Music: Across the Universe
冬の藤原京をゆく
2001.1.21(日)歴史倶楽部第45回例会





	今回の例会は、「藤原宮」と「天の香久山」がメインである。中国の長安をまねて造られたという、我が国初の本格的な
	都「藤原宮」。後の我が国の首都造りの基本となった。「雪の藤原京めぐり」に惹かれて8名で散策したが残念な事に雪
	は降らなかった。大阪「阿部野橋」に集合し、近鉄南大阪線・橿原線を利用して「畝傍御陵前」駅まで約1時間。元薬師
	寺から紀寺跡を見て、天香具山に登り藤原京へ。ざっと3時間もあれば廻れるコースだ。ゆっくり歩いても4時間在れば
	十分だろう。





元(本)薬師寺(もとやくしじ)


	午前中、奈良県立橿原考古学研究所の附属博物館を見学した。ボランティアのお姉ちゃん(奈良女子大国文科生)が熱心に
	説明してくれたので、みんな機嫌良く聞いてとうとうお昼まで見学に費やしてしまった。近くの公園で昼食を取った後元薬
	師寺を目指した。近鉄橿原線「畝傍御陵前駅」を、前述附属博物館とは反対側から天香久山(あまのかぐやま)に向かって
	歩くと、10分ほどで道ばたに「本薬師寺跡」を説明した看板と、黒岩重吾書による万葉歌碑がある。そこから狭いたんぼ道
	を20mほど行くと、神社だか民家だか分からないよう一軒家の庭先に大きな礎石が並んでいる。

 




	これが、天武天皇が皇后(持統天皇)の病気治癒のために建立した「薬師寺」の跡である。都の移転に伴って「薬師寺」も
	平城京(今の奈良市西の京)へ移るが、ここが元々の薬師寺のあった所である。そのためここは今「元(本)薬師寺」と呼
	ばれている。

 

 


	「日本書紀」によると天武9年(680)11月の条に「皇后、体不予(みやまい)したまふ。即ち皇后の為に誓願して、初めて
	薬師寺を興つ(たつ)。仍(よ)りて一百僧(ももたりのほふし)を度(いへで)せしむ。是に由りて、安平(たひら)ぎ
	たまうこと得たり。
	是の日に罪(つみびと)を赦す。」とあり、皇后の病気は回復に向かったので、赦免を施したと言う。伽藍配置は、南北中
	軸線上に南から中門、金堂と塔の位置関係は平城京薬師寺と同じで、現在、金堂及び東西両塔のあったと見られる部分が国
	特別史跡に指定されている。

 


	従来、元薬師寺は、平城遷都後の養老2年(718)に現在の薬師寺の地に移建されたと考えられていたが、現在の調査では、
	その後も存続していたと見られる痕跡があり、移転説に疑問を投げかけている。



下左が東塔のあった跡。西塔は下右の礎石配置跡の裏に、こんもりした土饅頭として残っている。

 





紀寺跡(きでらあと)


	元薬師寺から更に天の香久山を目指して歩くと、これも道ばたに「紀寺跡」の説明版が立っている。薬師寺同様、都が平城
	京へ遷都するとともに平城京外京に移転した寺の前身と考えられている。創建年代等不明な点が多く、その名前から和歌山
	の紀氏一族の氏寺ではないかという解説もあるが、どうして奈良に「紀」氏ゆかりの寺が建っているのか疑問だ。今は看板
	だけで何もない野原である。

 







天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)


	紀寺跡をすぎて15分ほど歩くと、天香久山の麓に「天の岩戸神社」がある。神社裏の大岩が祭神となっているが、神社その
	ものは昭和になってから建てられたものらしい。

     



天香具山(あまのかぐやま)


	香久山は標高152.4mで、すぐ山頂へ登り切ってしまう。山頂はちいさな広場になっていて展望は良くない。

「春過ぎて 夏来るらし白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」


	持統天皇が香久山の初夏を詠った、百人一首にもみえる有名な万葉の歌である。持統天皇はこの歌を、藤原宮から香久山を
	眺めて詠ったと思われる。香久山を登っていてこの看板に出会った、我が歴史倶楽部のXXさんは「白妙の、というのは白
	い砂だと思っていた。」そうである。「なんで奈良に海岸の白砂があるのか不思議だったんだよね。」「ほんまに国立大学
	出とるんかい(カゲの声)。」

 


河原さんのカメラはなんか日付のセットがおかしいね。

 


