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元寇・防塁の跡

福岡市早良区西新町
2005.3.6(日)







	人間の歴史には争いはつきものである。かっては縄文時代には戦いはなかったというのが定説だったが、最近、縄文時代
	の戦闘の痕跡を残した骨格もちらほら発見されるようになり、後に続く弥生時代以降ほどではないが、縄文時代にも戦い
	はあったのだという事になっている。
	日本国内における戦争状態は、周知の如く幾度と無く繰り返され、群雄割拠の時代はわざわざ「戦国時代」という時代区
	分の名前まで冠されている。そのような日本にあって、国の存亡を掛けた大きな争いが過去二度起きた。最初はここで見
	ていこうとする「元寇」であり、二度目は「太平洋戦争」である。これは、負ければ日本の国そのものが消滅しかねない
	ほどの大規模な戦いだったが、前者は幸運にも助けられかろうじて勝ち、後者は徹底的に負けた。前者は攻め入られ、後
	者は他国に攻め入って自国を滅ぼした。
	この二つの出来事は700年の時を隔てており、両者の間には何の関係もなさそうに見えるが、実はこの2つの出来事は
	大いに関係がある。それは世の歴史家等しく認めるところであって、前者の勝利が後者の敗北をもたらしたとも言えるの
	である。「神風」に象徴される「神国日本」の思想は、やがて皇国史観に発達し、日清・日露の戦いを経て、ついに日本
	は太平洋戦争で列強諸国に敗北する。しかしそれは、他国に負けたのではなく、この自国の皇国史観に負けたとも言え、
	そういう意味ではフビライ・ハンは、700年後にやっと日本を負かしたとも言える。




	鎌倉中期、日本は、建長8年(1256)から10年にわたって全国的な天変地異に襲われ、世は社会不安のどん底にあった。
	うち続く飢饉、毎年襲う暴雨風、はびこる疫病や飢餓。人々は恐れおののき、やがて人智を越えた所に救いを求めようと
	した。そんな中、鎌倉では日蓮が人々に向かって法華経への帰依を説いて辻々を廻っていた。「いったいこれはいかなる
	災いであろうか。何が災いの元か。」「禅宗や念仏など、他教を廃して法華教に帰依せねば、災いは去らぬぞ。」「この
	ままではやがて外敵の侵入や内乱が起きて、我が国は滅びるぞ。」と。
	しかし禅宗を尊ぶ鎌倉幕府の北条政権はこれを無視し、特に、フビライ・ハンの使節が来たあと鎌倉幕府の8代目執権と
	なった18歳の北条時宗は禅宗に帰依しており、宋から無学祖元を招いて教えを乞うなど、禅宗に深く傾倒していた。
	やがて日蓮は捉えられ伊豆へ流される。




	1260年に、ジンギスカンの孫、フビライが大帝国「元」の王「汗」(ハーン)に即位して、遂に蒙古は南宋(上海付
	近)を滅ぼして中国全土を手中におさめた。1268年、蒙古は既に服属していた朝鮮半島の高麗を通じて、日本に初め
	て使者を送り国書が大宰府に到着した。日本では京都の朝廷に代わり鎌倉幕府の北条氏が専制を行っていたが、日本側は
	返書も送らず元の皇帝、フビライの要求を無視した。そしてその後、弱冠18才の北条時宗が8代目鎌倉幕府執権に就任
	した。

	同年終わり頃には、再び派遣されたフビライの使節が日本へ上陸し、外交機関であった大宰府において交渉が行われた。
	元側の書式は、通常中国の王朝が服属を求める文書より丁寧な書式であるため、臣下扱いをしておらず、服属を求めたわ
	けではなかったともいわれる。しかし、朝鮮の三別抄からの救援なども拒絶していた幕府は元の国書を黙殺し、使者は帰
	国した。時宗は、元は「征服民族」であると云う意識と、鎌倉幕府そのものが「武断政策」であったので、断固として之
	をはねつけた。3年後(1271)に元の使者が、元への服属を命じる国書を携えてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上し
	た。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈るのみであった。鎌倉幕府はその翌年(1272)に異国警護番
	役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏や大友氏をその役目に就けた。

	フビライはその後も何度か日本に使者を出したが全て無視され、激怒したフビライは、文永11年(1274)正月、高麗に
	対して日本へ侵攻する船を造ることを命じた。3万5千人の工匠や人夫が各地から動員され、突貫工事をもって半年間で
	完成させた。300艘は大船で「大小900艘」と元に報告されている。この時の工事費用は全て高麗が負担し、高麗の
	経済は疲弊した。元からはわずかに食糧供給があった程度であった。











