なるものがある。今日では偽書として有名な、「竹内文書」の製作者と目される武内巨磨が、昭和10年古代史研究家鳥谷幡山なる者他数名とこの地を訪れた。
そして、「竹内文書にキリストがこの村に住んでいたと書いてある」と訴え、当時の村長の案内で小高い丘の上にあった土まんじゅうを二つ見つけ、右側の「十来塚」をキリストの墓、左側をキリストの弟イスキリの墓「十代塚」とした。
以来この村ではここがキリストの墓と言う事になっており、今日では村をあげての観光資源と化している。その説に依れば、遠くユダヤの地で磔にあったのはキリストではなく弟イスキリだと言う。キリストはユダヤを離れ、シベリアを横断し、アラスカから船に乗って青森県八戸に上陸したと言うのである。 キリストは20代の時にも日本に来ており、再上陸したのちは日本人の妻をめとり、新郷村で3人の娘を育てたそうである。この村では、近所の山に露出している岩石群を大石神ピラミッドと称し、村の名前で大層な看板まで建てて宣伝に努めている。

こういう活動に対して我々は一体どう対処すべきであろうか。学術的に荒唐無稽なのは自明である。常識で判断しても、こんな説が証明されるはずもない。しかし、降って湧いた話を唯一の産業にして村おこしを図ってきた村人たちに罪はないようにも思える。
悪の根元は「竹内文書」であろう。偽書の製作は最近では「東日流外三郡誌」が有名だが、これにも行政が騙されて悪のりしている。この事件もここからさ程はなれていない五所川原が根源だが、いずれも青森県である。




  
左から、東江さん、服部さん、平さん、井上、栗本さん。





しかし行政が得体の知れないものに悪のりする風潮は、何もここだけに限った事ではない。また偽書や、古文書の偽造、家系図の捏造などは現在もどこかで行われている。人はなぜ歴史を偽造しようなどと思うのであろうか?こういう場所にくると、荒唐無稽さに可笑しくなるよりどこか悲しくなってくる。同時に、無知の怖さとそれにつけ込む偽善者達のほくそ笑みに激しい怒りも沸き上がってくるのである。 平成10年8月9日。




	と、ここまで書いてこのページを倅に見せた。倅は、「そんな目くじら立てんでもええんちゃう。観光やろ、観光。」と
	のたもうた。そうなのだ。観光。学術的な遺跡と思うから腹が立つのかもしれない。しかし観光なら観光でもいいから、
	案内板やパンフのどこかに、学術的な遺跡と証明された訳ではない旨の記述を載せるべきである。「文化観光立県」を目
	指すならなおさらの事だ。三内丸山のような明らかに証明された文化遺跡と、そうでないものは、はっきり区別すべきで
	ある。行政が後押しするなら尚更であろう。





以下は、わが歴史倶楽部の会員栗本さんが会社の社内報に投稿した、この時の訪問記である。



〔万サロン投稿〕

みちのく「キリストの墓」の謎            栗本光敏


	 昨年のことです。三内丸山遺跡を中心に青森の歴史の跡を訪ねようと数人で旅に出ました。事前チェツクのため資料を見
	ていると、不思議な場所が見つかったのです。それは、「キリストの墓と弟の墓」となっています。ゴルゴダの丘で磔に処
	せられたはずのキリストが実は密かに日本に渡り、106 歳で没するまで青森の戸来(へらい)村に住んでいたと、墓の写真
	まで付けてあります。「コリハ、イガネバナンネエ」早くも東北弁が耳の奥で聞こえてくる。同行者に相談すると、賛成、
	異議なし、議事進行の声が多数で是非とも行って見ようと決議されました。八甲田、奥入瀬(おいらせ)、十和田湖を見な
	がら、青森市から車で5時間位もかかったでしょうか、地名変更で今は新郷(しんごう)村となっている山深い里に「キリ
	ストの墓はありました。直径5メートル、高さ1メート位の盛土の上に十字架が立っており周囲を柵で囲ってあります。同
	じ形状のものがもう一つ横にあって、こちらは「弟イスキリの墓」なのです。これらの墓の由来が次のように掲示されてい
	ました。

	
	『キリストの墓 イエスキリストは二十一才のとき日本に渡り12年の間神学について修行を重ね三十三才のとき、ユダヤに
	帰って神の教えについて伝道を行いましたが、その当時のユダヤ人達は、キリストの教えを容れず、かえってキリストを捕
	らえて十字架に磔刑に処さんと致しました。しかし偶々イエスの弟イスキリが兄の身代わりとなって十字架の露と果てたの
	であります。他方、十字架の磔刑からのがれたキリストは、艱難辛苦の旅をつづけて、再び、日本の土を踏みこの戸来村に
	住居を定めて、百六才長寿を以て、この地に没しました。この聖地には右側の十来塚にイエスキリストを、左側の十代墓に
	弟イスキリを祀っております。以上はイエスキリストの遺言書によるものと謂われております。』
	(原文のまま。英文も併記されている。)

