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池上・曽根遺跡

国指定史跡 −近畿地方の大規模弥生遺跡− 2002.2.17(日)大阪府和泉市・泉大津市




	発掘終了して埋め戻され、まだ何にもなかった野ッ原だった時から、ここにはもう何回となく通ったのに、ここを「遺跡め
	ぐり」に入れるのを忘れていた。なんたる失態。あまりにも身近だったので、すっかり失念していたのだ。講演会や「弥生
	まつり」などで学習・遊びに何回も来たというのに。まぁ、遺跡も大規模なものは年々予算が付いて次第に立派なものなっ
	ていくし、新たな発掘や研究の成果で、新発見なども出現するので、取材は遅ければ遅いほどいいと言えばいいのだが。
	佐賀の吉野ヶ里も、もう5,6回行ったが、行くたんびに変貌していて、HPのメンテナンスも大変である。遅ればせなが
	ら、ここに我が愛する「池上曽根遺跡」を紹介したいと思う。

	掲示の写真は、2002.2.17(日)に、弥生文化博物館へ「壱岐・原の辻遺跡展」を見に行った帰りに撮ったものが中心だが、
	一部以前に訪れた時のものも含まれている。(下は、この遺跡のシンボルとも言うべき「高床式神殿」の復元だが、神殿と
	証明された訳ではない。)



	下右は、当日一緒に行った歴史倶楽部のメンバー河内さん。伯父さんは有名な歴史学者「鳥越憲三郎氏」。あちらは学究派
	だが、世の中の世俗的な分野はもっぱら、この甥っ子が一手に引き受けている。

 


	【池上曽根(いけがみそね)遺跡】
	近畿地方屈指の大規模な弥生時代の巨大環濠集落集落で、南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がる遺跡の総面積は
	約60万u。和泉市・泉大津市にまたがり、うち約11.5万uが昭和51年(1976)に国史跡となり、1995年から「歴史ロ
	マン再生事業」という文化庁の補助事業で、現在史跡公園化が進められている。弥生時代中期には、南北300m、東西400m
	の大規模な環濠がめぐっていたと推定されている。調査では、集落の中央に桁行約20m、梁間約7m、床面積135uで、柱の
	太さが60cmもある巨大な掘立柱建物が配置され、その建物の南には1本の丸太を刳り抜いた直径2m程もある枠を持った井
	戸が掘られていたことが明らかとなり、俄然注目を浴びた。この集落は、弥生前期〜後期(300B.C.〜200A.D.)にかけて営
	まれ、二重から三重の環濠に囲まれた拠点集落と考えられている。

 




	【池上曽根遺跡の発見者】
	遺跡の発見は、日露戦争勃発前夜の明治36年(1903)に、池上町在住の南繁則氏(1888〜1969年)が石鏃を発見
	した事にはじまる。当時旧制中学校の生徒だった南氏は、自宅の土塀にはさまっていた石器を教師に見せ、それが先史時代
	のヤジリである事を知った。氏の鋭い視察力は、自宅の西に広がる耕地が何か大きな遺跡であることを直感する。土塀は池
	上曽根遺跡の土だったのである。
	南氏は、その後も付近で土器の採集を行い、土器の破片や石器を数十点発掘したが、大正10年頃、約2200年前の長頸
	壷を発見する。この土器は、「遺跡発見の記念碑的な土器」として、今も弥生文化博物館にある。


	
	氏の案内で、当時の考古学者達が遺跡を訪れたが、田畑は耕作されていたので、発掘調査までには至らなかったようである。
	その後しばらくは忘れ去られたような池上曽根遺跡だったが、昭和29(1954)年頃からの地元の府立泉大津高校地歴部に
	よって、土器の採集が行われ、忘れられていた遺跡に再び眼が向けられた。昭和33(1958)年には和泉市教育委員会によっ
	て、初めての発掘調査が行われた。市営住宅の建設にともなうこの調査で、紀元前2世紀頃の弥生土器や,炭化米などが発
	見された。続いて昭和36年(1961)には和泉大津高校地歴部によって、府営水道敷工事に伴う緊急調査が実施され、この
	調査で竪穴式住居が発見された。