 

	
	<文永の役>文永11年(1274)10月

	10月3日午後4時ごろ、元軍「蒙古(モンゴル)人・女真人・中国人など2万人に、高麗軍8千人、舵とり・水手6千
	7百人を加えて総勢約3万5千人」を乗せた船が朝鮮の月浦(現在の馬山)を出発した。船は大船三百艘、快速船三百艘、
	小舟3百艘、合計9百艘。10月5日の午後4時ごろ、対馬の西海岸の小茂田の海岸にあらわれた。守護少弐氏の代官で
	ある宗資国は80余騎でかけつけ、翌早朝、通訳をとおして来意を問うが、敵軍は船上から矢を放ち、7、8艘から千人
	ばかりが対馬に上陸した。資国らは、たちまち、討ち死。小茂田の家屋は焼き払われ、焦土と化した。この激戦の中を、
	小太郎と兵衛次郎が抜け出して博多に渡り、元軍の対馬襲撃を報告している。


福岡市西区警察と税務署。この建物の先に元寇防塁がある。木が見えている所。



	
	14日には壱岐の北西海岸勝本・鯨伏方面に姿を現わした元軍は、2艘400人が上陸し占領した。この際、島の男は見
	つかり次第殺され、島の女は掌に穴を開けられ縄を通して船縁に吊るされたと言う。(『新元史』)
	壱岐を攻略した元軍は、10月19日には博多湾に迫った。そして、博多湾に到着した元軍は、今津や百道海岸に上陸し、
	太宰府を攻略せんとした。一部は、志賀島に上陸し、志賀島の住民は、和白、立花を経て、宇美、太宰府方面に逃走した
	が、逃げおくれた者は惨殺された。元の集団戦術に対して、当時の日本は一騎打ちを基本とした戦い方をしていたと言わ
	れており、また元軍には当時の最新兵器が数多く存在していたために各地で日本軍は苦戦した。日本軍は10月20日に、
	博多・箱崎を放棄、太宰府まで撤退する。一方元軍は、夜になると地の利を知っている日本軍の「ゲリラ戦」に大打撃を
	受け、元軍も全員船に逃げ帰ってしまった。

	しかし戦いの趨勢は明らかで、元軍はこの日の夕刻、博多箱崎の町に火をかけていた。この時箱崎八幡宮も焼けた。侍達
	のみならず、多くの一般民衆も戦火に倒れた。博多はこの日、一日で殆どの市街地が灰になった。この時点で、勝利は確
	実に元軍の手中にあったと言ってよい。







	
	翌21日の朝、夜が明けると元の船団は忽然と姿を消した。博多湾の元船は皆引き上げてしまっていた。しかし志賀島に
	難破して逃げおくれた1隻が、志賀島西海岸に漂着し捕えられた。約120人位の元兵は、幹部級五人を鎌倉に送り、他
	の者はその場で首を刎ねられた。いまその場所には「元寇供養塔」が立っている。これは、後日、避難先から戻ってきた
	志賀島の住民が、死体をこの地に埋葬して供養塔を作り、長く「首切り塚」「首切塔」と称して供養して来たからである。

	通説ではこの時に暴風雨、いわゆる「神風」が来襲し、元軍の軍船を跡形もなく沈めてしまったことになっている。しか
	し記録によれば「朝になると敵兵も敵の船もいなくなっていた」と記述されるだけで、嵐のことには触れられていない。
	高麗側の記述には暴風雨があったと書かれているが、なぜ日本側に記述がないのか。
	とにかく元は帰国し、対南宋戦争が佳境に入ったことから、ひとまず元の主力は江南に向けられる事になったが、フビラ
	イはまだ日本征服を諦めてはいなかった。





