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西新町遺跡

2005.3.6(日)





2005.3.5 ANA機から見た福岡の市街


	遺跡名  西新町遺跡第12次 (ニシジンマチ イセキ)
	所在地  福岡県福岡市早良区西新6-1-10 
	調査原因  学校改築 
	調査開始日  1998-04-22 
	調査終了日  1998-04-22 
	調査面積  5214 
	報告書  福岡県福岡市早良区西新所在西新町遺跡第12次調査報告. -- 1, 2. -- 福岡県教育委員会, 2000.3-. -- 
		(福岡県文化財調査報告書 / 福岡県教育委員会 [編] ; 第154,157集 . 県立修猷館高校改築事業関係埋蔵
		 文化財調査報告 ; 1,2 . 西新町遺跡 ; 2,3). 
	種別  集落 
	主な時代  古墳 
	主な遺構  竪穴住居跡 
	主な遺物  土師器、鉄器、石器 
	特記事項  鉄ノミ 1点 古墳時代前期 西新町四次 
		  板状鉄製品 1点 古墳時代前期 西新町五次 
		  ガラス容器片 1点 弥生時代中期 西新町八次 
		  土製ガラス勾玉・小玉鋳型 3点 古墳時代前期 西新町一二次 
		  五銖銭 1点 古墳時代前期 西新町一二次 
		  朝鮮半島系の瓦質土器等 12点 古墳時代前期 西新町五・十二次






	中国の歴史書である『隋書』百済伝は、百済の王都で高句麗・新羅・倭や中国人系統など、国際色豊かな人々が活
	躍していたことを記している。古代東アジアの文化は多彩な国際交流から生まれた。古代日本でも、中国・朝鮮半
	島からの渡来人がさまざまな情報をもたらし、政治や文化の形成に大きな役割をはたした。

	<西新町遺跡>

	福岡市西新町(にしじんまち)遺跡は、博多湾に臨む砂丘上の遺跡である。これまでの数十回にわたる発掘調査で、
	渡来人の住居や頻繁な往来を物語る多量の朝鮮半島の土器が見つかり、3・4世紀最大の国際交易港として栄えて
	いたことが明らかになった。西新町の集落を通じて、中国や朝鮮半島からさまざまな先端情報が日本にもたらされ
	たのである。西新町遺跡は当時最大の国際交易港であった。
	西新町遺跡は、特に弥生時代の発掘データで注目すべきものが多く、昭和51年(1976)、現在の修猷館高校の辺
	りから弥生時代後期のものと思われる「西新式土器」が出土。これは、卑弥呼の時代の土器としてよく知られてい
	る。またその頃の「竪穴住居」が、平成4(1992)年、西南学院高等学校南側にある吉村病院新築の際に見つかっ
	た。この住居には作り付けの竈があったということで、これはかなり珍しく、当時はもちろん現在でも日本最古の
	発掘データ。しかし、残念なことに写真しか残っていないので、まさに幻の遺跡。また藤崎では「藤崎タイプ」と
	いわれる、日本に稲作が伝わった頃の代表的な土器が出土した。ここで紹介した土器などの一部は、現在福岡市博
	物館や福岡市埋蔵文化財センターなどに所蔵されている。

 


	今はもう埋め戻されて上に建物がたっていることは知っていたが、この有名な遺跡をいちど見たかった。勿論、西
	新町遺跡と言った場合、この学校だけではなく、この近辺や隣の藤崎町にも遺跡はあるのだが、はっきりここと分
	かっているのはここだけなので、とりあえず見ておこうと学校を訪ねた。日直バイトらしい高校生が一人事務室に
	いたが、写真を撮らせて欲しいと頼むと快く許可してくれて、発掘現場を教えてくれた。受け答えも実にハキハキ
	堂々としていて、うち(会社)の若いのよりよっぽどしっかりしてそうに見えた。さすがはもと福岡藩藩校の修猷
	館だと感心した。


