Sound: Magical Mistery Tour

纒向遺跡を往く 2003.9.28




	ここは3回目だ。現地説明会と、山辺の道を歩いたとき、そして今日である。今回の例会は「纒向遺跡を往く。邪馬台国近
	畿説の検証」と銘打って、纒向遺跡・古墳群を廻ろうという企画だが、何人かここに来たことがないそうなので寄ることに
	した。三角縁神獣鏡が32面も出土した、天理市柳本町にある黒塚古墳。それまで近畿圏で同鏡の一番の出土地だった、京
	都の「椿井大塚山古墳」を抜いて、最大の出土となった。JR桜井線で11時頃に柳本駅到着。駅から古墳までは5,6分
	だが、なんとすぐ側に展示館が出来ていて、出土した鏡がずらりと並んでいた。



なぜかジイさんスタイルの河内さん。あ、すでにジイさんか。



前回は埋め戻していたが、今回は公園として保存するための整備中だった。3回来て、3回とも古墳はいじられている。








	黒塚古墳は、大和にあっては盗掘されていなかったまれな古墳のひとつである。それ故に、当時の埋葬状況の解明に大いに
	役立った。殆どの古墳は盗掘されており、鏡や剣は宝物として持ち去られている。黒塚も鎌倉時代あたりに、一度盗掘され
	かかったようであるが、地震で石室が壊れていて盗掘者が諦めたふしがあるらしい。
	竪穴式石室の構造は、まず墓穴の底に粘土で石室幅いっぱいのU字形棺床を造り、その上に直径1mを超す丸太をくりぬい
	た割り竹形木棺の下半分を据え、両脇に川原石を3.4段積んで側壁を築いている。木棺の中に遺体と副葬品を納め、蓋を
	して、板石で合掌屋根部分を完成させたと思われる。



石室内の中央に小さく見えるのが棺内に置かれた画文帯神獣鏡。
北側(上)や西側(左)にあるのが、棺外に置かれた三角縁神獣鏡。


	この古墳の特徴は、副葬されていた鏡の位置と位取りが明確に判明したことである。これまでの例では、鏡が必ずしも被葬
	者の遺体の何処から出土したのか判然としていなかった。この古墳では、三角縁神獣鏡32面が遺体の回りから出土し、画
	文帯神獣鏡1面だけが木棺内に置かれていたのだ。木棺内に一枚も入れられていない三角縁神獣鏡より、遺体と供に副葬さ
	れた画文帯神獣鏡のほうが大切に扱われている事は明らかである。画文帯神獣鏡一面は木棺内に立った状態で出土し、水銀
	朱の層がこの鏡を境に南側で濃くなっていることから、画文帯神獣鏡付近が遺体の頭部にあたるのではないかと考えられ、
	この鏡の埋納には特別な意味があったと推測できる。





 


	この古墳は、大和にあってはさほど大きな古墳ではないが、大和で最大という32面の三角縁神獣鏡が収められていた事を
	考えると、三角縁神獣鏡が国産か舶載かに関係なく、当時鏡を製造もしくは収集できる権力をもった勢力がこの地にあった
	と言うことであり、三輪山麓の古代様相の解明に、新たな手がかりを増やしたことは間違いない。





98年1月18日 黒塚古墳現地説明会





左は18〜21号鏡出土状況

平成10年1月10日の朝刊は、奈良県天理市柳本町にある黒塚古墳から32面もの三角縁神獣鏡が発見されたという橿原考古学研究所の発表記事を掲載した。この現地説明会が、1月17・18日の2日にわたり開催された。17日は快晴でなんと16,000人が訪れたが、18日は 朝から雨で午後には中止となった。それでも7,000人が訪れ、古代史熱・考古学フィーバーの熱気を感じさせた。このコーナーは、18日朝一番で行列に並んだ我々夫婦の説明会報告である。