	
	現在の研究では、その夜の元軍の作戦会議で元軍の撤収が決められたことになっているようだ。元軍の側にも色々とお家
	の事情はあったようで、最大のアキレス腱は、軍の編成が征服された各国からの混成軍だったため、戦意の盛り上がりに
	欠けるどころか、逃げ出したいと思う兵隊達で溢れていたという点にある。特に日本をよく知っている高麗は、当初から
	日本遠征の非を、婉曲にフビライに進言していたほどである。
	また、元軍にとって船団で遠征するというのも初めての経験だったし、日本軍の抵抗も予想以上に勇猛だった。元軍の1
	日の被害も意外に大きく、副大将の劉復亭(りゅうふくこう)も重傷を負った。それに日没から降り出した雨は、次第に
	風をともなって大波をひきおこし、元軍が命の綱と頼む沖合の軍船もまるで木の葉のように揺れだした。ここに至って、
	元軍の総大将芹都(きんと)は決断したのである。「初戦の戦いには勝った。これから日本軍はだんだん兵力を増やし、
	大軍勢となるだろう。海から降りられない我々にとってはますます不利になる。これだけ痛めつければ日本も元の力を思
	いしっただろう。これで引き上げる。」元船は陸と小舟の将兵を収容してただちに碇を上げた。

	暴風雨が玄界灘を襲ったのは、その夜遅くだったようである。撤退していく途中の大船団を風雨が翻弄した。軍船とは言
	っても海戦向けに造られた頑丈な軍艦ではない。とりあえず将兵を運ぶために急ごしらえで造った運搬船で、それも征服
	された高麗が、フビライの命令で仕方なく造った急造船である。荒れ狂う大波の下ではひとたまりもなく、多くの将兵が
	海中に没した。朝鮮の史書「東国通鑑」によれば、この遠征で戦死、溺死した者は1万3500としるされている。元軍
	将兵の半分が故郷へは帰れなかったのである。





	
	フビライが「文永の役」で攻めてきた理由については、日本側の対応を確認するためとも言われる。つまり、軍事的に言
	えば「威力偵察」と呼ばれている基本的な戦術のひとつである。ある程度の損害を与え、その後の交渉で日本に要求を飲
	ませるようにする方法で、これは元がたびたび使っている戦法であり、今回もそれと同様だと言う考えである。勿論、従
	来から言われるように、力任せの「侵略・征服説」も根強いし、真に友好を求めてきたのだという説も少数ながらあるが、
	壱岐・対馬で加えた暴虐の限りを見るとこれは信じがたい。
	「元史」によると1272年に、高麗王の王世子の椹(後の忠烈王)が、元国のフビライ皇帝に「惟んみるに、日本は未だに聖
	化を蒙らず。故に詔を発し、軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ね
	なば、王師を小助せん」と申したとある。「高麗史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が、「元の皇帝に執拗に、
	東征して日本を属国にするよう勧めた」とあるので、フビライはこの進言を採用したのかもしれない。しかし高麗の王周
	辺には、前述したように、日本遠征の非をフビライに進言していた者もいたのである。



	
	文永の役後、幕府は博多湾の防備を強化しようとした。しかしこの時の戦いで物質的に日本側が得たものは無く、御家人
	たちに与える恩賞は非常に薄いものになった。元軍に対しての先駆けをおこなった竹崎季長などは、これに怒って鎌倉ま
	で恩賞の談判に上ったほどであった。その他の御家人の中でも不満は立ち上っていた。

	しかし、再度の来襲に備えて準備をしておかねばならぬ事は誰の目にも明らかだった。幕府は、九州のご家人に、九州北
	部の海岸線に石築の堤防を築く事を命じる。これには裏話がある。実は鎌倉幕府は、文永の役直後、先手必勝として高麗
	に攻め入ろうとするのである。九州と安芸のご家人に「異国征伐」の準備の命令が下り、大宰府の長官を総大将として、
	総勢数万の軍団を編成し、渡海して高麗を滅ぼそうとする構想であった。しかしこれには九州のご家人達は賛成せず、あ
	れこれ理由を付けては命令に従うことを渋った。そこで幕府は、異国征伐に参加できない者は、博多で防衛用の石塁を造
	れと命じたのである。これには多くが従い、異国征伐の件はそのうち沙汰止みとなった。幕府が本気で異国征伐を計画し
	たのか、今となっては謎であるが、ともあれ防塁は完成した。
	ご家人達は、領地1町につき長さ1尺の防塁建設のノルマが課せられた。博多湾の西から、今津地区=日向・大隅、生の
	松原=肥後、姪浜=肥前、博多=筑前・筑後、箱崎=薩摩、香椎=豊後、が分担し、建治2年(1276)3月からわずか半
	年で完成させた。諸国では老若を問わず領民を動員し、博多湾の各所から切り出した石の石積み作業に従事させた。

