梅雨があけた7月24日の土曜日、Wifeと鳥取県の淀江町へ「妻木晩田遺跡」の現地説明会に出かけた。朝 6:00に吹田 の自宅を出て豊中インターから(勿論吹田インターが一番近いのだが、少し高速代を浮かそうとした)中国自動車道 に入り、岡山の落合ICで米子道へ入る。米子からは山陰道を行くか国道9号線を行くかだが、どっちにしてもすぐで ある。9時過ぎには淀江町に着いた。説明会は午後1時からだったので、「伯耆古代の丘」の向山古墳を見たり、淀 江町歴史民俗資料館を見たりして10時半頃、早い昼食を日本名水 100選の「天の真名井」側の料理屋さん「真名井」 で取った。冷えたとろろそばがうまかった。勿論「天の真名井」の水も最高にうまかった。 この遺跡はスキー場で有名な大山(だいせん)の麓にあり大山町と淀江町の両町にまたがっている。発掘調査は平成 7年から10年に渡って行われ、部分的な発掘調査の結果からだけでも我が国最大の弥生遺跡、いや縄文・弥生時代を 通じても最大の規模を持った遺跡である事が判明した。 ところが本来の土地の所有者である京阪電鉄と大山町は、当初の計画通りここをゴルフ場にする方針を変えなかった ため、学会、鳥取県、文化庁等々を巻き込んだ一大「保存論争」に発展してしまった。文化庁はいち早く「国の指定 遺跡」にする方針を発表し、鳥取県は「遺跡とゴルフ場並存」案を提案し、学会は「全面保存」をマスコミを通じて 訴え続けるという泥沼状態となった。 京阪電鉄は「並存などできない。保存なら全面土地を買い上げて欲しい。」と迫り、淀江町は先年発見されていた 「上淀廃寺跡」や同町周辺の古墳群と合わせて一大「文化ゾーン」の建設に意欲を示し、鳥取県は対応を迫られてい た。こういう状況の中、今年4月8日、今期限りで引退を表明していた西尾鳥取県知事は、遺跡の全面保存を表明した。 ここに至って1年近くに渡った「保存論争」は幕を閉じた。しかし買い上げ価格の交渉や、保存形態等をめぐっての 行政間の調整などまだまだ問題は山積みである。
淀江町大山町は共同で「遺跡の現地説明会」を月1回の割で開催していたが、「保存論争」のさなかそれも中断して いた。全面保存が決定し再会された説明会が今回であるが、後8月28日にもう1回開催された後終了となる。9月に入 ると現在の発掘現場は全面的に埋め戻される事になっているからだ。説明会には今回から鳥取県も加わり、今までガ リ版刷りだった資料も今回は写真入りの印刷物が加わった。デジカメの写真以外の資料(発掘時の写真等)はすべて これらの説明会資料から転載したものである。又、青字の解説も基本的にこの資料を原典としている。 妻木晩田遺跡は1世紀から3世紀(弥生時代後期)にかけてのムラの跡(高地性集落跡)である。下の資料でもわか るように、今までの発掘調査で竪穴住居 384軒、掘建柱建物(平屋)502軒の合計886軒の建物跡が発見され、全国最 大の弥生集落が出現した。この遺跡は下の概要図にもあるとおり、 @、仙谷墳墓群(せんたにふんぼぐん) A、妻木新山(むきにいやま)地区 B、洞ノ原(どうのはら)地区 C、妻木山(むきやま)地区 D、松尾頭(まつおがしら)地区 E、松尾城(まつおじょう)地区 F、小真石清水(こまいししみず)地区 という7つの地区からなり、海抜 100mを越える丘陵の上に築かれている。殆どの竪穴住居がすぐ隣に掘建柱建物を 備えており、これらは一つの家族が夏冬併用で用いていた可能性を示唆しているし、一般住居の他にムラ長の住居・ 祭殿と思われる建物跡や墓地、環濠跡もあり、この遺跡は弥生社会の有り様を究明する新しい多くの資料を出土して いる。洞ノ原地区では、山陰地方によく見られる「四隅突出型墳丘墓」の最も古い型が、国内で最も多く発見された。 大きさから子供用と見られるものもあり、ムラ長(おさ)たちの墓と推定される。ムラは弥生時代中期の終わり頃か ら営まれ、後期後半に最盛期を迎える。古墳時代前期になると、人々はこの丘陵を下り平野で暮らしはじめる。 「魏志」によれば、この遺跡の最盛期の頃は、日本は 100余のクニに分かれ「大いに乱れ」ていた時代である。