	昭和30年代40年代に、全国で大規模な道路や住宅の建設工事が実施される中、大阪と和歌山を結ぶ第二阪和国道(現国
	道26号線)建設が計画された。計画では、道路予定地は池上曽根遺跡の中心部を貫通することになっていた。
	そこで、大阪府教育委員会が遺跡の範囲を確認するための調査を実施し、遺跡の東・南限がほぼ明らかになった。そして
	「第二阪和国道内遺跡調査会」が設立され,昭和44〜46年(1969〜1971)の2年6ヶ月におよぶ発掘調査が実施された。
	祖霊・穀霊を運んだと言われる鳥形木製品、龍など描かれた土器、弥生時代最大級のヒスイ勾玉などが出土している。
	この時調査にあたった金関恕氏は、現在この遺跡に隣接して建てられている「大阪府立弥生文化博物館」の館長である。

	このHP巻末に、発掘経緯概略を掲示した。

 


	【池上曽根遺跡の環濠】
	池上曽根遺跡は、調査された当初は環濠集落として脚光を浴びた。集落の北の方に何本もの溝が平行して掘られ、その溝が
	住居の間を縫って走っているのが確認されている。上記写真の浅い溝である。これは北九州の弥生遺跡に見える環濠とは別
	物である。北九州のものは完璧に防御用で、濠も深く、吉野ヶ里などでは濠の内側に、鋭く削った防御用の柵まで立ってい
	る。これに比べるとここの環濠はとても防御用には見えない。洗濯用か灌漑水路か、明らかに生活用水と思われる。
	もっとも、ここの環濠は、最初掘られてからそれが放棄されるまでの間に,何度も掘り直されているそうだから、初期の頃
	には防御用としての機能があったのかもしれない。
	遺跡の環濠が二重になっているように見えるのは,この掘り直しの結果だそうだ。最初に掘られた大溝が同じ位置に何度か
	掘り直されて、その外側に少し位置をズラしてまた掘られたためにこういう形になったという。200年間に計10回ぐら
	いは掘り直されているから,20年に一度くらいの間隔で、住民総出で作業をし、そのたびに小さく浅くなっていったもの
	と思われる。幅が1.5メートル、深さが1メートル足らずの時もあったようだ。環濠の周辺には人々の住まいが密集して
	おり、用途によって区切られた集落の姿が明らかになっている。環濠を埋めていた土中からは、おびただしい量の土器破片
	が出土した。昆虫の化石や、人糞に付く寄生虫も発見されている。このことからゴミ捨て場としても使用され、それを覆っ
	て新たに環濠を掘り直したとも考えられる。

 


	私見では、環濠は北九州においては明らかにその当初の目的は「防衛」であった。生産したイネやその他の穀物を、新たに
	渡来してきた他の集落に奪われたくないため、いわば必要欠くべからざる施設だったのだ。弥生時代の文化・生活様式の伝
	播も西日本から始まったとすれば、環濠集落の設営方法も西から東へ伝わったはずであるし、おそらくは数十年を経て、北
	九州、吉備、播磨、河内と伝播してきたはずで、その間に環濠もその性格を変えていったのではないだろうか。すなわち、
	池上曽根遺跡あたりに環濠集落の様式が伝わった頃には、もう「防御」する必要が無かったのではないか。人々は争うこと
	の無意味さを悟り、或いは、戦うほど未知なる他人集落ではなくなっていたのかもしれない。そう考えると、池上曽根遺跡
	の環濠が集落の生活用水として用いられていたのも理解できるような気がするし、拠点集落として、いわゆる「弥生都市」
	の性格を持っていたという意見にもうなずける。戦いの中にあっては、とても弥生センターのような都市は発生しないだろ
	う。

 





 
	