	ここで見て頂いている防塁跡が、この時建設された石塁の跡およびその復元である。現在は飛び飛びにしか残っていない
	が、古文書では「石築地」となっている。今のような「防塁」という呼び方は、大正2年に九州大学の中山平次郎が命名
	したものである。博多湾沿岸20kmに及ぶ壮大なもので、弘安の役には大いに威力を発揮した。





	
	<弘安の役> 弘安4年(1281)6月

	建治元年(1275)フビライは、再び日本に使節を送る。北条時宗はこの使者を斬首にした。元は使者が殺されたことを知
	らないままに、新しい使者を弘安2年(1279)に送り、これも再び殺される。この年に南宋を完全征服していた元はこれ
	に激怒し、日本への再度の侵攻を計画した。弘安2年(1279)2月、南宋皇帝が没した翌日、フビライは宋の支配下だっ
	た楊州など4州に日本征伐のための「戦船六百艘」の建造を命じた。6月には高麗へ「戦船九百艘」の建造を命じた。8
	月には、4年間消息のつかめなかった元使5人の斬罪の模様が、逃げ帰った水手から報告され、これを聞いたフビライは
	日本征服の念に激しく燃えたと言われる。
	フビライは全軍の将を集め、日本遠征について、次のように指示した。

	(1)蒙古人・高麗人・中国北部の漢人でできた東路軍4万人は合浦から出発する。(軍船900艘)
	(2)中国南部の南宋人からなる江南軍10万人は江南から出発する。(軍船3500艘)
	(3)そして、両軍は壱岐で合流して、日本を攻撃する。
	(4)仲たがいをするな。
	(5)占領地の農民達をむやみに殺すな。
	(6)鋤すき・鍬くわ、種モミなど携行し、長期戦に備えよ。

	これを見ると、フビライは単に激情にかられて日本侵略を実行したのではなく、長期化しても日本を植民地化する計画だ
	ったことがわかる。近年の調査で、博多湾の底で見つかった元の軍船から、農業用の鋤や鍬などが見つかっている。この
	ため、戦争に勝利した暁には、そのまま入植しようとしていたのではないかと見られる。14万人という過剰な人員もそ
	のために必要だったと考えられている。そして弘安4年、高麗軍を主力とした東路軍4万と、旧南宋軍を主力とした江南
	軍10万、計14万の大軍が日本に向けて出発した。二度目の遠征は、文永の役から7年後のことであった。


これは西南学院大学前の防塁である。土塁を積んでの復元。

	
	既に防衛体制を整えていた日本軍は、沿岸に防塁を築いてこれを迎えた。6月6日、いち早く到着した東路軍は、今津か
	ら名島まで防塁が築いてあったので、防塁の無い志賀島に上陸し、ここが弘安の役の主戦場になった。日本軍は前回に学
	び、元軍の戦法を承知しており、積極的なゲリラ戦術により、大いに元軍を悩ませた。6月13日、東路軍は江南軍と合
	流すべく、伊万里湾に引き上げていったが、さあこれからと言う夜に暴風雨が襲来し、元の軍船はずたずたになった。
	これを見た鎌倉武士達は勇躍して元軍に襲い掛かり、元軍を追い返した。この時に帰還できた兵士は全体の1.2割だと
	言われる。





	
	敗因はさまざまに語られるが、日本軍が元軍の上陸前に船から攻撃を与えたことが大きい。騎馬民族であるモンゴル人は
	船上の戦法を心得ていなかった。また、暴風雨によって多くの船がもろくも沈んだ理由として、船を服属させた高麗人や
	越人(ベトナム人)に作らせたことにあるとされる。彼らはすでにモンゴル人支配の不満を募らせており、輸送船はひどい
	手抜き工事によって建造されていた。元の船団はその7、8割を失い、また、兵士も高麗人や漢民族を徴用したため、士
	気が低かったと思われる。ちなみに、この両役の日本軍の総指揮をしたのは、時宗の命を受けた、時の鎮西奉行(九州奉
	行)の、太宰府に居た小弐経資である。 



 

	
	フビライは失敗にめげずに3度目の日本遠征を画策していたが、この時期に元の内部でも反乱が続き、日本へ軍が出せる
	状態ではなくなり、フビライの死と共に「日本侵略」計画は完全に頓挫した。