	香久山から降りてくる途中に「天香久山神社」がある。占いの神様「櫛真神」が祀られている。「古事記」によれば、天照
	大神が岩戸隠れをした際に万の神々達は、真男鹿(まおしか)の肩甲骨を「天波々迦」(あまのははか)で焼いて占ったと
	ある。波々迦の木というのが神社境内にあった。

 



藤原京(ふじわらきょう)へ




	藤原京は、「大和三山」と言われる、香具山・畝傍山・耳成山という奈良盆地の中にある小さな山を結んだ三角形の真ん中
	にある。現在の奈良県橿原市である。大和三山はみな低く、一番高い畝傍山も199mであり、走っても登れる。7世紀末から
	8世紀初めにかけてここに日本最初の都城制都市が造られた。

 


	藤原京は、我が国初の本格的な都である。
	飛鳥時代の都が、天皇の思いつきや気まぐれで転々としていたのと比べれば、日本で初めて都市計画された都であると言え
	る。都の築造は、中国の都城制を基礎とし、基盤目に走る坊条道路の敷設などは大規模な造成工事を伴い、大々的な首都造
	成工事であった。今から約 1300年前、天武天皇の御代、天武五年( 676)に計画され、天武天皇はその2年後の朱鳥元年
	( 686)に崩御したため、持統天皇の代に完成して持統八年(694)12月6日に遷都された。藤原京の中心には「藤原宮(ふ
	じわらのみや)」があった。宮には天皇の住居と朝廷があり、大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)等諸役
	所機関もあった。

 


	藤原宮の北を二条大路、南を六条大路、東と西をそれぞれ二坊大路で囲まれたその広さは、南北906.8m×東西925.4mで、約
	84haに及んでいる。宮の内部には、中軸線上に北から内裏、その南辺に大極殿院と大極殿、その南には朝堂院が広がり、両
	脇に計十二の殿堂が配置されていた。さらに南には控えの場がある朝集殿があり、朱雀大路を経て朱雀門へと通じていて、
	後の平城京、難波宮等へ続く本格的な都の誕生であった。門は合計12ケ所設けられていて、出土木簡などから「猪使門(い
	つかいもん)」・「海犬養門(あまいぬかいもん)」などの名称がつけられていたことがわかっている。また、朱雀大路の
	建設によって、日高山丘陵に造られていた5・6世紀の古墳や7世紀代の横穴墓が破壊された事も判明している。藤原京は道
	によって区画された都市であった。

 


	当時日本最大の建造物である大極殿の建設は、膨大な数の柱材と大量の板材を必要とした。「万葉集」の中の「藤原宮役民
	の作る歌」に、滋賀県の田上山(たがみやま)から切り出した桧材を筏に組んだとある。宇治川・木津川水系を利用した水
	運、陸路による山越えを経て、木材が造成現場へ運ばれたが、運送用に新たに運河を構築したことも判明しており、大極殿
	北方では、宮の完成前に埋め立てられた運河跡が発掘されている。木材の加工に用いた道具は、斧・鋸・鑓鉋・鑿・錐等が
	用いられており、計測に用いた曲尺や墨壷なども、奈良国立文化財研究所(以下、奈文研)の「藤原宮調査部」の資料館に
	行けば実物を見ることができる。




	また藤原京は、それまで寺にしか使われていなかった瓦を用いた、日本で初めて中心建物を瓦葺きに統一した都としても知
	られている。藤原京の瓦葺き建物に必要な屋根瓦は 200万枚ともいわれ、これまでにない大量の瓦を必要とした。宮跡の南
	にある日高山に4基の窯跡が残っているのをはじめとして、瓦を焼いた多くの窯跡が近在から発掘されている。




	そして、持統・文武・元明三代の天皇が、持統八年(694)から和銅三年(710)までの16年間治めた後、都は元明天皇の代
	に平城京(へいじょうきょう)へと遷都される事になる。その後都は、平城京から恭仁京(くにきょう)、難波宮(なにわ
	ぐう)、長岡京(ながおかきょう)、平安京(へいあんきょう)へと移転を繰り返して、廃都となった藤原京は急速に田畑
	にかわり、栄華のあとは地中に深く埋もれてしまう。 

 


	第二次大戦前、民間の研究機関「日本古文化研究所」が、高殿町(たかどの町)に残る「大宮土壇(おおみやどだん)」の
	西の地点を発掘し、そこで建物跡を発見した。大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)など藤原宮の中心部分
	が明らかになり、新聞はさっそく「藤原大殿堂跡発見」と報じたが、戦局厳しき折から発掘は中断されたまま終戦を迎える。




