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'98 奈良・平城宮

		奈良・平城宮跡を訪ねて [98.5]
		
		近鉄奈良線西大寺駅を降りて、15分程東へ歩くと平城宮跡地に着く。奈良国立文化財研究所の前の入口を入ると、
		広大な平城宮跡が見える。発掘調査が終わった後埋め戻され、現在では雑草が生い茂り、史跡公園として整備される
		のを静かに待っている。平城宮跡資料館や遺構展示館もこの跡地内にある。北側から南に向かうと平城宮跡全体が見
		え、遠くに復元された朱雀門も見える。朱雀門の前を時折近鉄電車が通り過ぎる。
		約1,300年前、藤原京から平城京に移された都は、広大な敷地と約10万人の人口を数える我が国初の本格的な
		都であった。後の平安京へと続く国家のかたちが作られたのはまさにこの平城京であった。政治・経済・文化といっ
		た国作りの原型がこの平城京で作られたと言える。又、遣唐使に代表される国際交流も盛んに行われ、唐の文化や制
		度をどんどん吸収していった国際的な交流の中心地でもあったのである。
		平城宮の南入口には朱雀門が復元されているが、1300年前は、ここから70m幅の朱雀大路がまっすぐ南へ4km
		ほど伸びており、九条大路との突き当たりには羅城門が立っていた。朱雀大路の東側を左京、西側を右京といい、家
		々や寺院、市などが建ち並んでいたと考えられている。ここでは失われたが、この築都を受け継いだ平安京には今で
		も右京区、左京区という呼び方が残っている。
		遷都の跡、長い年月の間に都は忘れ去られ跡地はやがて土の中に埋もれていったが、棚田嘉十郎をはじめとする地元
		の人々の厚い努力・協力によって再び現代にその姿を現した。

		現在平城宮跡は国の特別史跡に指定され、奈良国立文化財研究所が、その発掘成果の整理や分析にあたっている。





 

 

上左は平城京全体の図。中央のネズミ色の部分が平城宮。その発掘現場全体が上右の写真。
近鉄電車が平城宮の南側を横切って走る。朱雀門の復元作業が行われているのも見える。




		奈良時代後半の称徳天皇の時代、折に触れ儀式や宴会が催された『東院』。その一角平城宮の東南隅に営まれた『東院庭園』
		は石を敷き詰めた池や石組みのある築山、趣向をこらした建物や橋などからなり、当時の宮廷行事あるいは宮廷生活の優雅
		さがうかがえる。上はその『東院庭園』の復元模型。下左は、その発掘されていた時の現場。石を敷き詰めた池の上に張り
		出す建物や、橋の跡があり、当時の庭園のつくりかたがよくわかる。下右は、内裏の東側にあった宮内省と考えられている
		建物を復元したもの。

 


		鬼瓦
		建物を襲う魔物は屋根の怪獣が防いだ。鬼瓦である。鬼瓦は屋根の各所につけた飾り瓦の事。7世紀には蓮華文を飾ったが、
		奈良時代には鬼の面(鬼面文)が流行する。




平城宮で使われていたもの。

 

上左は、水に流して祈願に用いた(はらい)。右は、役人が仕事に使っていた机。下は平城宮跡から出土した各種木簡。





 

 


		朱雀門近くの兵部省の跡とその説明板。平城宮の入口には、中央に朱雀門があり西に若犬養門、東に壬生門があり、壬生門
		を入ったところに兵部省と式部省があった。

 







		同じ場所に復元された朱雀門(上二枚の写真)と、その発掘現場の様子(下左)。下右は同じく復元された築地塀と朱雀門
		の遠景。

 


		下の写真は、南側(朱雀大路があった方角)から朱雀門を見たところ。どこか中国の街のようでもある。

		当時、門の前では外国使節の送迎、大勢が集まっての歌垣、天皇による新年のお祝いなどが催されていた。発掘された遺跡
		から、朱雀門は幅約25m、奥行き10m、高さ約20mの入母屋二層構造であったと推定され、屋根の各所には、この時
		代に流行したとされる舌を出した鬼面文の鬼瓦が飾られていた。当時としては想像を超えた、この壮大なスケールを持った
		門は、訪れた異国の人々に威容を誇るためだったとも言われ、アジアの中でもまだまだ小国だった当時の日本が、精一杯の
		背伸びをしていたとも考えられる。



朱雀門近くの中国風レストラン。ここで昼食をとる。







【奈良国立文化財研究所:平城宮跡資料館の発掘作業ジオラマより】

 

 

 

平城宮全域の航空写真




99.5.29 平城宮再訪(遺構館・東院庭園)



















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