車のむこうの建物の下が発掘された。


	かまど付きの渡米人住居跡 福岡の遺跡から出土(日本経済新聞・98年10月14日付夕刊〈東京版〉)
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	福岡市早良区の修猷館高校の校舎建て替えに伴う福岡県教育委員会の十四日までの発掘調査で、同校を中心とする
	「西新町遺跡」の古墳時代前期の集落跡(三世紀後半‐四世紀前半)から、朝鮮半島からの渡米人が住んでいたと
	みられる、かまど付きの住居跡や朝鮮半島製の土器が出土した。

古墳時代の遺跡
	九州大の西谷正教授(考古学)は「かまどは朝鮮半島では一般的だったが、日本にはこの時期に渡来人によっても
	たらされ始めた。日本でほとんど製造されていない鉄の板、鉄鍵(てってい)が出土していることからも、西新町
	遺跡は渡来人の村だった可能性が高い」と話している。
	県教委によると、一帯は白い砂に覆われており、五月からの校舎西半分の北側約二千平方bの調査で、竪穴式住居
	跡約四十基のうち約五基で、幅約六十aのかまどが確認された。網や釣り糸用の五‐十aの石製の重りや、深さ十
	‐十五a、直径約十aの土器製のたこつぼも約百個出土している。




	西新町遺跡たより 平成13年度第2号 2001/12/14 福岡県教育庁文化財保護課西新町遺跡発掘隊より
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	○現在の調査状況
	 現在、西新町遺跡で古墳時代に人々が生活した痕跡を調査しています。当時の人々が住んでいたと考えられる住居
	の跡などが見つかっています。現在遺跡が見えている部分の調査がもうすぐ終わろうとしています。今後埋め戻しを
	して、次は南側の今大きな土の山がある場所の下を調査します。
	○古墳時代の住居
	 古墳時代の人々が住んでいたと考えられる住居の跡が、20軒近く見つかっています。今の人々が生活しているよう
	な家は、柱を組み合わせて床が地表より高くなるようなつくりをしています。しかし、当時にはそのような住居は少
	なく、西新町遺跡で見つかっている住居もそれとは異なっています。西新町遺跡の住居をはじめ、古墳時代の住居の
	多くは「竪穴住居」と言います。竪穴住居は地面に大きな穴を掘って、底を床として利用します。また、発掘調査に
	よって姿を現した竪穴住居はただの穴にしか見えませんが、柱を組み合わせた上に屋根をつくったり床には何か敷い
	たりと様々な生活のための工夫があったと想換できます。
	 住居の跡を掘っていくとたくさんの土器が出てきます。住居の生活で使っていたものが、そのまま置き忘れられて
	見つかることがあります。しかし、ほとんどの土器は住居が使われなくなった後に窪みとして残っている住居にうち
	捨てたような状態で見つかります。壊れていらなくなったものを捨てたとも考えられますが、きれいで完全な状態で
	見つかるものも多く含まれるため、おまじないのようなことを行った可能性もあります。
	○カマドと炉
	 住居で生活していた人々が、食事のための煮炊きをしたり暖をとったりするための「炉」や「カマド」が西新町遺
	跡の住居から見つかっています。「炉」は住居の床を浅く掘りくぽめた穴で火を焚いたものです。「カマド」は粘土
	でドーム状につくったもので、より高温を発生させることができます。炉は、縄文時代など西新町遺跡が栄えたはる
	か以前からあります。一方、カマドは朝鮮半島の影響でこの西新町遺跡において日本でいち早く出現したものです。
	つまり、西新町遺跡のカマドは日本最古のカマドと言えるかもしれません。日本各地でカマドが使われるようになる
	のは、200年もあとのことです。
	○ガラス小玉発見!!
	 住居の一つから100を超えるブルーでビ一ズ状のガラス製品が見つかりました。(ガラス小玉と言います。)これは、
	穴に紐を通してネックレスとして使ったアクセサリーです。当時のガラス製品は非常に貴重なもので、このようにま
	とまっての出土は重要な発見と言えるでしよう。
	 ガラス小玉は、高温で溶かしたガラスをビ一スの形の穴が空いた土製の板(鋳型と言います。)に流し込み、冷え
	て固まったものを取り出してつくります。鋳型は3年前の新校舎の下の調査や昨年の調査で見つかっています。したが
	って、西新町遺跡で作った可能性が高いです。なぜ住居に残っていたのか詳しいことは謎です。置き忘れてしまった、
	いらなくなって捨ててしまった、何かおまじないのようなことが行われた、など様々な可能性が考えられます。
	※調査が終わった遺跡は、埋められてその後破壊されてしまう場合がほとんどで、今回もそうなるため今の発振現場
	を見ることは二度とできません。12月18日(火)が見学できる最後の日となりますので、由由に見学に来てください。



