平安時代、京都の貴族達は上皇・天皇も含めて熊野三山詣でと称し、しばしば、遠く和歌山の熊野大社本宮、那智大社、熊 野大社新宮へ参詣の旅を行った。何故に熊野の地が信仰の対象として選ばれたのか、現在でもその学問的な研究は続けられ ている。貴族達の参詣は多くが、従者、運搬人、護衛、女官等々を引き連れての一大行軍であった為その行列は延々と続き、 当時から「蟻の行列」と揶揄されていたようである。 一行は京都から船で淀川を下り、現在の大阪市天満橋あたりで上陸しここから熊野詣でを開始した。現在天満橋の京阪電車 駅の向かいには、その船着き場である「八軒家」の跡を示す標識と、その100mほど西に「熊野かいどう」を説明した石碑が 建っている。熊野詣では中世になっても大いに栄え、貴族達ばかりではなく一般庶民も参加して大賑わいとなった。このか っての熊野詣での路を、現在「熊野古道」と呼んでいる。
熊野古道は、大阪から熊野へ向かう紀伊路の他にも、伊勢から熊野へ入る伊勢路もあった。大阪からの路は、和歌山の田辺 で山中へ入り熊野本宮へまず向かう中辺路(なかへち)と、海岸沿いに新宮、那智大社から廻る大辺路(おおへち)とに分 かれる。紀伊路の経路は現在の主要幹線道路とほぼ一致している。九十九王子というのはこの道中にあって、旅の疲れを癒 したり遙かな熊野の地を拝して旅の安全を祈願したりする為設けられた神社の事である。 実際に九十九社あった訳ではなさそうだ。現在伝えられている王子跡は95である。(注:紀伊路と伊勢路は代表的な熊野古 道であって、勿論この他にも熊野へ至る路はいくつもある。京から南下して十津川村を通る路や、高野山を回ってくる高野 路などである。しかし大多数の人々は紀伊路と伊勢路を利用した。) 時代の変遷とともに、熊野古道は最盛期とは異なる経路になったり、幾つかのルートの移り変わりがあり、江戸時代に入る と九十九王子の多くは消滅していたようである。紀州藩は紀伊、伊勢にまたがる広大な領地を持つためこの熊野古道の整備 に注力し、室町以来の戦乱で荒廃した社寺の復旧など文化財の保全に取り組んだ。おかげで往時ほどではないにしても、江 戸時代になっても熊野詣での参詣客は続いた。おそらく江戸時代の人々も、熊野古道の途中で休憩しながら遠く平安朝の人 々の熊野詣でに思いをはせていたに違いない。 しかし明治時代の神仏分離令、神社合祀令などが原因で王子の衰退消滅が相次いだ。和歌山県では、現在熊野古道にかかる 各市町村と共同でこの古道を復活させ、新たな観光資源として活用すべく、目下一大キャンペーンを継続中である。今回の 南紀熊野体験博も、多くの旅行社のパンフレットを見ると熊野古道と抱き合わせである。
作家の神坂次郎氏は、熊野の歴史や信仰を訪ねるなら熊野古道を当時と同じように歩くしかないと書いているが、現在では、 かっての熊野古道を歩いて走破しようという人はまずいまい。車で近くまで来て少しだけ雰囲気に浸ってみる。 殆どの人がこのパターンである。全路線走破するような時間は、とても現代人には無い。我が歴史倶楽部とても例外ではな い。中辺路の高原熊野神社あたりでうろうろしたのが上下の写真である。
下の茶店(休憩所)からすぐの、山の中腹にタレントのイーデスハンソンさんの自宅がある。大きな屋敷が二軒建っていた。 1軒は彼女の旦那さんの両親の家だそうだ。ハンソンさんがここに居を構える事を決意した後広島から移ってきたとの事。 彼女も熊野に取り憑かれた一人なのだ。茶店のおばさんが「ほら、あそこだよあそこ」と指さして教えてくれた。世間話を しながらラムネを飲んだ。この休憩所からの中辺路町の風景もすばらしい。霧の高原町(「こうげん」と呼ばず「たかはら」 と呼ぶ。)の名の通り霧がすごい所のようだ。何枚か写真があったが幻想的だった。霧の時もう一度来たいものだ。
熊野大社本宮の参道脇を熊野古道は続いている。これを登り切ったところが本宮までの熊野古道の第一の終点である。 現代の道路に沿って計算すると、大阪からここまで約240kmである。平安人は何日かかってここへたどり着いたのだろう。
下の案内板にもあるように、元々熊野大社本宮は川州の中に建っていた。大洪水で本宮全体が流され、明治時代に現在の 場所に移転された。元の場所にはそれを示す案内があるだけで他には何もない。訪れた時、たまたま広場では歌会をやっ ていた。旧社地を取り囲んでいる林のすぐ裏は熊野川である。社地は川面からそんなに高くない。よく明治までもったも のだ。