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三雲南小路・井原鑓溝遺跡

2005.3.6(日曜)福岡県前原市





	<三雲・井原鑓溝遺跡群>

	前原市の東部、瑞梅寺川と川原川にはさまれた地域には弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が密集している。三雲・井
	原遺跡群である。この遺跡群には伊都国の王の墓とされる三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡、古墳時代前期の前方後円墳で
	ある端山古墳や築山古墳などの重要な遺跡が含まれる。ここは弥生時代から古墳時代にかけての伊都国の王都であった。
	この遺跡からも中国製銅鏡が数面出土している。しかし、発見されたのは今から約200年ほど前で、現物は四散して残
	っていない。発見の記録だけが現存する。したがって遺跡の位置も、一応の推測地はあるが不明である。

	糸島は、地理的には中国大陸・朝鮮半島とは「目と鼻の先」にある。糸島の先人たちが、比較的早い時期からこの新しい
	文化に接し、それを受容して来たことは容易に想像できる。糸島では大陸・朝鮮からの渡来人もしくは渡来系集団とかか
	わりをもった遺跡・遺構を多く見い出すことができるが、ドルメンもその一つである。ドルメンは、朝鮮半島に多く見ら
	れる古代墓制の一つで、重さ1〜2トンほどの巨石を、人の頭ほどの石で支え、その下に死者を葬るという構造の墓であ
	る。この特異な形式の墓は、わが国では縄文末期から弥生時代前期ごろのもので、北西部九州沿岸一帯に多く見られる。 

	伊都国が、歴史上特筆すべき存在となるのはなんと言っても弥生時代である。伊都国という名前の初現も魏志倭人伝の中
	であるし、帯方郡使や魏使が常駐していた都でもある。また奴国、邪馬台国と並んで、倭人伝にはっきり王がいると記載
	されている希有な例でもあり、見ていくような豊富な考古学的資料も、この地域が古代、並の存在ではなかった事を予感
	させる。邪馬台国や魏志倭人伝について語るとき、この伊都国を抜きにしては語れないのである。


三雲南小路遺跡から見た高祖山(上左)。





 










	三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)

	この遺跡は江戸時代の文政5年に発見された。発見当時の様子を記録した『柳園古器略考』(青柳種信著)には、甕棺の
	大きさは「深三尺餘、腹經二尺許」であり、高さが90cm以上、胴の直径が60cmほどもある巨大なもので、その巨大な甕棺
	が二つ、口を合わせて埋められていた(1号甕棺)と書かれている。中からは銅鏡35面、銅鉾2本、勾玉1個、管玉1
	個、ガラスの璧(へき)8枚、金銅製金具などが出土している。これらの出土品は殆どが現残していないが、わずかに銅
	鏡1面と銅剣1本が博多の聖福寺に伝えられており、国の重要文化財に指定されている。出土した甕棺からこの墓は弥生
	時代の中期後半(約2000年前)に造られたものと考えられる。

	最初の発見から150年後の昭和50年(1975)、福岡県教育委員会によって発掘調査が行われ、新たに2号甕棺が発見さ
	れた。2号甕棺も、高さ120cm、胴の直径が90cmの巨大な甕棺二つを口を合わせて埋めたもので、これも盗掘されていた。
	副葬品として銅鏡22面以上、碧玉製の勾玉1個、ガラス製の勾玉1個、ガラス製の管玉2個、ガラス製の垂飾1個など
	が出土している。また、1号甕棺の破片や副葬品の銅鏡の破片多数、ガラス製の璧も出土し、新たに金銅製の四葉座飾金
	具が出土した。銅鏡はすべて中国製で、1号棺、2号棺からの前漢鏡を合わせると60面近く出土している。
	この時の調査では、2基の甕棺のまわりをとり囲むと考えられる溝(周溝)の一部も発見されており、甕棺は墳丘の中に
	埋葬されたと考えられる。墳丘は東西32m×南北22mの長方形をしていたと推定され、弥生時代の墓としては巨大な
	ものである。墳丘内には他に墓が無いので、この巨大な墳丘は2基の甕棺の埋葬のために造られたものと考えられる。
	また、副葬品の内容から、ここは王と王妃の墓であろうとされている。三雲南小路遺跡の南端の所に井原鑓溝遺跡(推定
	地)があり、後漢鏡が20面くらい出土している。この遺跡は、末廬国の桜馬場遺跡(佐賀県唐津市)とはぼ同時代と見
	られている。そして、その後の時期の王墓とされるのが、平原遺跡である。方格規矩鏡、内行花文鏡の組み合わせから、
	後漢中期の組み合わせだろうとされ、それは邪馬台国の時代に相当する。伊都国の王墓は、三雲、井原、平塚と変遷して
	行くというのが定説だが、卑弥呼出現の1世紀終わりには、平塚が伊都国の王都だったという事になる。そして倭人伝に
	いう「世(々)王あり。」という記事とも合致する事になる。