以下は、説明会の熱狂を伝える奈良新聞

	出発
	友人と、明日は雨らしいから説明会は止めようで、と話したのは昨夜の事だった。じゃ、というんで明け方までパソコン触
	って寝たのが4:00amだったのに、朝6:00過ぎにWifeに起こされた。「雨降ってるから参加者少ないかもよ。」「今行け
	ばまだ少ないかもしれない。」などと持ちかけられ、よし、行こう!とその気になって7:00過ぎに大阪吹田の自宅を出発し
	た。高速もガラガラで1時間位でJR天理駅に到着。駐車場に車を入れJRで一駅の柳本へ。既に車内には古代史ファンと
	おぼしき人達がチラホラ。



	
	駅員も昨日のフィーバーに懲りたのか段取りが良かった。帰りの切符は買わせるは、古墳までの地図を渡して誘導するはで駅を
	あげての対応だった。


我々は比較的早く並んだので割と行列のまえの方だったが、それでも石室を見るまで1時間笠をさしたまま立ちつくした。





天理市も、この一大イベント(?)にずいぶん協力していた。ボランティアの人からお茶のサービスを受けたのには驚いた。





	
	石室の廻りは足場とビニールシートで覆われていた。「立ち止まらないで下さい!」という係員の声にせかされ、写真3枚
	とるのがやっとだった。1時間余り待って見たのは1分たらず。これではただ行ったというだけだ。



写真と模式図は上下逆



我々の後から降りてきた女の子が、いきなり友達に話すような親しさで「みましたぁ、30秒ですよぉ。あ〜ぁ。」と嘆いていた。




	私の後ろ堀の向こうに並んでいるのが行列。1時間前は我々もあそこに並んでいたのだ。あの行列が駅まで続いていた。我
	々の去った後、見学会は中止になったとラジオが言っていたので、おそらく駅周辺に並んでいた人達は石室を見る事は出来
	なかったに違いない。しばらくすれば、整理もされて又公開されるに違いないからその頃見に行ったほうが正解だろう。



	
	黒塚古墳発掘調査現地説明会資料

	大和古墳群調査委員会(奈良県教育委員会文化財保存課・奈良県立橿原考古学研究所・天理市教育委員会)

	T.はじめに

	 黒塚古墳は、天理市柳本町に所在する全長約130m、後円部径約72m、後円部高さ約11m、前方部高さ約6mの前方部を西側に
	向ける前方後円墳です。1961年に行われた発掘調査(第1次調査)によって、墳丘が中世から近世にかけての城郭に利用され
	ていることがわかりました。1989年に行われた発掘調査(第2次調査)によって、南側裾で盛り土の下に包含層のあることな
	どが確認されています。今回の調査は、主体部の究明と墳丘構築の把握を目的として、1997年8月11日より開始しました。

	U.調査の概要

	1.墳丘の調査

	後円部の北側斜面トレンチでは、中世以降に城郭に利用されたための改変が著しいため、本来の墳丘面は確認できませんで
	した。しかし、標高77m近くで古墳築造以前の旧表土を確認し、墳項までの約 11mの高さは全て盛り土であることがわかり
	ました。裾近くに葺石起源の転落石や埴輪が確認できなかったことから、もともと葺石・埴輪はなかった可能性が高くなり
	ました。