上、左が修猷館高校。右側一帯が西南学院大学の敷地である。
このあたりもかって発掘されたはずだ。下は修猷館高校の東側門。

 

 



<朝鮮半島の土器>
中南部の土器である。住居から、これらの土器と地元の土器が混じって発見されている。福岡県教育委員会所蔵。




	近畿地方でも、弥生時代の朝鮮半島の土器は発見されるがごくわずかで、渡来人の居住を物語る土器ではなく、容器
	として運ばれてきたものであろう。しかし、古墳の造り方や副葬品の種類や扱い方には弥生の伝統で理解できないも
	のも数多く、ここに渡来人や渡来系情報の存在が読みとれる。弥生時代に北九州へ渡来してきた人々が、やがて近畿
	地方へも移っていって、古墳を築くのである。近畿地方で渡来人が急増するのは、古墳時代中期の4世紀末から5世
	紀初め頃である。各地の遺跡からは、各種の朝鮮半島系土器がまとまって見つかり、かなりの密度で渡来人が居住し
	始めたことがうかがえる。このことは、それまでの渡来人が王権直属の知識人や一部の工人に限定されていた状況か
	らみれば、大きな変化と言える。この北九州から近畿への大移動が、やがて神武東征に象徴される、「西からの文化
	・技術・武装集団の伝播、移動」として人々の記憶に残った可能性は大である。

	西新町遺跡が栄えている頃、福岡市博多遺跡群には、弥生時代には見られなかった高温操業の鍛冶技術が登場する。
	弥生時代の鍛冶は、鉄の板を鏨(たがね)で切って製品を作る程度の技術だったが、博多の高温操業の鍛冶技術によ
	り、鉄板を重ねて厚手の丈夫な鉄器を作ることが初めて可能になった。日本の鉄器製作技術の上で、画期的な出来事
	であった。奈良県纒向遺跡には、博多で見られた高温操業の鍛冶工房がある。驚くことに、この先端的技術はまたた
	く間に南関東にも伝わる。鉄器の需要がいかに強かったかを物語る。




	福岡市西新町遺跡・博多遺跡群、志摩町新町貝塚などでは、両耳壷や蓋受付きの直口壷、鋸歯文が施文された壷など、
	3〜4世紀代に錦江流域から栄山江流域にかけて分布する土器の出土が知られており、少なくともこのころから、百
	済の地方勢力あるいは馬韓の残存勢力と、北部九州の勢力との間に交流があったことがわかる。栄山江流域に北部九
	州系との関係が議論されている石室が出現することも、このような地域間交流の存在を想定すると理解できる。