 
伊都歴史資料館の甕棺(三雲南小路遺跡)

	三雲南小路遺跡の発掘に携わった柳田康雄・前九州歴史資料館副館長によると、直径27.3cmの大型鏡(重圏彩画鏡)は
	中国でも王侯クラスが保有するもので、金銅製四葉座飾金具やガラス璧は、皇帝が身分の高い臣下に葬具として下賜する
	ものだという。つまり紀元前後の段階で、伊都国王や奴国王が、前漢に入貢して銅鏡などの下賜を受ける冊封(さっぽう)
	体制に組み込まれていたことを意味する。これは『漢書』の「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て
	来たりて献見す」(地理志)、「東夷の王、大海を渡りて国珍を奉ず」(王莽伝)という記述に対応する。三雲南小路、
	須玖岡本の被葬者は、当時の倭の100余国の中でも頂点に立つ、倭国王というべき存在だったのかもしれない。

	資料館にある、この遺跡から見つかったかめ棺は大人がふたり入るほど大きなものである。王墓とすればはやはり特別に
	大きな甕棺に葬られたのだろう。中から出土した中国製銅鏡、勾玉や銅剣などの遺物を見ても、三雲南小路遺跡に並ぶも
	のは須玖岡本遺跡(春日市)以外にはないことから、王墓とみて差し支えなさそうだ。倭人伝には、(帯方)郡使の往来
	常に駐(とど)まる」と記録されているし、伊都国王は他の地域の王とは比べものにならないほど強大な権力を持ってい
	たと考えられる。現在、遺跡は埋め戻されているが、説明板が設置されており、出土品の一部は伊都歴史資料館に展示さ
	れている。 


銅鏡(重要文化財) 銅剣(重要文化財)

 
飾金具 ガラス璧


発掘調査風景(1号甕棺跡:右と2号甕棺:左)



なお、伊都歴史資料館は、2004年新しく新館がオープンし、
その展示内容もさらに充実した。その内容は博物館巡りにある。


伊都歴史資料館・新館




	井原鑓溝遺跡は、三雲南小路遺跡とは2,30mしか離れていない。もしかしたらこれは一つの遺跡なのかも知れない
	な。


	井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき) 