	公園敷地内には案内所と売店(上左)もあり、テレホン・カード、赤米などの古代土産が並んでいる。

	調査の結果、池上曽根遺跡は弥生時代の全期間(ざっと600年ぐらい)を通じて集落が営まれていたことがわかっている。
	各時期にわたり集落を環濠で囲っていたことも確認されているし、池上曽根遺跡のシンボルとなった鳥形の木製品や,ドラ
	ゴンの描かれた土器の発見も有名である。高床式建物の柱の一部が年輪年代測定法による測定結果、紀元前52年に伐採さ
	れたことも有名だ。土器に描かれていた建物の絵をモデルに1999年に復元された。また多くの竪穴式住居の跡も見つか
	っており、円形と方形の2つの住居が復元されて、中に入ることもできる。どこの竪穴式住居の中も一緒だが、中は真っ暗
	で涼しい。内部は四畳間の部屋ほどの大きさ。
	大型建物や井戸の周りには、たくさんの石器や土器を埋めた「祭りの場」がつくられ、その隣では青銅器や鉄器を作ってい
	たと思われる当時の工房の跡も見つかった。

	首長居館や神殿、工房などの中心施設をぐるりと取り巻くように一般の人々が住んでいたと推定される。当時の池上曽根遺
	跡の人口は1000人を超えていたと考えられ、人々が肩を寄せ合うようにして暮らしていたのだ。

 





 

 

 



 



 

	【復元された建物「いずみの高殿」】
	平成7(1995)年、集落の中心部で見つかった弥生時代中期の大型建物と井戸は、従来の弥生時代のイメージを塗りかえる
	大変な発見となった。大型建物は壁のない高床建物で、屋根裏が二階になった屋根倉形式といわれる形で復元された。出土
	した土器に描かれていた弥生時代の建物の絵を元に全体の形が決定され、建物の両側には、池上曽根遺跡の成立や日々の生
	活の様子を、色鮮やかな木彫りのレリーフで表現している。建物の柱には、直径50〜60センチのヒノキの大木が使われ
	ていた。26個の柱穴のうち柱根が17本残されていて、平成8(1996)年に奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏が年輪年
	代法で鑑定した結果、この内の一本の伐採年はBC52年と判明した。弥生時代の年代を西暦で示すことができた画期的な例と
	して脚光を浴びた。佐原真氏による編年より100年も古かったが、BC52年に伐採された木材がそのまま時間をおかずに建
	物に使われたかどうかについては、今なお学会でも賛否両論がある。

 















 


	神殿の下は以外に高い。マンションの天井ほどあり垂直に階段もついている。独立棟持柱と呼ばれる、建物本体から飛び出
	して軒を受ける太い柱を持っていることで、この建物が神殿のルーツだったという見解が生まれる。古代の神社に採用され
	る様式だからだ。タダモノではないことを誇示していると言うわけである。

 


	池上曽根遺跡の大型高床式建物は、今のところ弥生時代の建物としては、全国3番目の大きさを誇る。しかし、弥生中期の
	高床式建物に限定すると、全国で1番大きい建物になる。平成7(1995)年の発見当時は、新聞の一面やテレビ等マスコミ
	に大きく取り上げられ、現地説明会には5000人もの古代史ファンがつめかけて、遺跡周辺は連日大混乱となった。

 


	ドラゴンの描かれた土器は有名だが、その後の調査で、親子のシカを描いた土器や、復元の根拠となった高床式建物を描い
	た土器が見つかった。高床式建物の絵は、壺の頸に描かれたもので、大きく飛び出した独立棟持柱と強い妻転びの切妻屋根
	が表現されている。さらに柱が8本以上も描かれており、今までに50例ほど家屋が描かれた土器が見つかっているが、こ
	れほどたくさんの柱を表現したものは知られていない。

 

