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今城塚古墳/継体天皇陵 99年4月29日 −高槻の古代を訪ねて・歴史倶楽部例会−




		<第26代 継体(けいたい)天皇>
		異称:  男大迹尊(おおどのみこと:日本書紀)、哀本杼命(おほどのみこと:古事記)
		生没年: ? 〜 継体天皇25年 42歳(古事記)、82歳(日本書紀)
		在位期間 武烈8年+?(継体天皇元年) 〜 継体天皇25年
		父:  彦主人王(ひこうしのおおきみ:応神天皇5世の孫)
		母:  振媛(ふるひめ:垂仁天皇7世の孫)
		皇后: 手白香皇女(仁賢天皇皇女・武烈の妹)
		皇妃: 目子媛(めのこひめ)、稚子媛(わかこひめ)、広媛(ひろひめ)、麻績娘子(おみのいらつめ)、
		    関媛(せきひめ)、倭媛(やまとひめ)、夷媛(はえひめ)、広媛2(ひろひめ)
		皇子皇女: 天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと:欽明天皇:母は手白香皇女)、
		    勾大兄皇子(まがりのおおえ:広国排武金日尊:安閑天皇:母は目子媛)、
		    檜隈高田皇子(ひのくまのたかた:武小広国排盾尊:宣化天皇:母は目子媛)、
		    他皇妃との間に18人
		宮:  樟葉宮(くずはのみや:大阪府枚方市楠葉)→ 筒城宮(つづきのみや:京都府京田辺市)→
		    乙訓宮(大阪府三島郡)→ 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや:奈良県櫻井市)
		陵墓: 三島藍野陵(みしまのあいのみささぎ:大阪府高槻市)



継体天皇の出自については学会でも諸説紛々で、様々な見解が提出されている。以下でその検証を行っている。(帰りはブラウザの「戻り」で。)




 


		大型連休予行演習日の29日、高槻に住む西本さんの案内で、歴史倶楽部の面々は古代高槻の散策に赴いた。
		今城塚(いましろづか)古墳と、継体天皇三島藍野陵、新池埴輪製作所跡、そして安満宮山古墳である。今城塚古墳はその出土品や
		大きさ形状から見て、専門の学者の間では、こちらが継体陵である、という人が多い。ここから出土した多くの埴輪は、近隣の「新
		池埴輪製作所跡」で制作された事が判明している。

 


		全長190mの前方後円墳という事だが何も整備をしていないので荒れ放題である。こちらが継体天皇陵だったら宮内庁はどうする。
		皇室の、それも現皇室の直接の始祖かもしれない人物の陵墓が、こんな崩壊を待つままでいいのか。えぇ宮内庁!さぁどうする。
	
 

 

 




古代に2度王朝の交代劇があった!

記紀によると新羅出兵から戻った神功皇后は、九州筑紫で第15代応神天皇を生んだ。つまり応神天皇は九州から大和にやってきて即位するというわけで、 この時大和で王朝の交代があったのではないかと考えられる。たとえば応神天皇以前の、第12代景行(けいぎょう:けいこう)天皇から、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、 神功皇后までの呼名はそれぞれ、「大足彦(おおたらしひこ)」「稚足彦(わかたらしひこ)」「足仲彦(たらしなかひこ)」「気長足姫(おさながたらしひめ)」とあるように タラシという語がつくが、応神の名は「誉田(ほんだ)」というようにそれがなく、簡潔なものに一転している。