	江戸時代の天明年間(1781〜88)、筑前国怡土郡井原村の鑓溝(やりみぞ:現福岡県前原市井原)という所から銅鏡を多
	数副葬した甕棺が発見された。これが井原鑓溝遺跡である。このとき発見された出土品は現存しないが、図面が『柳園古
	器略考』(青柳種信著)に記録されている。これは主に文政5年(1822)に三雲村で発見された三雲南小路遺跡1号棺の
	調査報告書だが、種信は40年前に隣村で発見された井原鑓溝遺跡についても聞き取り調査を行い、農民が保管していた
	鏡片27、巴形(ともえがた)銅器2の拓本を残している。
	「怡土郡井原村に次市といふ農民あり。同村の内鑓溝といふ溝の中にて……溝岸を突ける時岸のうちより朱流れ出たり。
	あやしみ堀て見ければ一ツの壺あり、其内に古鏡数十あり、また鎧の板の如きものまた刀剣の類あり。」
	出土した銅鏡はすべて中国製である。拓本から復元される鏡=方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡=は18面で、拓
	本に残された鏡は、多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作で、墓の年代はこれにこの鏡が海を越え伊都国に定着す
	るまでの期間を加えたものとなる。それはおおむね1世紀後半〜2世紀初頭の間に収まると推定できる。また、出土した
	豪華な副葬品から伊都国王の墓と考えられ、三雲南小路遺跡(紀元前後)より数代を経た王墓ということになる。柳田康
	雄・前九州歴史資料館副館長は「井原鑓溝遺跡の副葬品からも、弥生後期に後漢から金印を下賜された、倭国王とみなさ
	れる人物は伊都国王をおいてほかにない」とみる。金印が出土した志賀島は博多湾口に位置し、奴国だけでなく、伊都国
	の東の玄関口でもあった。
	現在、遺跡の場所は不明だが、三雲南小路遺跡の南約100 mのあたりに大字井原字ヤリミゾという地名があり、今は一面
	に水田が広がっているが、その下あたりに井原鑓溝遺跡は眠っていると考えられる。前原市教委は大正時代の地籍図から
	字名の語源になったとみられる水路跡を割り出し、1994年から王墓の確認調査を続けている。福岡県教委が74年に
	三雲南小路遺跡1号棺を発見、『略考』の記述を150年ぶりに裏付け、同時に2号棺を新発見したような成果も期待で
	きる。
	前原市教委文化課の岡部裕俊さんは『略考』の〈壺〉という記述に注目する。「糸島地域では後期前半(1世紀)には甕
	棺墓に代わって木棺墓が盛行し、〈壺〉すなわち壺形の大型甕棺が再び見られるのは、後期中葉(2世紀前半)から。
	年代が後期中葉なら、帥升の墓である可能性が高い」。三雲・井原遺跡群の番上地区では、88平方メートルという狭い
	調査範囲(土器だまり)から、灰色で、泥質が特徴的な楽浪系の鉢や筒杯、器台約30点が出土した。武末純一・福岡大
	教授(考古学)は「楽浪系土器が特定個所で集中的に出土するのは国内でほかに例がなく、しかも番上地区では、弥生中
	期後半〜後期にかけて継続している」と注目。「三雲南小路王の出現を契機に、渡来した楽浪人が集団で居住していたこ
	とを示すもの」と指摘する。「三韓系土器が多く出土する奴国が朝鮮半島からの鉄資源入手と鉄器・鉄素材生産で栄えた
	とすれば、楽浪系土器が出土する伊都国は楽浪郡を介した前漢との外交、交易を独占することで栄えた。いわば伊都国は
	前漢と安全保障条約を結び、その後ろ盾により北部九州の国々の連合体の上に君臨したといえる」
	三雲南小路、井原鑓溝遺跡と続く伊都国王の系譜は、平原遺跡1号墓の被葬者に受け継がれる。

 
『柳園古器略考』(青柳種信著)と 井原鑓溝遺跡が眠る水田


	弥生後期の中国鏡出土 伊都国王墓確認へ手がかり 福岡 	
	中国の史書「魏志倭人伝」に記された伊都(いと)国があったとされる福岡県前原市の井原鑓溝(いわらやりみぞ)で、
	弥生時代後期(紀元1世紀ごろ)の中国鏡が見つかったことが、同市教委の調査でわかった。江戸時代に出土品の記録が
	残されていながら未発見の伊都国王墓「井原鑓溝遺跡」確認へ向けて重要な手がかりになるとみられる。 
	出土したのは「方格規矩(きく)四神鏡」1枚分で、約10片に割れているという。江戸時代の学者が記した「柳園古器
	略考」などによると、同じ型式の鏡21枚が出土したという。同市教委によると、出土地点は道路の拡幅工事現場で、鏡
	は水田の1メートルほど下の穴から出土。一緒に約170個のガラス玉も見つかった。周囲には16基の甕棺墓(かめか
	んぼ)や石棺墓も確認された。調査指導委員会の西谷正・九州大名誉教授は「王墓の所在地が絞り込めてきた」という。 
	倭人伝は伊都国に「世々王有り」と記しており、周辺では三雲南小路、平原両遺跡という豪華な副葬品を納めた王墓が見
	つかっている。しかし、時期的にそれらをつなぐ井原鑓溝遺跡の所在は不明で、同市教委では94年から調査を続けてき
	た。【朝日新聞 2005年02月18日(金) 】
 


2005.3.6(日曜)現在も、発掘調査は続けられている。写真の右手前を入っていったら三雲南小路遺跡である。





















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