	1966年になって発掘が再開され、奈良県教育委員会が行った調査で藤原宮全体の大きさが確定した。またその成果から、京
	全体の規模も復原できるようになり、宮全体も保存されることになった。そして1969年、調査は奈良国立文化財研究所(略
	称奈文研:なぶんけん)に引き継がれ、現在では橿原市教育委員会も加わって発掘調査は続行されている。出土物は主に、
	京域内にある奈文研「藤原宮調査部」資料館に納められているが、橿原市の県立橿原考古学研究所附属博物館などにも一部
	展示されている。

	しかし、大部分は奈文研「藤原宮調査部」資料館にあり一般展示もされているが、ここは土曜日、日曜日が休館であり、土
	・日曜しか休めないサラリーマンにとっては、一生見ることができない。国民全体の共有財産を、国民の税金で発掘し、国
	民の税金で研究されているのに、その費用を供出している真面目な納税者達は、遺物を実見する事もできないのである。土
	日開館するか、土日に開館している展示施設へ遺物を移すべきである。

 


	現在の藤原宮跡は広い野原になっていて、大極殿の跡はレンガのようなもので囲んである。囲いの真ん中にこんもりとした
	森があって、そこに「大極殿跡」の碑が立っている。大極殿跡の廻りは、狭い道筋が東西南北に伸びており、かっての大路
	の跡を偲ばせる。宮内の野原では家族連れが凧揚げをしたりキャツチボールに興じたりしている。宮の廻りには、田圃や畑
	や集落が広がり、典型的な田園風景である。







「藤原宮」発掘状況


	ここでの写真並びに元薬師寺・紀寺跡の発掘写真は、奈良国立文化財研究所「飛鳥藤原宮発掘調査部」発行の「飛鳥藤原の
	みやこ」(300円)に依った。記して感謝の意を表す。















 



藤原宮の北方には醍醐池があり、冬の池に鴨の群が静かに寒さをしのいでいる。





醍醐資料館(だいごしりょうかん)


	藤原宮から「八木」駅へ向かう帰り道の側に「醍醐町資料館」がある。たまたま、資料館への道ををたずねた選挙事務所の
	人が、この資料館の鍵を持っていて、資料館まで案内してくれた。展示物は主に郷土の民具・農具等であった。戦時中の、
	米軍の機銃掃射で板塀に残った機銃弾や、戦時中東南アジアで用いられた軍票なども展示されていた。日本紙幣の10ドル
	札などはじめて見た。

 

 

 

 

 

 

 





近鉄八木駅近くの居酒屋で反省会。


	たまたま、貴の花・武蔵丸戦をTVでやっていて、店の女将さん、居合わせたおばぁちゃんも巻き込んで、どちらが勝つか
	の博打がはじまった。決定戦で「貴の花」が勝ち、40円の配当金を手にしたおばぁちゃんは、「孫にあめ玉買うて帰ろ。」

 

 



	奈良・橿原市 藤原京跡  飛鳥―奈良結ぶ古代の"ハイウエー"・・・「壬申の乱」の道確認
	
 
	25メートルの道幅が確認された藤原京跡の「中ツ道」遺構(16日、奈良県橿原市出合町で) 

	飛鳥と奈良を結び、壬申の乱(六七二年)にも登場する古代の幹線道路「中ツ道」の遺構が奈良県橿原市の藤原京(六九四
	―七一〇)跡で見つかり、同市教委が十六日、発表した。道幅二十五メートルと、現代なら八車線の"ハイウエー"並みだっ
	たことが、わかった。
	中ツ道は南北約七十メートルにわたって見つかり、東西両端に幅二―四メートルの溝が掘られていた。内側にも溝の跡が見
	つかり、十四・五メートルの道を二十五メートルに拡幅したらしい。藤原京の大路としては、中心を通る朱雀大路(幅十九
	メートル)よりも広い。
	飛鳥、藤原、平城と都が置かれた奈良盆地では、幹線道路として、東から上ツ道、中ツ道、下ツ道の三本が南北に縦断。特
	に中ツ道は、壬申の乱で大海人皇子方の軍勢が攻め上るときに通り、平城遷都の時にも天皇が利用するなど軍事、政治的に
	重要な道だったとされる。現地説明会は二十一日午前十時半と午後一時十五分から。
	千田稔・国際日本文化研究センター教授(歴史地理学)の話
	「中ツ道は神が宿るとされる飛鳥の山の延長線上にあり、中国式都城をまねた平城京に比べ、藤原京は日本的な宗教観を重
	んじたと感じる」   (2003/06/17)Yomiuri SHINBUN OSAKA



