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怡土城跡・高祖神社

2005.3.6(日)




 

♪ 大阪から〜 ♭船(plane)に乗ってぇ〜 ♯博多にぃ 着ぅいた〜♪ っと。


	福岡県八女市に住む画家、青沼茜雲先生と糸島郡で魚を食べる約束をしていたので、博多へ帰った。海の見える、
	岬の突端にある料理屋で、大阪あたりで食べる魚とはこうも違うもんかというような魚料理を腹一杯ごちそうにな
	った。先生は糸島半島を一周して、アチコチ案内してくれた。福岡の妹の家に泊まって翌日、雪の中をまた一人で
	糸島にやってきた。新装なった伊都国博物館も見たかったし、前からここにも一度来てみたかった。



福岡県前原市高祖山。右の方は福岡県・佐賀県境の背振山系。クリックすれば大画面になります。



怡土城跡


	国指定史跡 怡土城(いとじょう) 前原市大字高来寺、大門、高祖 

	前原市と福岡市の境に位置する高祖山(たかすやま:標高 416m)の西側斜面一帯に築かれた大規模な古代山城で、
	「続日本紀」(しょくにほんぎ)によると、遣唐使として755年に唐に渡り、唐で19年の修行をしてきた吉備
	真備(きびのまきび)が、天平勝宝8年(756)6月から神護景雲2年2月(768年)まで12年間かけて築いた中
	国式山城で尾根づたいに5ヶ所の望楼を配し、西麓の平地に面した一線は土塁・石塁をもって延々と固め、その間
	に城門・水門等が造られた。現在築城時をしのぶ遺構として、高祖山の西裾に1.6kmの土塁(どるい)が走り、
	尾根線上に計8か所の望楼(ぼうろう:物見やぐら)跡が残っている。しかし、城郭内の施設等についてはよくわ
	かっていない。

 




	大宰府防衛を主な目的として築かれ、築城当初の責任者吉備真備は、当時大宰大弐(だざいのだいに:大宰府の副
	長官)であった。築城当初は吉備真備が責任者だったが、途中天平勝字7年(763)真備は京へ帰還命令が出たの
	で、佐伯宿禰今毛人(さえきすくねいまえみし)が怡土城専知官となり、3年後に完成した。建築には、当時他の
	作業に着かせる事が禁止されていた防人まで動員された。




	そのころ唐では、玄宗皇帝に対する「安禄山の乱」がおこり、また朝鮮半島では新羅が日本に攻め入るような気配
	であったために、大和朝廷にとって九州北岸の防備が急務となっていた。天平勝宝5年(753)新羅国王は日本の
	国使を会見拒否し、日本と新羅との緊迫感が強まった。天平勝宝8年(756)に藤原仲麻呂が実権を握り、新羅討
	伐計画を練った。その年勅命によって怡土城築城が着工した。筑紫では、大野城・基肄城の2城につぐ外敵防衛の
	ための古城である。しかし怡土城は、実際には使われる事も無く、9世紀の初めにその役目を終ったと考えられる。






	怡土城の特色は、国の歴史書にその築城の担当者とその期間が明確に記録されていることであるが、また、中国式
	山城の築城法が採用されていることも大きな特色である。怡土城は高祖山の急斜面から平地部にかけて「たすき」
	状に城郭を形成しており中国式山城が手本だが、それは遣唐使として2度にわたって中国に渡海し、特に兵法を中
	心に学んできた吉備真備の存在を切り離して考えることはできない。







怡土城跡の土塁跡と記念碑(正面)


	怡土城は部分的な発掘調査の結果、9世紀初めまでは「城」として機能していたようであるが、いつ頃廃城になっ
	たのかは不明である。その他の点においても古代怡土城については不明な点が多いが、少なくともその後、廃城に
	なった怡土城を再利用して中世山城の「高祖城」が築城されたことは、当地の軍事的重要性と怡土城の「城」とし
	ての機能が優れていたことを証明していると言える。








