Music: 北国の二人(ブルーコメッツ)
十三湊遺跡 (とさみなと) 1998.7.19


  



 

 


	東北の他の土地と同じように、ここ十三湖付近にも縄文時代から人は住み着いており、各種土器や石器も発見されている。
	市浦村では、十三湊の遺跡を中心にしてこれらの遺跡からの出土品や、各種農機具などを歴史民俗資料館として展示してい
	る。







青森県北津軽郡市浦村に、十三湖と呼ばれる大きな湖がある。海とも繋がっており、名産品はシジミである。この一帯は古くは十三湊(とさみなと)と呼ばれており、鎌倉時代から室町期にかけて港町として繁栄していたという伝承があったが、その実在が疑問視されていた幻の中世都市であった。
1991年から3年間行われた国立歴史民俗博物館と富山大学の調査は、その伝承が紛れもなく事実であった事を証明した。中世の港町としては初めての、本格的な土塁と当時の Main street が確認された他、町屋や館、寺院などが確認された。又、土塁の南側には、板塀に囲まれた短冊型の区画が整然と並び、敷地の奥には木組みの井戸も発見された。 さらに、刀などの鉄製品、宋銭、炭化米なども発見され、京都の町屋に似た庶民の住宅街も類推され、都市的な暮らしぶりや、往時の人々のにぎわいを彷彿とさせる。又、北側には幅10mの内塀に囲まれた1辺110mの館跡も発見された。塀は、板を交互に重ね合わせた網代塀で、高い身分の、おそらく武士の館であろうと考えられる。
伝承では、十三湊は大津波によって滅んだと伝えられていたが、この調査では遺構に津波の後は発見されなかった。しかし、これまで伝承と、少ない後世の文献資料でしか窺いしれなかった、幻の中世都市・十三湊が発見された事の意義は大きい。遠く都を離れた地域に、素晴らしい文化を持った都市が確かに存在し、海を越え遠く海外とも貿易を行っていた のである。又、人々の伝承は結構事実を伝えている、という事例が又確認されたという点でも、この遺跡の発掘意義は大きいものがある。
下の発掘現場は、上に記した館跡である。近くに、この館の主に仕えたのではないかと目される職人の作業場も発見され、火事で焼けた屋根材や柱などが見つかったため、この館は十三湊の中心的なものであり、当時の支配者の住居跡ではないかと推定されている。







上の、橋を渡った先に見えているのが市浦村歴史民俗資料館だ。



市浦村 歴史民俗資料館



 

下は、十三湊で発掘された「館跡」の井戸枠。

 





上、両脇は古瀬戸。中央は当時の瀬戸物。

 

 

上左は常滑焼きの壷。



建築に用いられたかすがいなどの鉄製品(上左)と、小刀(上右)





青磁(上左)と当時の箸(上右)

   

下左の中央に黒い塊の像が見えるが、安東盛季と伝えられる武者木彫り像。下右は十三湊から海外にも出かけていた安東船の模型。

   





《福島城址》

	昭和30年9月、東京大学の江上波夫教授らの発掘調査で、竪穴住居跡、外堀、内堀、土塁跡、門祉や柵柱列が発見され、古代
	から中世にわたる遺跡であると推定された。この福島城は、約65万uの外郭と一辺約200mの内郭からなる近世以前では東北
	最大の城で、従来は、中世十三湊を支配し権勢を誇っていた安東(安藤)氏代々の居城であると伝えられて来た。
	1992年の十三湊発掘調査の結果、福島城は堅固な土塁と大規模な掘に囲まれた本格的な城郭施設である事が明確となった。
	また、通説に反して中世の遺物は全く出土せず、11世紀の土器が出土した事から、福島城は、奥州平泉をも遡る11世紀の城
	である可能性が高くなった。その後の調査はまだ着手されていない。

 