第26代継体天皇の時にも王朝が交代したのではないかと言う説がある。その理由は次のようにいくつか挙げられる。
仁徳天皇より続く血筋が第25代の武烈天皇の死で途絶えたとき、記紀には越前の国にいた応神天皇の5世の孫である継体(母は垂仁天皇の7世の孫)が即位したと記されているが、 その間の系譜にはまったく触れられていない。このような記述の仕方は異質である。
継体天皇が即位した場所は現在の大阪府枚方市楠葉で
(我が家は長男が産まれてから7年この楠葉に住んでいた。)、 それまで都が営まれてきた大和や河内から遠く離れている。しかも継体が大和に入ったのは即位から20年後(「日本書紀」別記では7年後)であることから、対立する勢力が大和にいたことを しめしているのではないか。
継体という諡号(しごう)は跡継ぎの意味だが、「日嗣の皇子(ひつぎのみこ)」の嗣の字には血縁関係のある継承の意味があっても、継の字にはそれがない。つまり継体天応は前天皇と 血のつながりがないこと、氏族を異にしているのではないかと推測できること、などである。
水野祐氏は応神天皇および継体天皇のとき王朝が交代したのだとする、三王朝交代説を唱えている。一系とされていた天皇家は崇神天皇からはじまる崇神王朝、応神天皇からはじまる仁徳王朝、 継体天皇から始まる継体王朝の三王朝に分けられる。すなわち現在の天皇家の始祖は継体天皇だということになる。
もちろんこの三王朝交代説にはさまざまな反論もあり、定説となっているわけではない。しかし天皇家が「万世一系」だとする考え方には多くの疑問があることも事実なのである。
【(株)学習研究社 1998年6月1日発行 :「天皇の本 −日本の霊的根源と封印の秘史を探る−」より抜粋】


別資料によれば、武烈天皇の崩御後、越前三国の王であった継体を臣下達が探し出し中央に招いたと言う。既に継体は幾人もの妃を持ち57歳であった。生前に位を譲る 譲位を日本で初めて行ったとされる継体は、皇子(安閑天皇)が即位したその日に崩御している。また日本書紀は、武烈天皇の残虐非道ぶりを記録しているが、(妊婦の腹を割き胎児を眺めたとか、 女と馬を交尾させたとか、生爪をはがして芋を握らせたとか)これは、応神・仁徳皇統最後の帝を貶めその非道ぶりを強調することで、続く継体王朝の正当性を強調したものと考えられている。 これを見ても継体とそれ以前の王朝とは明らかに対立関係にあったと推測できる。また一説には、継体は近江出身の豪族で、北陸・東海の豪族と連合して自力で大王の地位を獲得し、天皇の系譜を継いだ、とも言う。



 


		継体天皇の時代には、朝鮮においても動乱の様相が濃かった。朝鮮半島内において諸国の勢力が増大して日本の勢力は相対的に低下
		していたのである。日本は百済と関係を保っていたが、百済は任那四県の割譲を日本に要求してくる。神功皇后が新羅征伐で勝ち取
		って応神天皇に与えられたそれらの土地を容易く与えてしまう事に対しては、相当な抵抗勢力があったものと思われるが、結局日本
		はその要求を受諾してしまう。しかし、決定した大伴金村は、512年、任那4県を百済に割譲したことで、物部尾輿らの弾劾を受け失
		脚した。

 


		また継体天皇21年には、筑紫の国造磐井が反乱を起こす。これについてもはたして反乱なのか、大和朝廷の理不尽な地方圧政なの
		かは意見の分かれるところである。これについては「遺跡・旧跡巡り」の「岩戸山古墳 −筑紫国造磐井の墓− 」をご覧いただきた
		いが、書記によれば、磐井は新羅と通じており、百済を助けようとした援軍を遮り、筑紫の御井(現福岡県三井郡)で官軍と戦い、
		大敗したとなっている。

 


		学会あげて継体天皇陵は今城塚古墳としているのに、宮内庁はかたくなに太田茶臼山古墳を継体天皇陵とし続けている。まぁ、今城塚
		古墳はその為陵墓参考地にも指定されておらず、高槻市はじめ学究の調査が可能になっているので、考古学ファンとしてはその方がい
		いような気もする。もしかしたら、ここは全国で唯一、天皇陵に調査が実施されているところかもしれないのだ。
		一番いいのは勿論、「三島藍野陵」にもちゃんとした学術調査を行った方がいいのはわかり切っている。考古学者を入れれば、いずれ
		が天皇陵かはっきりするし、継体天皇実在の信憑性も高いかどうかはっきりするはずだ。







近くにある、陪塚らしき小さな古墳


新池ハニワ工場跡を訪ねる。(上の埴輪をクリック)