各地 に高地性集落が出来、西日本を中心に内乱を繰り返していたと推測される。妻木晩田遺跡は、その規模から見て1つ のクニの中心ではないかと考えられるが、現在の所クニの中心地は九州北部に数カ所確認されているのみで、中国・ 山陰地方ではまだ確認されていない。もしこの遺跡がそれらのクニの一つであったとしたら、古代史はまたまた大き く塗り替えられる事になるだろう。 遺跡はまだ発掘途上である。墳墓などもまだ内部は開けられていない。今回の説明会対象となったのは下左図の黄色 の部分、洞ノ原地区と妻木山地区であるが、洞ノ原地区の「四隅突出型墳丘墓」などは、「まだこの下に墳墓が埋ま っています。」という係員の話にみんな驚いていた。
竪穴住居は夏は暑くてたまらんからすぐ横に夏用として木造の掘建柱建物を建てたのではないか、という説がある という係員の話は今まで聴いたことがなかったのでおもしろかった。他の遺跡では殆どそんな例はない。倉庫跡や 祭壇跡と思われる建物の数を差し引くと竪穴住居と掘建柱建物の数がほぼ一致するのだそうだ。しかも大部分がす ぐ隣に建ててあると言う。この説は検討に値するかもしれない。
説明会は老若男女 150人位だったろうか。神戸から来たおばさんや北九州から来たおじさんとも話をした。車のナ ンバーから見ると遠く岐阜や大阪もあった。発掘の専門家とか言っていたからどっかの学生だろうか、係員にずい ぶん専門的な質問をしていた。あんなのも説明会にくるんなら係員もたまらんのう、とWifeと話した。
この地区は墳墓群である。山陰地方特有の「四隅突出型墳丘墓」の原型であろうと見られる。説明に備えてシート をはずす係員。四隅の石は大分紛失している。
下左のひもで囲んだ部分に墓があると推定されているが、まだ発掘されていない。上部の「四隅突出型墳丘墓」も そうである。みなまだ下に石棺か木棺かが眠っているのだ。発掘は保存問題で中断されたままになっていたが、こ れから本格化するのだろう。しかし9月には、これまで発掘したすべての遺跡を一端埋め戻すそうである。 下右は小型の「四隅突出型墳丘墓」。大きさからムラ長の一族の子供の墓ではないかと言う。小さな墳丘墓は10基 以上確認されている。この地域には24の墳墓が発掘されているが、出土した土器の編年から墳墓の年代がわかる。 今日見ているのは4代目の長ではないかと推定される。現在までの所、遺跡全体から3000点もの土器が出土してい るそうである。鉄器も200点程出土しているが殆どが工具だと言う。
Wifeの後ろに小山のように高く盛り上がっているのは古墳時代になってからの墳墓。そのずっと後方に見えている のも、この遺跡では初期の墳墓であるが、ここでこの遺跡は終わっている。丘が終わる先端に環濠が掘られていた。 背後には日本海を臨む。
他地区の遺跡はそれぞれ谷を隔てており、とても全部を見に行く気にはなれなかった。それにこの遺跡全体はまだ 京阪電鉄の所有だそうで、勝手には入れないのである。この説明会も京阪の協力で行われているのだ。時間になれ ば入り口の鉄の扉を閉めるそうだから、説明会以外では見学できないのかもしれない。
妻木晩田遺跡では、発掘調査によって縄文時代〜室町時代の遺跡が見つかったが、その中で特に注目されるのは約 1900年〜1700年前の弥生時代の大規模な集落跡が見つかった事である。今回の発掘調査から考えられる範囲だけで も156haの広さがあり、吉野ヶ里遺跡の約1.3倍にあたる。周辺地域の弥生時代の遺跡等と比較すると、桁違いの規 模を持った遺跡であると言える。我が国最大の古代遺跡を、今後いかに整備して活用していくかは単に鳥取県だけ の問題ではなく、現代に生きる我々全員の問題でもある。
行きも帰りも大山の頂上は雲を被っていた。学生の頃一度スキー合宿で来て、1週間ほどこの麓にCampした事があ るが、それにしても大山はデカい。蒜山高原あたりからズーツと見えている。伯耆富士と言われるだけあってほん とに富士山のように堂々としている。周りの山を従えていると言った感じだ。もし大陸や朝鮮半島からここへ直接 渡来してきたとしたら、この山は海からも格好の目印になったことだろう。