	城の全体は高祖山西半面であるが、現在の怡土城跡碑は、高祖山麓の昭和バス「高祖バス停」より2分の小高い台
	地の上にある。ここを登っていくと、神楽で有名な高祖神社や、黒田藩の菩提寺・金龍寺も高祖山の山中にある。
	大宰府の下で船舶の管理をしていた「主舟司」が置かれたと推測される周船寺の町もすぐ近くである。福岡市西区
	周船寺には、私が大学に入学しワンダーフォ−ゲル部に入ったとき、私を鍛えてくれた先輩が今も住んでいる。





	高祖山城 (たかすやまじょう)前原市大字高祖 別名:原田城

	9世紀初頭に城の役目を終えた古代怡土城は、中世に入ると、戦国時代の山城として再利用される。建長元年
	(1249)、土地の豪族原田種継が、荒廃した怡土城を利用して高祖山の頂上に城を築き、以降原田家の居城となる。
	天正14年(1586)原田種信は、薩摩の島津軍と盟約し豊臣秀吉と抗戦し、高祖山城にて籠城するが、豊臣軍の小
	早川隆景に攻められ種信は降伏した。高祖山城は破却、領地は没収され、原田種信は、肥後、熊本城主加藤清正の
	与力となるが、慶長3年(1598)朝鮮にて戦死した。この原田家一族は我が郷土秋月の祖となった原田三郎種雄
	(たねかつ)も一門で、広く九州北部に広がっていた。

 

怡土城域


	「秋月家譜」によれば、秋月氏は大蔵氏を遠祖とし、大蔵氏は後漢滅亡時、献帝の孫の阿智王が我が国に亡命し帰
	化したものの後裔といわれ、阿智王の子孫が大蔵姓を賜ったとされる。大和朝廷の官物を納めた蔵(大蔵)の吏とな
	り、その功によって大蔵姓を授けられ、この姓を称するようになった。阿智王の十四世の孫という大蔵春実は、天
	慶三年(940年)藤原純友の乱(天慶の乱)に追捕使主典として太宰府に赴き、小野好古らと共に藤原純友を追討した。
	その際秋月の地で陣容を整えたとされるが、それ以前の大蔵氏の居住地や、往時の様子などは不明である。藤原純
	友追討の功により、朱雀天皇より錦の御旗と短刀を賜わり、西征将軍となった。
	その御旗に大和撫子の紋があったため、大和撫子をもって大蔵家家紋としたと言われる。乱平定後、筑前・豊前・
	肥前・壱岐・対馬の三前二島の管領職となって 太宰府に近い筑前三笠郡基山に城を構え、太宰府の武官として北部
	九州の守備にあたった。大蔵一族はその後、原田・三原・田尻・江上などの地名を名乗る土着の武士団となって、
	筑前、豊前、肥前一帯に勢力を拡大して行った。






 

【左:本丸跡に残る土塁 右:石垣】




高祖神社







	高 祖 神 社( たかすじんじゃ ) 県社 〒819-1571 福岡県前原市大字高祖1578

	主祭神 : 「彦火々出見尊」
	脇神  : 左座に「玉依姫命」、右座に「息長足比女命」
	行き方 : JR筑肥線/周船寺駅下車・バスまたはタクシー  昭和バス/怡土経由前原行き・高祖下車
	





	高祖山には古代の太宰府防衛の第一線基地である怡土城があった。中世には土地の豪族、原田氏がその怡土城の一部
	を改築し高祖城として根拠地とした。そのときこの高祖神社は城鎮守の神として造られたものである。
	もともとは城鎮守の神であったが、今では周辺の鎮守の神となっており毎年4月26日には氏子達の保存会による高
	祖神楽が奉納される。社殿の造りは明らかに出雲系神社であり、現在の主祭神、脇神は後世の付会であろう。
	「九州諸将軍記」には「神代より鎮座あり神功皇后、三韓より凱旋の後、当社の社殿を乾の方に向け御建立」と記さ
	れており、その縁で神功皇后を相殿に祀っているが、もとより、そもそもの由来ははっきりしない。
	「日本三代実録」には、いまから千百年ほど前の元慶元年9月25日発亥「正六位高礒比賣神に従五位下を授く」と
	記されている。高礒比売神というのが高祖神社のことで、相殿に玉依姫命、息長足比売命を祀っているので、このよ
	うに呼ばれたと語り伝えられる。