朝鮮半島に類例のあるガラス小玉の鋳型(下左)福岡県教育委員会所蔵。









このテニスコートの下も発掘された。


	西新町遺跡たより 平成13年度第1号 2001/11/08 福岡県教育庁文化財保護課西新町遺跡発掘隊より
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	○今回の調査の目的
	 西新町遺跡での発掘調査は、これまで福岡県教育委員会と福岡市教育委員会によって実施されてきました.今回
	の調査で14回目を数えます。そのうち修猷館高校内での調査は計4回です。今回は前のテニスコート周辺を調査し
	ており、新しく体育館が建設されます。その建設にともなってその地下の遺跡が破壊されるため、遺跡からどのよ
	うなものが出土し、どういった人間の活動の痕跡があったかという情報を記録するために調査を行っています。        
	○西新町遺跡とは?
	 現在では西新の北側には広い埋立地が広がっていますが、西新町遺跡でかつての人々が生活していた頃には非常に
	海岸に近かったと想像できます。砂浜のような白い砂地上に位置しているのが特徴で、主に弥生時代・古墳時代・
	江戸時代の人々が活動した痕跡が残っています。弥生時代には集落や墓である甕棺が存在していました。弥生時代
	の終わり頃や古墳時代のはじめ頃になると集落は拡大していきます。この頃の西新町遺跡は、考古学の世界では非
	常に有名です。というのは、考古学では土器の特徴をもとに時代を設定していますがその時期の北部九州を代表す
	る土器が出土する遺跡なのです。また、江戸時代では、付近で高取焼が生産されており、失敗した焼き物や生産に
	使った窯道具なども出土しています。以上のような、西新町遺跡の特徴については、次回以降詳しくお伝えしてい
	きたいと思います。
	○現在の発掘状況
	 これまでの校内の調査では、古墳時代の初め頃や江戸時代の生活の痕跡が見つかりましたが、現在調査している
	場所も同じような状況となっています。テニスコート周辺を北側と南側に分けて、さらに時代別に調査を行います。
	したがって、北側の江戸時代、北側の古墳時代、南側の江戸時代、南側の古墳時代という四段楷で網査を進めてい
	きますが、現在その北側の江戸時代の部分が終了しました。江戸時代に使われた器の破片や当時掘られた穴や溝な
	どが見つかっています。第二段階に入り、古墳時代の人が生活していたと考えられる豪のあとを掘り始めていまし
	て、たくさんの土器が顔を覗かせています.テニスコートの表面から調査している場所の地表面まで1〜1.5mほど
	掘り下げており、標高3mよりやや高いくらいです。
	○現在見つかっている主要なもの
	・溝
	 何本かの溝が見つかっていますが、一番南端の溝から南側には同じ時期の遺構がほとんどありません。かつての
	西新の町を区画していた溝と思われます。
	・石列
	 非常に新しい時代のもので、昔の校舎の基礎の一部をうち捨てたものかもしれません。3年前や昨年の調査では、
	昔の枚舎の基礎がはっきり見つかっていて、またインク瓶や硯などがたくさん出土しました。今回はそういったか
	つての学枚生活の痕跡は非常にわずかです。昔の学校の中心から外れていたのでしょうか?
	・石組          
	 土を掘ってその中に多くの石をつめこんだ穴が3箇所で見つかっています。建物の基礎であったと考えられます。
	○おわりに
	 3年前や昨年の調査では、非常に多くの遺物・遺構がみつかった中で、朝鮮半島から遠く海を渡ってきた土器等の
	物・技術・文化を示すものがあり大きな成果となりました。発掘調査によって得られた物や情報は整理されて、研
	究や教育や様々な文化活動の場に活用されていきます。今回の調査も、有意義なものとなるようにしていきたいと
	思います。しばらくの間、こ迷惑をおかけすることになると思いますが、よろしくお願いします。




	福岡市中央区西新町遺跡で発見された甕棺。この甕棺は2.7×1.4m、深さ約1mの穴に、高さ118センチ、口径79
	センチの大きな甕を横にして置き、その中に推定身長143センチの成年女性を脚を折り曲げて上向きに安置し、さ
	らに高さ39センチ、口径70センチの鉢を口を合わせて蓋とし、継ぎ目を粘土で目張りしてから土で埋めていた。
	甕棺は、大形の甕の中に大人の遺体をそのまま入れる土器の棺である。しかも甕棺は、北九州を中心とする狭い範
	囲で採用された埋葬墓であった。佐賀県吉野ケ里遺跡では二千基をこす甕棺が発見されている。大部分はこの甕棺
	同様に何も副葬品は入っていないが、中には高い盛り土の墳丘墓の下から発見された甕棺のように、甕の内側を水
	銀朱で赤く塗り、握り部が十字の銅剣と青いガラス製の管王(くだたま)という豪華な副葬品をもった、王を葬っ
	たのかともいわれている例もある。このように西暦紀元前一世紀の九州では同じ甕棺を用いながらも、何も副葬品
	を持たないものから,中国系や朝鮮系の青銅器(鏡・武器)や玉類などをもつものまで、内容に差がある。これは
	貧富の差もしくは階級の差をあらわしていると考えられている。差はあるものの、甕棺を用いる点では同じという
	のが注目される。大きな甕なので、一気に形をつくることは不可能て、乾燥させながら粘土を横方向に継ぎ足して
	一周させ、これを何回か繰り返して積み上げている。重さは相当なもので、男性四人がかりで何とか動かせるとい
	うしろもので、遠くに運ぶのは不向きである。甕棺を焼いた場所の一つが今年佐賀県で発見された。野焼きではな
	く、皿状に掘った窪みに口を下にして甕を置き、周りを燃料でおおい、さらに粘土の壁でおおうという一種の窯で
	あった。