	途中の道路標識にも「キリストの墓」と表示があり、また、墓の周辺はキリストの里公園として整備されています。私たち
	の到着が5時の閉館後だったため、残念ながら詳しい資料を見ることができませんでしたが「キリスト伝承館」という資料
	館が建っています。

	翌日、三内丸山遺跡で催されたイベント会場で新郷村の人に出会ったので、尋ねてみたところ、墓は、村でも2番目の旧家
	である沢口家のものであって、その沢口家の家紋はダビデの星なのです。戸来(へらい)はヘブライから来ているのかもし
	れないということでした。だが村にはクリスチャンは一人もいません。
	この話には、古事記・日本書紀より古いという竹内文書なる幻の古文書が関係しているらしいのです。「謎の竹内文書」
	(佐治芳彦著)を読んでみましたが、仮説の上に仮説を構築しているようで、私には難解なSFとしか思えないのです。
	分かったことは、竹内文書の信奉者だった山根キクなる人物が、昭和13年に「光は東方より」を著して、キリストが日本で
	死んだと唱えたことから始まったらしいのです。仮説として発表された見解は科学的に証明されなければ単なる憶測に過ぎ
	ませんが、「キリストの墓」に関しては、客観的な証拠がないのに、仮説が事実のごとく、神秘・ロマンの世界として許さ
	れているようです。

	キリストの頃、我が国は弥生時代でありました。その頃の地中海・メソポタミア・中国の文明に比べると非常に遅れた地の
	果てのわが国まで来て、それも、あろうことか陸奥の山深い里にひそんで 40 歳頃から 106歳まで何をしとったんや、とい
	うのが私の疑問でした。
	私ならローマに敵対している国に逃げ込みます。まぁ、ゆずりたくないが、百歩も千歩もゆずって、キリストが日本に来た
	としましょう。どうして青森と秋田の境目にじっとしていたのでしょうか。答えが用意されていました。ミユ子と称する日
	本婦人をめとり三女を育てたというのです。

	そういえば、この地方は美女の群生地ではなかったでしょうか。お米のブランドでも、有名な「秋田こまち」がありますが、
	対抗して青森は「津軽おとめ」を出しています。この両県の女性なら美女ブランドとして通じるでしょう。(「浪速おとめ」
	「浪速こまち」のブランドを誰も作らない。売上が落ちるのかも知れない。)

	ミユ子さんは、さぞかし美しい津軽こまちであったにちがいない。これが、私の仮説なのです。


	山ろくにはモーゼの墓 宝達山(石川) 
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	旧約聖書の預言者の一人で、映画「十戒」や「プリンス・オブ・エジプト」の主人公モーゼが訪れたという奇想天外な伝説
	を秘める石川県押水町の宝達山(標高六三七メートル)。同町によると、伝説ではモーゼはシナイ山に登った後、天浮舟に
	乗って能登半島にたどり着き、この山で十戒を授かったことになっている。山ろくにある三ツ子塚はモーゼとその妻子の墓
	というわけだ。
	町は一九九三年度までにふるさと創生基金などを活用して、三ツ子塚周辺に遊歩道を整備し、「モーゼパーク」と名付けて
	いる。イチジクを原料にした「モーゼス・ワイン−伝説の泉」なども作られ、町おこしに一役買っている。もっともこのモ
	ーゼ伝説、信ぴょう性はあまりない。
	基になったのは「竹内文書」と呼ばれる文献で、昭和初期の新興宗教である天津(あまつ)教の教主竹内巨麿が「代々、秘
	蔵していた」というものだが、釈迦や孔子、老子、キリスト、ムハンマドら古代の世界的な思想家・宗教家のほとんどは日
	本を訪れたことになっている。学問的には認められておらず、「本当かうそかと言われると、つらいところもあるのですが」
	と同町企画財政課。江戸時代は金銀の鉱山として知られ、加賀藩では優れた土木技術者を「宝達者」と呼んでいたという。
	能登最高峰の山で、山頂からは天気が良ければ能登半島を一望できる。四月下旬から五月初旬にかけては八重桜、十月下旬
	にはブナの紅葉を楽しめる。
	<ルートメモ>
	JR七尾線宝達駅から山頂まで約10キロ。「モーゼパーク」は宝達駅から約1キロのところにあり、公園内の遊歩道は30
	分ほどで散策できる。春に八重桜を見たい時はJR高松駅からバスで野寺まで行き林道の並木道に入る。野寺から山頂まで
	徒歩で約3時間。山頂周辺には手速比売(てはやひめ)神社や展望台があり、ブナ林が周辺に広がっている。3月上旬まで
	通行止めの道もあるので注意が必要。 (Ashi.com 2002/2/4)

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