上黒岩岩陰遺跡 上黒岩岩陰遺跡は、愛媛県上浮穴(かみうけな)郡美川村(みかわむら)上黒岩(かみくろいわ)1092番地に位置し、 愛媛県松山市から高知県佐川町を経て高知市に到る国道33号線沿い、久万川の清流を挟み道路の対岸にある。この地は四 国の最高峰、石鎚山(いしづちさん)の西南麓の山地で、遺跡付近は標高約400mほどである。遺跡は東北面を高さ約2 0mの石灰岩の切り立つ断崖を背にした、西南に開いた岩陰(いわかげ)遺跡で、昭和36年(1961)当時、美川中央中学 校1年生であった竹口義照氏によって発見され、翌昭和37年から昭和45年(1970)まで5回にわたる発掘調査がなされ た。 発掘調査は、慶應義塾大学文学部教授江坂輝弥、愛媛大学教育学部西田栄、高知女子大学教授岡本健児、新潟大学医学部教 授小片保などが中心となり、多くの人々の協力によっておこなわれた。本岩陰遺跡は、各時代の人々が住居として利用する とともに、第W層の縄文文化早期中葉の人々は岩陰奥部を墓域として使用し、10体以上の人骨が埋葬された状態で発見さ れた。また人骨より居住地区に近く、2体の犬の埋葬骨も発見され、今から約8000年前と、遠い我々の先祖が既に日本 犬を飼っていたことがわかった。
今年(2003)は思いがけず正月休みが9連休となったので、会社の同僚宮崎君と四国遺跡巡りの旅に出た。宮崎君は別に遺 跡に興味はなさそうだが、「暇なので付き合いましょう。」と運転を買って出てくれたのだ。私は免許は取り上げられてい るので助かった。四国の遺跡はいずれも多くが山また山のなかで、車がなければ移動できない。歴史倶楽部の有志を募った が年末でそんな暇人はいなかった。オッサン二人の遺跡巡りである。この遺跡は遺跡ガイドブックを見たときから興味があ った。1万2千年前と言えば気が遠くなるような年月だ。そんな時代にすでに人と犬が一緒に葬られている。しかも岩陰に 1万年も住み続けていたのだ。
資料館はシャッターが降りており、覆屋の金網に掲示された案内板には、「12/28日−1/3日休館」となっていて大 ショック。「あちゃ−、年中無休と書いてあったような気がしたんだがなぁ。」「せっかくここまで来てなぁ、今日からか。」 「昨日来ればよかったかな。残念無念ですね。」「こじあけたら開かんやろか。」「そらアカンでしょ。」と宮崎君と嘆く ことしきり。
ふと、今まで色々な遺跡・資料館をめぐって来た経験から、「もしかして隣の家がこの資料館の管理を委託されておられる のでは。」という気がした。玄関口へ廻ってみると表札に竹口渉とある。格子戸を開け声を掛けると中から中年の婦人が顔 を出して、確かに鍵はあるので開けてあげようとの事。なんたる幸運。聞けばご婦人は、下の説明板にあるこの遺跡の発見 者、竹口義照氏の母上であった。休館日に入っているがわざわざ大阪から来たのならと、シャッターを開けカーテンも開け てくれた。
発見当時、中学校2年生であった竹口義照氏は現在55歳で、この遺跡のそばで今も両親と居住されている。お母上から発 見当時の話も色々と伺う事が出来た。説明板にある父上の渉氏も健在だったが、義照氏は仕事で外出中であり発見者の声は 聞けなかった。
ここが遺跡である。ここに1万年前の人間が、岩陰に寄り添うようにして暮らしていたのだ。大岩の陰で、居住し寝食し、 ここに葬られてまでいる。しかも何千年にもわたってである。岩陰というのは当時の縄文人達にとっては、洞窟と同様に安 全で居住性に富む場所だったのだろう。母上の話では、第二遺跡というのも附近にあるがまだ本格的には調査されていない との事なので、この近辺には同様の生活をしている集団が何組か居たものと思われる。食料となる動植物・鮮魚類が豊富だ ったのだ。この遺跡は、我国でも最古の古代遺跡として1971年に国の指定を受け、現在は地層を保存するため、合成樹 脂加工されている。 それにしても何という狭さだろう。この岩陰に、何千年にも亘って住み着くということの意味がよく理解できない。どこか もっといい場所が無かったのだろうかという気がする。1万年も住んでいたのだから、近在では優良な居住区だったのかも しれない。それにしても錆かかった私の頭では、1万年前このあたりがいったいどんな地形だったのか想像もできない。