	
	南宋が滅んだ後の「弘安の役」の理由については様々な説がある。有力なものとしては、南宋を降した後に旧南宋軍を消
	耗させるためと言うものがある。征服はしたが、まだ叛乱の火種がくすぶっている南宋軍を、徹底的に疲労させ二度と元
	に立ち向かわないようにする為だという説で、結構有力である。日本に勝てばよし、負けても、もう南宋の力は削がれる。

	勿論フビライの日本に対しての野心もあっただろう。マルコポーロは日本には来ていないが、元までは来てフビライに会
	っているし、このとき中国で見聞きした情報で「東方見聞録」を書いている。それによれば日本は「黄金の国」だった。
	実際、当時の金と銀の交換率は、中国では1:19位なのが、日本では1:5だった。つまり金は日本では安く買えたの
	である。見聞録に書かれている、「日本の家は金で出来ている。」という話を多くの中国人が信じていたとすれば、フビ
	ライが実際にそれを確かめたいと思っても不思議ではない。



	
	弘安の役後鎌倉幕府は、元軍の三度目の襲来に備えて御家人の統制を進める。しかし前回に続き、今回も恩賞は薄く、戦
	費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は一時しのぎとして徳政令を出すが焼け石に水であり、御家人
	の不満は募り、鎌倉幕府滅亡の要因となっていく。

 

西南学院大学の構内にも遺跡があるが、この日は日曜で扉が閉まっており、見学は出来なかった。





西南大學の前にある修猷館高校のグラウンド(上)。ここから弥生時代の集落跡が発見されている(西新遺跡)。

 






	少弐資時を祀る「壱岐神社」。「文永の役」「弘安の役」と二度にわたった元寇の弘安の役で、弱冠19歳にして壮
	烈な最期をとげた壱岐の守護・少弐資時。この島が体験した哀しい歴史とともに、勇ましく戦った資時を長く後世に
	伝えていこうと建立された。本殿は昭和19年に造営。1500年の歴史をもつ壱岐の神社の中では、もっとも新し
	い神社である。






これが有名な箱崎宮・桜門の「敵国降伏」の石額である。NHK-TV大河ドラマ「北条時宗」にも登場した。




	文永11年(1274)10月、高麗軍を主力とする元軍は、今津から百道原に上陸し、祖原、鳥飼、赤坂の一帯は戦場
	と化した。少弐景資、肥後の菊池次郎武房、竹崎五郎季長らがこれを迎え討ち、勝敗が決しないまま元軍は船に引き
	上げた(文永の役)。
	この時激戦の場のひとつとなったのが百道浜の後背地にある祖原山(標高33m)である。元軍はここに本陣を構えた。
	360度の眺望がきく山頂の北側下に記念碑が建っている。


 


	志賀島の、金印公園から車でちょっと行くと、元寇ゆかりの蒙古塚がある。駐車場らしき空き地の端に石碑がいくつ
	かならんでいる。その脇から上へ上っていくのだが、同行したwifeと姪がグズるので階段を上るのはやめにした。こ
	こは、1274年「文永の役」の時、捕虜となった蒙古兵(半分は都(京都)へ護送され、残りはここで処刑された。)、
	流れ着いた蒙古兵の供養のために建てられたものである。






















	対馬全島に入りたる敵兵は泣き叫ぶ婦女老幼を捕へ之を惨殺し又は手足に穴を穿ち縄を通して己が船側に釣るし我が
	攻撃に備ふ等暴逆の限りを尽す 

	元軍は勢に乗じて壱岐を攻む。守護代平景隆百余騎を以て之に当りしも遂に力及ばず一門残らず自尽す。宗三郎主命
	を奉じ囲を脱けて太宰府に急を報じ使命を全うす。(明治十九年十一月二日景隆に特旨を以て正四位を贈らせ給ふ) 






2004.5.17 福岡市東区「東公園」

	
	叔父の葬儀で博多へ帰った。斎場のすぐ側が「東公園」だった。そこに亀山上皇の巨大な銅像が建っていた。昔は
	ここにこんなものが立っていたなんて気づきもしなかった。「敵国降伏」で博多の町を救った上皇を、博多の市民
	は今でもあがめているのである。

	上皇は元寇当時の朝廷における事実上の実権者であった。しかし政治的実権は鎌倉幕府にあったので、元軍の襲来
	に対して朝廷では、神に祈ることにより国難を防ぐ他なかったのである。明治時代、上皇が身をもって国難に報い
	たいと伊勢神宮に祈願した故事を記念して、元寇を愛国精神高揚のシンボルとして亀山上皇像設立運動がくりひろ
	げられた。上皇像は博多出身の仏像彫刻家・山崎朝雲が製作にあたり1904年日蓮上人像とともに落成した。
 