	藤原宮で回廊跡確認、朝堂院は南北に321メートル  2003/06/18
	

	朝堂院回廊跡の東南隅と朝集殿院回廊跡が見つかった藤原宮の調査現場(橿原市高殿町で) 
		
	◇機能分化変遷裏付け
	藤原京(六九四―七一〇年)の宮殿、藤原宮の朝堂院(橿原市高殿町)を発掘調査していた奈良文化財研究所は十七日、朝
	堂院を取り囲む回廊跡の東南隅と朝集殿院回廊跡の一部を確認、朝堂院が南北三百二十一メートルだったと発表した。平城
	京、後期難波京など、以降の朝堂院に比べて広く、研究所は「宮殿が機能分化する過渡期にあり、変遷を知る手掛かり」と
	している。

	朝堂院は天皇や高官が国政の審議や儀式、饗宴(きょうえん)に使う中心施設。朝集殿院には登庁した役人が待機する建物
	があった。
	朝堂院回廊は約三メートル間隔の三列の柱穴が一辺約二十メートルのL字形で見つかり、東南隅と判明。過去に調査した東
	北隅との距離から朝堂院の南北の長さは戦前の計測より三メートル長いことがわかった。
	朝堂院の南北の長さは平城宮が二百八十五メートル、後期難波宮(七二三―八四年)が百七十八メートルと推定され、藤原
	宮朝堂院について研究所の箱崎和久研究員は、「官僚機構が未発達なころの都城は儀礼や外交をひとまとめに行うため、広
	いスペースが必要だったのでは」と話している。
	また朝集殿院回廊跡は、八世紀前半の平城宮跡が朝堂院より東西幅が広い「凸形」とは逆で、尻すぼみの形で朝堂院回廊の
	南面につながっていた。中心の壁をはさんで内と外に通路が取り付く「複廊」が宮殿正門の朱雀門まで続いている可能性が
	あり、掘っ立て柱の塀や築地塀で囲んだ平城宮とは異なるという。 
	現地説明会は二十一日午後一時半から。 The Yomiuri Shinbun osaka




	藤原京、平城・平安京より大きかった 「最大の都」確定   2004/9/10 Asahi.com
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	日本最初の本格的な都「藤原京」(694〜710年)が置かれた奈良県橿原市の北東部で、都の北端とみられる「北六条
	大路」跡が出土したと10日、同市教委が発表した。都の境界を意味する京極(きょうごく)のうち北京極とみられる。西
	京極跡と東京極跡がすでに確認され、南端も推定されていることから、藤原京の範囲がほぼ確定した。面積は約25平方キ
	ロで、平城京の約24平方キロ、平安京の約23平方キロを上回る最大の都だったことが確実になった。 
	北六条大路跡は、宅地造成に伴い、約220平方メートルを発掘して見つかった。北側の溝と南側の溝にはさまれた部分が
	大路跡で、それぞれの溝の中央部を結んだ道路幅は約17.6メートルあった。藤原京でこれまでに確認された大路跡(幅
	17メートル前後)と同規模で、都は大路で囲まれることから北端と判断した。溝からは藤原京期の土器も出土した。 
	藤原京の範囲は長年、藤原宮を囲む東西2.1キロ、南北3.2キロとされていた。ところが96年に、古代の幹線道路で
	ある下ツ道から西1.6キロの地点と、中ツ道から東1.6キロの地点で相次いで大路跡が出土。それぞれ西京極と東京極
	とわかり、東西が5.3キロと確定した。 
	南端の南京極を示す遺構は未確認だが、93年に同市南部の石川町で出土した「十二条大路北側溝」が、碁盤の目の区画に
	沿って東西方向に延びていることから市教委は南端と判断。今回の調査地(北京極)との南北距離は4.8キロになること
	がわかった。 
	井上和人・奈良文化財研究所考古第1調査室長は「藤原京の北京極は、これまで地形や古墳の有無などで類推されていたが、
	これで確定したとみていい。天武天皇の描いたプランは壮大だったといえる」と話した。 
	発掘速報展は10月5〜11日、橿原市川西町の市千塚資料館(0744・27・9681)で開かれる。 
	(2004/09/10 20:32 asahi.com) 












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