	【「いずみの高殿」建物規模】
	●東西19.2m、南北6.9m、高さ11m、床までの高さ4m。
	●両妻側に「独立棟持柱」をもつ梁間1間型の高床式大型掘立柱建物。
	  柱は側柱22本、棟持柱4本の計26本。柱の直径60cm。
	●復元建物は、和泉市父鬼町の三国山で伐切された50本のヒノキを使用。
	●床面積135平方m(80畳)。現代の3DKのマンション二軒分に相当する。
	●屋根素材 葦。屋根の面積400u、屋根裏だけで133uの大部屋。
	 屋根上には神の使いをイメージした鳥の木製品を置き、屋根全体が魂を運ぶ船の形。
	●柱、桁、梁、地棟、登梁、梯子などの主要部材に和泉産ヒノキを使用
	●史跡公園内の他の復元建物
	 「やよいの大井戸」・・東大阪市から寄贈されたクスノキの大木。
	 「堅穴住居」・・・小型掘立柱2棟、環濠周囲に密集していたもの2棟。


いずみの高殿の入り口から見た遺跡全景。







 

	【やよいの大井戸】
	「やよいの大井戸」と命名された、復元された大井戸は一本の木ではない。寄せ木である。もう現代ではこの大きさにくり抜
	ける木はクリだろうがクスだろうが存在しない。すぐ下の写真と見比べてほしい。全く同寸法に復元してある。「一本の木
	をくり抜く井戸が一番格式が高い」と学芸員が説明していた。径2.3m、内径1.9m、厚さ20cm、復元の深さ1.2m、
	井戸屋形の高さ5m。刳りぬき井戸としてはわが国最大のもの。発掘時もこんこんと水が湧き、2000年間井戸は生き続
	けていた。幹周りが7m以上もある楠(くすのき)が使用されている。

	「格式の高い井戸」というのは、この井戸が実用的なものではなく、神聖な儀式に使われる井戸だったという考えから来て
	いる。井戸の周りにサヌカイトを埋め込んだ塚や、土器片を埋めた場所が見つかったため、この一帯が生産に関わる祭祀の
	場所だったというのだ。確かにあの高床の高さは、あの建物が単なる倉庫とは違う何かであったことを想起させる。

 





	
	池上曽根遺跡のど真ん中、少し小高くなった所に、柵に囲まれ大きな建物が立ち並ぶ一画があったと考えられている。ここ
	が池上曽根遺跡と周辺に広がった中小の村々を治める首長の館だったとされるが、この場所はまだ発掘されていない。今後
	の調査でやがて、推測が正しかったかどうかが確認されるだろう。その奥には「弥生の杜」と名付けられた曾根神社の森が
	ある。


 

 

 



	
	池上曽根遺跡でまた有名なのは稲穂を刈る道具の石包丁である。和歌山県の紀ノ川水系で取れる緑色片岩という石を運びこ
	み、石包丁に加工していたようだ。ここで作られた石包丁は大阪東・南部の集落にも大量にもたらされていた。2000年
	前にも「池上曽根製包丁」として流通していたようである。



	
	現在、池上曽根遺跡のそばには、「大阪府立弥生文化博物館」が建てられている。ここには資料室・ビデオや弥生時代のジ
	オラマや、各地から出土した弥生遺物のレプリカがいっぱいで、存分に「弥生時代」を体感できる展示になっている。土器
	・石器を実際に触わったり、銅鐸をならしてみたりすることができるコーナーもあり、大阪府下では、私の好きな博物館の
	一つである。



	 【池上曽根遺跡史跡公園/弥生文化博物館の案内 】 
	公園面積:  3.5ha(第1期整備範囲) 
	施設:    復元建物(大型掘立柱建物、井戸、竪穴住居ほか)
	遺構復元: (環濠、竪穴住居跡、祭祀遺構、ほか)
	体験学習運営施設 (インフォメーションセンター)
	博物館・施設開館時間  午前10時〜午後5時 
	施設休館日  月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日)、祝日の翌日、年末・年始(12月28日〜1月4日) 
	入園料:   無料 (博物館入館料 大人400円・高大学生300円・65歳以上&小学生以下無料)
	交通:    JR阪和線「信太山駅」西へ徒歩6〜7分
		   南海本線 「松ノ浜駅」東へ徒歩20分 
	問い合わせ  〒594-0083	大阪府和泉市池上町213番地の1 池上曽根遺跡史跡公園 電話・FAX:0725−45−5544
		   〒594-0083	大阪府和泉市池上町443     府立弥生文化博物館  電話 0725-46-2162