 

 

 





 

台座の裏には製作者名と刻んだ石工達の名前が彫られている。
上右の写真の雲を見ると、上皇が今でも博多の町を守っているような気になってくる。



銅像建立場所の全体像と、それを背後から見たところ。





	
	東公園は、昔は九州三大松原の一つと言われ、景勝千代の松原の一部だった。明治9年太政官布告に基づき、官に
	上申して公園地となったもの。当時は東松原公園と称していたが、明治33年、東公園と名称を改めると共に、県
	の管理となった。福岡市の東側に位置し、公園周辺の著しい発展によって松原の枯損が広がり、往年の白砂青松の
	景観も廃退し、時代の要請もあって、昭和元年と昭和27年の公園再整備計画により、福岡市東部の休養・運動を
	主体とした公園として親しまれた。昭和56年公園北側に、福岡県庁新庁舎が建設されたため、運動施設は他に移
	設改善し、現在では約7万平方メートルの、亀山上皇像をシンボルとした日本風公園として新しい都市のオアシス
	を形成し、県民の憩いの場所となっている。


日蓮聖人立像

	
	亀山上皇像から西、約150メートルの位置に日蓮上人像がある。元寇記念館のすぐ前である。日蓮上人像が完成
	したのは1904年11月日露戦争がはじまった年である。日蓮は1286年正月、国難到来の予言が的中したこ
	とを述べ禅宗を批判した。さらに執権になったばかりの北条時宗に「立正安国論」を上進した。日蓮上人像の高さ
	は台座を含めて約23メートルあり、台座には八面の元寇パノラマが銅版に鋳出されている。これを製作したのは
	横浜生まれの矢田一嘯で、彼は1893年ごろに福岡に定住し、元寇パノラマ画の製作活動を行なった。博多人形
	師・白水六三郎を育てたことでも知られている。 

 

福岡市東公園は、元寇の古戦場・千代の松原があったところである。

 

 





 









	
	元寇到来を予言した日蓮聖人像がたっているすぐ前に元寇資料館がある。元寇資料館は日蓮聖人像・亀山上皇像建
	立のために全国を勧募・布教された人々が、各地に散逸していた当時の両国の武器や後世に描かれた元寇絵などを
	も収集したものを中心に、チベット仏教用具、アイヌ民族資料、鉄砲などの貴重な資料が集められ展示されている。 







ところがこの日は鍵を持った人が不在だと言うことで資料館には入れなかった。なんとええかげんな。





法華経の信者であった東郷平八郎の像もここにある。





東公園側にある、天神から移転してきた福岡県庁。なんと立派な建物!

	
	フビライは、弘安の役では「必勝」の執念を燃やして、前回の5倍の軍勢で日本に押し寄せる。この戦いの刮目す
	べき点は、フビライが日本を永久に占領することを決めていた点である。買っても兵は引き上げず、現地に留まっ
	て平時は農業に従事する、いわゆる屯田兵の準備をして攻めている。軍船には多くの農機具や穀物の種子を積み込
	んでいた。フビライはもう、日本に「臣下の礼」などを求めてはいなかった。日本を完全に元の領地にする腹だっ
	たのである。フビライを、ここまで頑なにさせた原因は日本側にもある。

	文永5年に初の国書を日本に遣わして以来、弘安の役に至る13年間にフビライが差し向けた国使は都合8回を数
	えるが、その間日本側からの返書は1度もなく、最後の2回の使者は無惨にも斬り殺されてしまった。当時にあっ
	ても、国使を殺害するなどというのは蛮族の証しである。これだけでも、世界帝国を築いたフビライ・ハーンのプ
	ライドは大きく傷ついたはずである。この時の時宗の態度は、太平洋戦争に民衆を駆り立てた軍人達のものとまっ
	たく同じである。かろうじて勝った弘安の役の偶然の勝利が、その後の日本人の精神性に大きく影響を及ぼす。
	「神風」に象徴される超人的な神懸かり現象が、日本人に過度の自信と自己陶酔を与え、日本全体が「神国思想」
	という宗教的な感情に浸っていくことになる。
	










邪馬台国大研究・ホームページ/ INOUES.NET/ 元寇・防塁の跡