		継体天皇陵、やっぱり別人の墓? 古すぎた埋葬の埴輪  平成14年(2002)11月22日 −Asahi.com−
 
 		宮内庁書陵部は22日、継体天皇陵に指定している大阪府茨木市の太田茶臼山古墳(全長226メートル)の墳丘部で、護岸工事に伴
		って進めている発掘調査現場を報道陣と研究者に公開した。6世紀前半に没した継体天皇の時代より約80年古い5世紀中ごろの埴輪
		(はにわ)が、埋葬された当時の並んだ状態で確認できた。継体天皇陵は「被葬者は別人」とするのが学界での定説だったが、本体の
		墳丘部で継体天皇の没年よりかなり古い埴輪が出たことで「別人説」を裏付ける有力な「物証」になった。 
		 継体天皇陵は86年にも護岸工事に伴い、周囲の濠(ほり)の外堤が研究者らに公開され、5世紀中ごろの埴輪の破片が確認された。
		今回は古墳の本体である墳丘が初めて部外者に公開された。円筒形や上部がラッパ状の埴輪など、86年に確認されたものと同時代の
		埴輪が多数出土しており、並んだ埴輪もあった。 
		 86年に堤から出土した埴輪は、形や刻まれた印などから大阪府高槻市の新池遺跡の窯で作られたものとわかった。この窯は科学的
		な年代測定で450年ごろのものと判明。継体天皇の没年は日本書紀では531年とされ、埴輪の年代と一致しないことが指摘され、
		被葬者は別人とする説が有力になっていた。 
		 考古学者の間では、継体天皇の墓は、同古墳から東へ1.5キロ離れた高槻市の今城塚古墳(全長190メートル)だという説が有
		力だ。同古墳は高槻市教委の調査で、6世紀前半の古墳であることが確実になっている。 
		 しかし、宮内庁は太田茶臼山古墳について「継体天皇の墓ではないという決定的な証拠はない」として、従来の見解を変えてこなか
		った。今後、陵墓の指定の再検討を求める声が高まりそうだ。 
		 明治以後、学問的な裏付けから陵墓が指定変更されたのは、1881年に天武・持統陵が見瀬丸山古墳(奈良県橿原市)から野口王
		墓(同県明日香村)に変更されたケースだけ。天武・持統陵が鎌倉時代に盗掘された時の内部の実況見分記録が前年に京都の寺で見つ
		かったためだ。 約240ある古代の陵墓古墳を非公開にしている宮内庁は、災害復旧工事や補修の際に一部を研究者らに限り公開する
		程度だ。太田茶臼山古墳の場合、来年度、墳丘が崩れないよう護岸工事をする予定で、その方法を検討するため、10月から墳丘のす
		そ部分の30カ所で発掘調査を実施。それに合わせて公開に踏み切った。 (14:41) 


継体天皇陵(手前)と今城塚古墳(奥)=大阪府茨木市で、本社ヘリから








		もしかしたら宮内庁は、今城塚古墳がほんとの継体天皇陵という事はもうとっくに知っていて、唯一掘れる大王墓として黙認している
		のではなかろうか? 有る程度の成果が出た時点で、「さぁもういいでしょう。十分掘ったでしょうから、後はこちらで管理します。」
		と、その時が来れば、陵墓変更に応じるのかもしれない。寛容な宮内庁であるうちに、掘って掘って掘りまくった方が賢明だろう。今
		こそ、「登呂遺跡」を掘ったときのような、大調査団を組織して、一気に「継体天皇陵」を発掘すべきではないか。高槻市だけでやっ
		てると、その内宮内庁が「さぁ、そろそろ。」と言い出さないとも限らない。今のうちだ! <2002.11.23 21:20PM>