こんにち我々は、暑いと言ってはクーラーを付け、寒いと言ってはストーブを焚く。雨が降っても濡れもせず、風が吹いて もビクともしない家に住んで、さもそれが当然のごとく思いこんでいるが、それは、1万年という長い人類の智恵が到達し た結果なのである。貴方の上司や部下、社長でさえも、内閣総理大臣や天皇陛下も、ここで縄文人たちが暮らしていた頃、 その先祖たちもどこかで同じような生活をしていたのである。みな等しく、野獣の襲来を恐れ、明日の食料を求めて山河を さまよい、雨露をしのぐ場所で肩を寄せ合い助け合って生きてきたからこそ、今の貴方が存在している。
<出土遺物> 出土品の中で、当時最も注目を引いたのは、遺跡の第9層から発掘された総計8個の、直径5cm未満の扁平な緑泥片岩川 原石で製作した線刻女性像である。その当時、類似の発掘品は皆無だったので、後期旧石器時代のビーナスともてはやされ た。線刻動物像とも関連がある日本最古の人物像として、その後の考古学研究上多くの課題を示した貴重な遺物だった。
カーボン14の放射能測定(C14測定法)によって、今から12000年前という年代が算定された第9層からは、世界最古 の土器の一つと考えられる、細隆起線文土器、小型石鏃、無紋土器、変成岩製のペンダントなどが発掘され、弓矢がこの時 代(今から10000年前:縄文時代早期前葉)に初めて現れたことも明らかにされた。
第4層からは押型文土器(黄島式)、石鏃、緑泥片岩製石錘(漁網用か?)、礫器などの石製品のほか、埋葬人骨の堆積層 中から鹿角製棒状耳飾り、猪牙製垂飾品などの装身具類が発見された。また狩猟、漁労の対象になった鳥獣魚類の骨は主と して第4層から出土した。シカ、イノシシ、テン、タヌキ、ムササビ、ハタネズミ、アナグマ、ウサギ、ツキノワグマ、カ モシカ、カワウソ、ヤマドリ、ウナギ、マサバなどの骨とともに、ニホンオオカミ、オオヤマネコなど、現在我が国では絶 滅してしまった動物の骨も発見されており、当時はこれらの動物がこの附近にかなりの数生息していたことを物語っている。 オオヤマネコは、更新世末、第4氷河期の頃、シベリア方面から朝鮮半島を経て我が国に渡来した寒冷地系の動物で、豹く らいの大きさのある大型の野獣である。
この遺跡の人骨は、屈葬位のものもあるが、各骨が自然の位置になく、改葬されたと思われるものが多い。個体数は約20 体分ある。男女それぞれ、胎児期から熟年期(40〜60歳)まである。一般の縄文人にも言えるが、これら早期縄文人の大き な特徴は、顔が「寸づまり」の特徴が強い事である。歯の咬合様式(かみかた)は、けぬき状(くぎぬき、つめきり状)咬 合で、歯は強く摩耗しており、また、ほぼ切歯、犬歯、小児歯などは特殊な減り方を示し、鞍状に減っている場合が多い。 おそらく、歯を道具として用いる機会が多かったからだろうと推測される。また虫歯も多い。 人骨は、特に上肢・下肢の長骨が「きゃしゃ」であることが目につく。身長は聖人で男性平均約157cm、女性平均約1 47cmである。大腿骨骨幹の後面の粗線が、多くの縄文人に見られるように発達がよく、柱状大腿骨を呈するものが多い。 脛骨(けいこつ)は偏平なものばかりではないが、骨幹中央横断面は純四辺形のものが殆どである。
ここに掲示する写真は、投げ槍と思われる武器の、鹿の骨の穂先が腰骨に刺さったまま葬られていた人物の骨である。これ だけの深さに達する傷は致命傷と思われ、おそらくこれが元で絶命したものと思われる。同じ場所に葬られていることから、 敵対した集団のものとは考えられず、おそらくは仲間の投げた槍が誤ってこの人物にあたり、ここに葬られたと考えられて いる。