「海から見た戦国日本−列島史から世界史へ」(村井章介著:ちくま新書:1997年10月20日発行)より抜粋

津軽十三湊

	北方貿易の仲介者として重要な役割を果たしたのが、蝦夷地往来の重要なターミナルである十三湊を本拠地とする津軽安藤
	氏である。安藤氏は蝦夷管領として中世国家の先端に位置づけられ、<北の押さえ>にあたる存在であると同時に、北海道
	サハリンから大陸にまで届く視野をもつ自立的な通交者でもあった。
	十三湊は蝦夷島渡海の起点であると同時に、日本海沿岸航路の終点でもあり、交易ルートは若狭を通じて畿内方面へとつな
	がっていた。
	1500年ころ、宇須岸(ウスケシ:今の函館)には毎年三回ずつ若狭からの商船が着き、渚に張り出して問屋の建物が軒をな
	らべていたという。1991年以来、国立歴史民族博物館と富山大学を中心に十三湊の総合調査が行われ、最近「都市プラ
	ンの想定復元図」が示されるにいたった。それによると、砂州の中央を南北に中軸街路が走り、砂州の北端から南へ800
	メートルほどのところに、砂州を横断して土塁と堀がもうけられている。土塁の北に隣接して堀で囲まれた一辺100メー
	トルほどの領主館があり、安藤氏の本拠そのものと推定される。その周辺には家臣団の屋敷群も想定される。
	土塁の南には中軸街路の両側に町屋が形成され、あちこちに寺社や館も分布する・・・・・・。
	大胆な復元であるが、いま街村集落がある砂州西側についての言及がない、肝心の港湾施設の位置が特定されていないなど、
	まだまだ未解明の部分が大きいように思う。とくに、水辺から遠い砂州中央の直線的な道路沿いに市街地が形成される、と
	いうのは、自然発生的な中世港町のイメージとかけはなれており、とまどいを禁じえない。
	この市街地の立地と、大規模な館址の南側を東西に走り砂州の先端部分を閉鎖空間とする土塁・堀とをあわせて考えると、
	港町が軍事要塞化された結果生じた二次的な都市構造とみたほうがよいのではないか。
	今後はこの復元をたたき台として、従来から採集されてきた貿易陶磁などの遺物をもあわせ考えながら、北方交易のターミ
	ナルである港町の具体像にせまっていくことが必要であろう。とくに、安藤氏の館が十三湖北岸の福島城や唐川城ではなく、
	港町の内部にあったことが事実とすれば、同氏の性格を考える上できわめて示唆的である。



十三湊遺跡で墳丘墓とみられる円形の塚発見 青森 2002/7/25 asahi.com 十三湊遺跡で見つかった円形の丘。安藤氏一族を埋葬した墳丘墓の可能性が高い=24日、青森県市浦村十三で 鎌倉時代から室町時代中期まで栄えた港湾都市の跡とされる青森県市浦村の十三湊(とさみなと)遺跡で、直径8メートル 近い円形の塚が、県と村の教育委員会の調査で見つかった。身分の高い人物を埋葬した墳丘墓とみられ、一帯を治めていた 安藤氏一族を埋葬した可能性が高いという。墳丘墓だとすれば、中世のものでは最北となる。 調査は、国指定史跡を目指して進めているもので、今年度は6〜7月、遺跡南端の壇林寺跡と呼ばれる場所を調べた。 見つかった塚は直径7.8メートル、高さ1.5メートル。塚を囲む溝からの出土品によって15世紀前半にできたと推定 される。 県教委文化財保護課の井上圭介副参事は「構造から墳丘墓以外には考えられず、大きさから領主級の人物が埋葬された可能 性が高い」としている。 同県内には、中世の墳丘墓とみられる塚がいくつかあるが、正式に確認されたものはない。井上副参事は「骨つぼや副葬品 が見つかれば、港や安藤氏の実態を探る手がかりになる」と期待する。 また、塚の近くに東西50メートル、南北65メートルにわたって堀に囲まれた部分や、150メートル四方にわたって土 塁に囲まれた部分が見つかった。宗教上の聖地と、そこに隣接していた市か宿場ではないかという。 (07/25)

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