平成13(2001)年2月11日日曜日、「郷土の文化財を見学する会」で南河内(太子町・河南町)の一須賀(いちすか)
古墳群を訪ねた。ここには一度歴史倶楽部の「太子町を訪ねる」でちらっと訪れた事がある。又、山の会で金剛山
に登ったときも、口を開けた古墳の中を覗き込みながら登った記憶がある。しかし、本格的にどんな古墳だったの
かを調べたことはないし、ここにこんな数の古墳の群が横たわっている事も知らなかった。下の地図を見て貰って
もわかる通り、夥しい古墳の数である。このB支群からI支群を巡って、「近つ飛鳥博物館」の「発掘速報展
大阪2001年」を見学というのが今日のコースだ。
近鉄「阿部野橋」から河内長野行きの電車(準急)に乗って「貴志駅」まで約25分。駅前東側のバスロータリーから
「阪南ネオポリス行き」のバスに乗ると約20分で終点「阪南ネオポリス」である。風土記の丘の入り口は広い公園に
なっていて、少し行った所にガイダンス棟が建っていて、移築してきた石室が展示されている。また数葉の資料もお
いてある。
上はガイダンス棟内の石棺について説明する入江さん。石棺の蓋のでっぱりの変遷などを説明していた。
近つ飛鳥風土記の丘は、日本でも有数の群集墳「一須賀古墳群」を保存し、その学術的価値を認識し、かつ貴重な
文化財に触れ、見、学び、親しむ場として設置された史跡公園である。29ヘクタールの圏内には、102基の6世紀後
半を中心とした時代に作られた直径15m 前後の円墳(一部方墳も)がある。そのうち40基が整備され一般公開され
ている。これらの古墳は横穴式石室とそれを覆う盛り土で構成される。石室は玄室(使者を埋葬する空間)と羨道
(玄室への通路。後に埋葬の場ともなる。)に別れている。
B支群の説明版の前からスタートする。
発見から相当年数が経っているのでどんどん風化してきてしまっている。至る所が古墳だらけで、この山は壮大な
奥津城(おくつき)だった事がわかる。座布団くらいの古墳もあって、子供の墓かあるいは、と思わせるが、もう
草に囲まれてほとんど原型をとどめていない。
B−16号憤は内部を見学できる。順番に中へ入ってみる。
この古墳はでかかった。周りの側溝などを見ても並の埋葬者では無いことがわかる。このあたりの権力者の一人だったに違いない。
この古墳群の中に須恵器を焼いた窯跡もあった。この泉北ニュータウンの一帯は、古代の須恵器を焼いた釜跡が多数
残る陶器村だったことが解っており、このあたりにも、渡来人が須恵器を焼くために住んでいたのだ。そしてその技
法は地元の人々にも伝承されていった。
梅や桃の花が満開。まだ桜にはちょっと早いかな。この会で知り合った大阪交野市の村田さんと。
「近つ飛鳥博物館」はこの古墳群の中に建てられているが、博物館のすぐ脇、あるいは建っている場所にも古墳があ
った。殆どは周りに移築してある。
今回は今年最後だからかな、こんなに多かったのは。天気がいいとだいたい参加者が増えるようだ。
入江さん、1年間ありがとうございました。お疲れさまでした。
邪馬台国大研究ホームページ /遺跡・旧跡めぐり/chikuzen@inoues.net