	明治5年11月怡土郡郷社、大正4年11月神饌幣帛料供進社、大正15年6月29日県社昇格、昭和28年7月20日、
	域外境内社としてクヌギ幸神社、庚申社、浦方天神社を含め宗教法人高祖神社を設立し、地元の崇敬を集めている。
	また境内神社として伊弉諾神社・思兼神社・農業、特に畜産農家の信仰厚い徳満神社の三社がある。

 








	筑前の学者だった貝原益軒が、後年ライフワークとして取り組んだ「筑前国続風土記」は、明治にいたるまで写本と
	してのみ流布し刊行されなかったために、一般にはあまり知られていなかったものであるが、これは、各地の地誌、
	地史のうちで最大の傑作の一つであると言われる。読みやすい文章で書かれていて、原文は中学生や高校生でも読め
	る。30巻におよぶ大著は、現在の福岡県住民への貴重な贈り物である。ここに、

	筑前國続風土記 巻之二十八 古城古戦場 五(早良郡 怡土郡 志摩郡) 

	早良郡
	○百道原 ○九州探題城址 ○鉢の窪 ○飯盛城 ○安楽平城址 ○曲淵古城 ○背振山 
	怡土郡
	○高祖古城 ○曽根原古戦場 ○怡土城 ○篠原古城 ○うなぎれが辻 ○小倉村古城 ○加布里村古城 
	○宝珠岳古城 ○有田村古城 ○深江岳城 ○吉井岳古城 ○鹿家古戦場 
	志摩郡
	○鷺城址 ○臼杵氏端城 ○柑子嶽古城 ○加也山古城 ○姫島古城 ○土師村古戦場 ○馬場村古城 
	○泊村古城 ○元岡村古塁 

	とある。

 



 


	近年古代史の分野で、原田大六氏や古田武彦氏の影響で、この神社が大靈女の元社地であるとか、邪馬台国がこの地
	であるとかいう意見があるが、延喜式神名帳にも見られず、見てきたようにそもそも高祖神社は原田氏の城鎮守の神
	として造られた物なので、とても言うような古社とは考えられない。県社になったのも、大正期である。ここは邪馬
	台国ではない。


 




	高祖神楽は今から500年以上前の応仁元年、戦国動乱の時代、時の高祖城主原田筑前守種親が、盟主である周防国
	山口城主、大内政弘の要請を受けて京都守護の大任に当った時、戦陣のつれづれに習得した「京の能神楽」を郷土に
	伝えたものとされているが、外にも異説がありその始めは定かではない。

	歴史と伝統に受け継がれて来た高祖神楽は、江戸時代までは旧怡土郡の神職の奉仕で舞われていたが、明治になって
	からは高祖神社の氏子たちによって受け継がれ、現在は13人の氏子の神楽師の奉仕で、毎年春の祈年祭、4月26
	日午後1時ごろから夕方まで高祖神社境内の特設舞台で舞われている。




「須佐男尊・仁和元年(885年)の銘あり」 「 岩戸開き・荒振神」 「手力男神」



「大国主命」 「健御雷神」


	一 番 ・ 神 供 (じんぐう) 
	二 番 ・ 高 処 (たかどころ) 
	三 番 ・ 笹 舞 (ささまい) 
	四 番 ・ 国 平 (くにうけ) 
	五 番 ・ ヒキ目 (ひきめ) 
	六 番 ・ 敷 蒔 (しきまき) 
	七 番 ・ 磯 羅 (いそら) 
	八 番 ・ 神相撲 (かみずもう) 
	九 番 ・ 両 剣 (りょうけん) 
	十 番 ・ 問 答 (もんどう) 
	十一番 ・ 岩戸開き(いわとびらき) 
 
	高祖神楽は大正末期までは、いま舞われている十一番の外に、祝詞神楽、四神御幣、阿良加微、多久佐、御剣、
	弓、玉島、オノコロ島、蛇退治、天孫降臨、龍宮の十一番も奉納されていた。




帰りの飛行機は、な、なんとプロペラ機であった。大阪−福岡路線では、今時めずらしい。





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