	2.埋葬主体部

	後円部墳項も城郭によって大きな改変を受けていましたが、後円部中央において墳丘主軸に直交する南北方向の竪穴式石室
	を検出することができました。盗掘坑 竪穴式石室の北側4分の3に重複するように、大規模な盗掘坑がありました。埋土中
	に含まれる瓦器・土師皿等から、盗掘の時期は鎌倉時代頃のことのようです。盗掘坑内からは丹塗りの底部穿孔壷形土器も
	出土しています。盗掘時期が城郭によって改変される以前であったため、墳頂に置かれていた土器が混在したと理解してい
	ます。
	竪穴式石室 平面形が南北長17m以上・東西推定長 15m以上の隅丸長方形の墓擴(石室を作るくぼみ)の中央に、墳丘長軸
	に直交した南北方向の竪穴式石室を検出しました。規模は内法の長さが約8.3m、北小口幅約1.3m、南小口幅約0.9m、高
	さは約1.7mあります。
	石室壁面の下方約0.4mは人頭大の河原石を用いており、その上位から板右を強く持ち送って積み上げています。明瞭な天
	丼石はなく、板石を重ねてふさぐ、いわゆる合掌式の石室です。板石の裏込めには人頭大以上の大きさの河原石を用いてお
	り、天井相当部分を中心に上面は粘土で被覆しています。石室壁面の下位にはベンガラが塗布されていました。河原石の採
	取地は近在の竜王山麓あるいは巻向川流域ですが、板石は約18km離れた二上山南麓の春日山および芝山(大阪府柏原市)
	から運ばれたものです。
	石室には、木棺をのせる台になっていた粘土棺床があります。木棺は消滅していましたが、粘土棺床の規模、形状から長さ
	約6.2m、直径1mを超える割竹形木棺であったことがわかります。

	3.主体部の遺物

	石室の壁体は早い段階から崩壊が進んでいたようです。床面付近には崩落した板石が水平に積み重なる部分や、壁を積み重
	ねた様子を留めたまま倒壊した部分があり、床面の上は板石によって覆われた状態でした。盗掘者は洗面を覆う大量の崩落
	石に阻まれ、空洞状況をとどめていた南小口部分にだけ侵入できたようです。その結果、石室南小口を除く場所には完全な
	形で副葬品が残されていました。
	石室内から出土した遺物は、木棺内に納められていた棺内遺物と、木棺と石室壁面との間にある隙間に納められた棺外遺物
	に大別できます。
	棺内遺物 棺北小口から南へ約2.5mの位置に、画文帯神獣鏡1面が鏡背(文様のある面)を南に向けて立った状態で出土
	し、その両脇には鉄製刀剣類が並行して置かれていました。画文帯神獣鏡の位置から南に約 2.8mの間は水銀朱が濃く、北
	に頭を向けた人体埋葬位置が復元できます。
	棺外遺物 32面の三角縁神獣鏡が石室の北半に集中して出土しました。その内訳は木棺の西側に16面、東側に15面、北小口
	側に1面です。いずれも鏡面(文様のない面)を木棺側に向けており、重複したり縦列に並ぶ部分もあります。一部の鏡に
	は鏡背が上を向くものもありますが、木棺が腐朽したり上位にあった鉄製品のために横転したようです。鏡に重複するよう
	に刀剣類や鉄鏃などの鉄製品が並べられています。盗掘を受けていないにもかかわらず、木棺の南半部の両側には遺物が少
	なく、副葬品が北側に偏っていることがわかります。
	盗掘を受けた石室の南小口付泣からは、甲冑頬の小札や工具頬、土師器が由土しており、撹乱されているとはいえ、どのよ
	うな品物が置かれていたかは知ることができます。

	皿.まとめ

	大和古墳群の古墳を規模で大別すると、黒塚古墳は第2のグループに入る全長 130mの前方後円墳です。埋葬施設は大規模な
	墓擴内に作られた特徴のある構造の竪穴式石室であり、石室の内法の長さは約8.3mと最大級の規模をもっています。
	石室床面は南小口付近の一部を除いて未盗掘であり、遺物の大半が原位置のまま残っていました。鏡をはじめ、鉄製品など
	の種類や数量が豊富で、副葬品の配置の仕方、取り扱いの違いがよくわかります。まるでタイムカプセルのようです。
	黒塚古墳の年代については、遺物を取りあげていないため、まだ結論は得ていませんが、古墳時代前期前半の古墳であり、
	これまで調査してきた中では中山大塚古墳よりは新しく、下池山古墳よりは古いと考えています。


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