	弥生の「神殿」現れる──大阪・池上曽根遺跡   98−9−29朝日新聞朝刊
	
	大阪府和泉、泉大津両市にまたがる国の史跡・池上曽根遺跡で、「神殿」と見られる大型掘っ立て柱建物の復元作業が進み、
	10月2日の上棟式を前に骨組みが立ち上がった。来年3月に完成予定で、弥生時代では全国でも最大規模の復元建物とな
	る。復元作業は、掘っ立て柱の穴を保存するため、約1メートル土盛りしたうえに柱を建て、原寸大で進めている。高さ11
	メートル、床までの高さ4メートル、床面積135平方メートルで、屋根には葦をふく。主要部材は直径40―60センチ
	のヒノキ約50本で、地元和泉市で調達した。掘っ立て柱の地中部分は鉄の筒で包むなど、「免震構造」も採り入れて200
	年はもつ構造になっている。 
	
	下は、平成10年(98)年11月に弥生文化博物館の「卑弥呼の宝石箱展」を見に行った帰りに遺跡に立ち寄った時の写真。
	復元作業の真っ最中だった。作業者は、古代遺跡の復元で定評のある「大林組」である。












	 
	計画的配列の高床式建物跡4棟出土 大阪・池上曽根遺跡 2004/11/09 asahi.com
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	整然と並んだ弥生時代中期の大型建物跡(手前)。後方は復元された神殿とみられる高床式建物 

 
	大阪府和泉市と泉大津市にまたがる弥生時代の環濠(かんごう)集落「池上曽根遺跡」から、計画的に配列された弥生中期
	後半(紀元前1世紀)の倉庫とみられる高床式建物跡が4棟見つかった。9日、府文化財センターと和泉市教委が発表した。
	いずれの建物も柱穴を結ぶ線が東西南北を向いている。方位を意識し整然と並んだ建物群としては最古の例で、佐賀県の吉
	野ケ里遺跡など謎の多い環濠集落の構造解明に有力な資料となりそうだ。 
	建物群は遺跡中枢部の最も高い部分(標高約9メートル)で見つかった。最大の建物は、東西7.8メートル、南北10メ
	ートル(面積78平方メートル)で、ほかの3棟は53、23、11平方メートルあった。4棟のうち同時期に立っていた
	のは2棟ずつ。うち2棟は同じ場所から見つかり、建て替えられたらしい。 
	今回の建物群は、95年に見つかり復元された高床式大型建物跡(東西19メートル、南北7メートル)の北東約100メ
	ートルに位置し、出土遺物からほぼ同時期の建設と判明した。 
	同センターは、建物群の用途を倉庫と推測する。「周囲に竪穴式住居や井戸など生活の痕跡がない」「約6ヘクタールの環
	濠集落内で最も高台に位置し、水の影響を受けにくい」などから判断した。コメやアワなどを保管する富の集積場だった可
	能性があるという。 
	代表的な大規模環濠集落の吉野ケ里遺跡では、弥生後期の大型建物跡や倉庫群などが発見されているが、方位に基づく計画
	的な配置は確認されていないという。 
	現地説明会は13日午後1時から。JR阪和線信太山駅下車、徒歩10分。 

		    ◇ 

	〈池上曽根遺跡〉近畿地方では、奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ弥生時代中期の大規模な環濠集落。遺跡全体の広さは約60
	ヘクタール。95年に、神殿とみられる高床式大型建物跡(133平方メートル)と井戸跡が見つかった。年輪年代法によ
	る調査で、この建物跡に残っていたヒノキの柱の伐採年が紀元前52年と判明した。76年に中心部約11ヘクタールが国
	史跡に指定され、史跡公園として大型建物や井戸が復元されている。 (11/09 22:30) 

 




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