継体天皇 樟葉宮・筒城宮伝承地




		【袁本杼命】繼體天皇

		品太王五世孫、袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮、治天下也。
		天皇、三娶尾君等祖、名若比賣、生御子、大郎子。次出雲郎女。【二柱】
		又娶尾張連等之祖、凡連之妹、目子郎女、生御子、廣國押建金日命。次建小廣國押楯命。【二柱】
		又娶意祁天皇之御子、手白髮命、【是大后也。】生御子、天國押波流岐廣庭命。【波流岐三字以音。一柱】
		又娶息長眞手王之女、麻組郎女、生御子、佐佐宜郎女。【一柱】
		又娶坂田大俣王之女、黒比賣、生御子、神前郎女。次田郎女。次馬來田郎女。【三柱】
		又娶茨田連小望之女、關比賣、生御子、茨田大郎女。次白坂活日子郎女。次野郎女、亦名長目比賣。【三柱】
		又娶三尾君加多夫之妹、倭比賣、生御子、大郎女。次丸高王。次耳(上)王。次赤比賣郎女。【四柱】
		又娶阿倍之波延比賣、生御子、若屋郎女。次都夫良郎女。次阿豆王。【三柱】
		此天皇之御子等、并十九王【男七。女十二】此之中天國押波流岐廣庭命者、治天下。
		次廣國押建金日命、治天下。
		次建小廣國押楯命、治天下。
		次佐佐宜王者、拜伊勢神宮也。
		此之御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。
		天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也。


		
		【袁本杼命(おほどのみこと)】繼體天皇

		品太(ほむだ)の王の五世の孫、袁本杼(をほど)の命、伊波禮(いはれ)の玉穗(たまほ)の宮に坐しまして天の下治しめしき。
		天皇 三尾の君等の祖、名は若比賣を娶りて生みし御子は、大の郎子。次に出雲の郎女【二柱】。
		また尾張の連(むらじ)等の祖、凡(おほし)の連の妹、目の子の郎女を娶りて、生みし御子は、廣國押建金日(ひろくにおした
		けかなひ)の命。次に建小廣國押楯(たけおひろくにおしたて)の命【二柱】。
		また意富祁(おほけ)の天皇の御子、手白髮の命【是は大后也】を娶りて生みし御子は、天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるき
		ひろにわ)の命【波(は)流(る)岐(き)の三字は音を以ちてす。一柱】。
		また息長(おきなが)の眞手(まて)の王の女、麻組(おくみ)の郎女を娶りて生みし御子は、佐佐宜(ささげ)の郎女【一柱】。
		また坂田の大股(おおまた)の王の女、K比賣を娶りて生みし御子は、~前(かむさき)の郎女。次に茨田(うまらた)の郎女。
		次に馬來田(うまぐた)の郎女【三柱】。
		また茨田の連、小望(おもち)の女(むすめ)、關比賣(せきひめ)を娶りて生みし御子は茨田の大郎女。次に白坂の活日(いく
		ひ)の郎女。次に野の郎女、またの名は長目比賣(ながめひめ)【三柱】。
		また三尾の君、加多夫(かたぶ)の妹、倭比賣(やまとひめ)を娶りて生みし御子は、大郎女。次に丸高(まろたか)の王。次に
		耳(みみ)の王。次に赤比賣の郎女【四柱】。
		また阿倍(あべ)の波延比賣を(はえひめ)娶りて生みし御子は、若屋(わかや)の郎女。次に都夫良(つぶら)の郎女。次に阿
		豆(あづ)の王【三柱】。
		此の天皇の御子等は并せて十九(とおあまりここのはしら)の王【男七はしら。女十二(とおあまりふた)はしら】。

		此の中に天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろにわ)の命は天の下治しめしき。次に廣國押建金日(ひろくにおしたけかな
		ひ)の命、天の下治しめしき。次に建小廣國押楯(たけおひろくにおしたて)の命、天の下治しめしき。次に佐佐宜(ささげ)の
		王は伊勢の~の宮を拜(おろが)みき。
		此の御世に竺紫(つくし)の君、石井(いわい)、天皇の命(みことのり)に從わずて、多(さわ)に禮(あや)无(な)し。
		故、物部(もののべ)の荒甲(あらかい)の大連(おおむらじ)・大伴(おおとも)の金村(かなむら)の連の二人を遣して、石
		井(いわい)を殺しき。
		天皇の御年は肆拾參歳(よそあまりみとせ)【丁未(ひのとひつじ)の年の四月(うづき)九日(ここのか)に崩(かむざ)りき】。
		御陵(みささぎ)は三嶋(みしま)の藍陵(あいのみささぎ)也。




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