	福岡市藤崎(ふじさき)遺跡は西新町遺跡の墓地で、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)群が営まれている。方形
	周溝墓は北九州においては特別な墓ではないが、これまでに2面の三角縁神獣鏡が見つかっている。三角縁神獣鏡は
	大和王権が政治的関係を結んだ証として各地に配ったとされる鏡である。4世紀の終わり頃には、大和の鏡が北九州
	へももたらされていたのだろう。

三角縁神獣鏡(福岡市藤崎遺跡)


	西新町遺跡たより 平成13年度第3号 2002/1/25  福岡県教育庁文化財保護課西新町遺跡発掘隊より
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	○はじめに
	昨年のうちに北側の発掘対象範囲の調査が終了しました。前回までの西新町遺跡たよりでもお知らせしましたように、
	ガラス小玉やカマドをはじめ様々な発見がありました。年が変わって今度は昨年の南側を調査しています。
	 現在「遺構検出」という作業をしています。「遺構検出」とは、昔の生活していた地表面のあたりまで重機で掘り
	下げたあと、さらにその表面を丁寧にきれいにしていく作業です。そのようにすると、まわりの白い砂とは違う土が
	集中している部分が見つかります。それは、かつて掘られた穴や竪穴住居が使われなくなって埋められた時の土です。
	したがって、その色の異なる土を取り除いていくと竪穴住居が使われた当時の形が見えてきます。そして、現在の調
	査範囲でも竪穴住居をはじめ様々な生活の痕跡が残されていることがわかってきました。今後、調査が進むにつれて
	たくさんの土器が出土し、かつての人々の活動の痕跡が徐々に姿を現してきます。
	○西新町遺跡の甕棺墓
	 今回は西新町遺跡のかつての調査で見つかっている「甕棺墓」についてお知らせします。
	「甕棺墓」は北部九州の弥生時代に特徴的なお墓で、大きな土器に亡くなった人を安置し、それを地中へ埋葬したも
	のです。西新町遺跡では、修猷館高校の南側の国道202号線の地下やそのすぐ南側の調査の際に甕棺墓が見つかってい
	ます。また、その位置から推測すると、現在の調査範囲のすぐ西側のグランドの下にも甕棺墓が存在している可能性
	があります。
	 時には甕棺墓の中に人骨が残っている場合があります。西新町遺跡で見られる砂浜のような場所は、特に人骨が腐
	ってしまわず残りやすい環境と言えます。そのため、かつての西新の調査でも数多くの人骨が見つかりました。その
	中で、非常に変わった埋葬例があります。それは左の図に見られるように、頭部と胴部を別々の土器に入れて葬った
	ものです。
	 この埋葬方法について様々な推測がされています。その一つは、このお墓から見つかった人物は戦いの犠牲者とい
	う考えです。弥生時代には鉄や青銅、時には石で作られた様々な武器が出現しています。またさらに、それらの武器
	の切先が突き刺さっている骨や傷が残っている骨が見つかる場合もあります。したがって、弥生時代には争い事があ
	ったのは確かなようです。そのような状況をもとに、戦国時代のような敵の首をとる風習があり、その被害者が一旦
	葬られた後に味方が首を取り返してお墓に返したと想像しているのです。
	 もう一つの考えは、死者に対するおまじないというものです。昔の人々は、怨念をもった死者が蘇って周囲に災い
	をもたらすと信じていたようです。そのため、頭部を切り離して死者が復活するのを防ごうとしたと推測しているの
	です。このような謎をはっきりと解き明かすような証拠は、まだ見つかっていません。
	いずれにせよ、弥生時代の人々の間には現代の私たちから非常にかけ離れた風習があったことが窺えます。





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