Music: Revolution
岩宿遺跡(旧石器時代)
2000.4.8(土) 群馬県新田郡笠懸町



	東京方面から岩宿へ行くには幾つかの方法がある。鉄道なら、JR各停で赤羽・小山経由岩宿まで、あるいは新幹線で
	小山まで行って岩宿へ、という方法と、案外知られていないが東武鉄道で「浅草」から「赤城」という手がある。特
	急で2時間ほどかかるが、ゆったり座れて安い。私の出張は金曜日だったのでその夜「赤城」へ来て一泊したのだが、
	東京の人なら十分日帰りできる。



 


	岩宿と言えば、下左の写真「我が国で始めて出土した旧石器時代の石器」、これである。これしかない。これだけで
	十分なのだ。岩宿を日本中に知らしめた世紀の大発見。義務教育を受けた者なら誰もが知っている、我が国初の旧石
	器時代遺跡「岩宿」(いわじゅく)。
	若干20才の在野の考古学研究者「相澤忠洋」(あいざわただひろ)は、群馬県新田郡笠懸町の丘陵の切り通しで、一
	片の石器を発見する。土器を伴わない地層の中からの出土に彼はとまどう。なぜなら、それまで日本には、少なくと
	も関東ローム層が台地を覆い尽くしてしまっている関東地方においては、「旧石器時代」は存在しないと考えられて
	いたからである。関東ローム層は1,2万年前に富士山等の火山活動により火山灰が堆積してできた地層で、その頃
	の関東地方は人間が住める環境では無かった、というのが学会の「定説」であった。考古学者達も赤土層(ローム層)
	に出会うと、そこで発掘作業は終了とされていたのである。相澤忠洋は、我が国における「旧石器時代」の存在を証
	明した最初の人間となった。
	この発見物語は、主人公「相澤忠洋」の「旧石器」にかける情熱と不屈の精神の物語として有名だが、実は在野の研
	究者に対する当時の我が国知識層(学会・大学・行政等)のとった狷介(けんかい)な対応を、広く世間に知らしめ
	たという意味でも実に意義深い物語なのである。「相澤」の受けた非難や中傷や誹謗は戦後すぐの事だから、なので
	はない。それは今の学会にも存在する。インテリゲンチュアと呼ばれる階層の人間達は、ある種独特の排他性を有し
	ているが、学問の世界においてもそれは同じ事で、むしろ世間の波に洗われた事のない「象牙の塔」にいる者達こそ、
	その閉鎖性は人一倍強いとも言える。一部の心ない学者や研究者の為に、学会全体の閉鎖性が問われる事になる。
	学問は万人の為にある。一部の研究者や機関の為にあるのではない。万民の利益の向上に役立ってこそ学問である。
	勿論、「利益」とは現実的な経済報酬を言うのではなく、広く、深く、長く、国民全体で共有する知的な「財産」と
	しての価値を言うのである。「岩宿物語」は、今なおその事について深く考えさせる格好の教材と言えるだろう。



 

 


	岩宿遺跡のすぐ裏に「笠懸野岩宿文化資料館」が建てられている。発掘A地点の山「稲荷山」にはカタクリ群生地が
	ありこの日は満開で、多くの人々がカタクリの花を見学に訪れていた。岩宿遺跡の周辺は氷河時代の植物が自生して
	いる事でも有名である。春はここに見られるカラクリ、梅雨時は池にハスの花が咲き、夏には丘陵一体の雑木林に蝉
	時雨、秋は紅葉が訪れる人々の心を和ませてくれる。
	カタクリは寒冷な気候の土地を好み、氷河期の生き残りとも言われている。この群生地のカタクリも、もしかしたら
	氷河時代を生き抜き、岩宿の旧石器人・縄文人達の心を和ませていたかも知れない。

 






	相澤忠洋著「岩宿の発見−幻の旧石器を求めて−」は今も講談社文庫から発行されている。彼の孤高な戦いと不屈の
	情熱を知るには絶好の著書だ。是非ご一読される事をお勧めしたい。更に興味があれば、「岩宿石器発見」に関する
	諸々の本を読んで欲しい。遺跡発見をめぐる様々な人間模様が見えてきて、実に多くの事を考えさせられる。「人間
	とは何か」「学問・教育とは何か」「友情とは」。ある一人の人間の一生を追っていくことは、同時に自分の一生を
	考えることにもなる。「伝記」の類はそのためにある。




	下左の写真、道の峠の左側にA地点、右側にB地点のモニュメントがある、B地点は展示ドームになっており、地層
	断面などを見学できる。

 





発掘調査 A地点

 

 





発掘調査 B地点

	このB地点には観察ドームが設けられ、内部に地層観察コーナーが設けられている。関東ローム層を縦断したはぎと
	り地層で、何万年に及ぶ人類の軌跡を見る事ができる。

 

 

 

 





 

浅草へ戻ってくると隅田川河畔の桜も満開で、道路、堤防の上は花よりも多そうな人の数だった。





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