後10数人残っている天皇陵巡りに、奈良の朝倉へ行った。舒明天皇、崇峻天皇である。帰りに田原の光仁天皇陵も見たの だが、実はここにはもう一つ見たいところがあった。この「太安万侶墓」である。古事記編纂者として名高い太安万侶の墓 は、光仁天皇陵のすぐ近くにあるのだ。昭和54年1月18日に発見された太安万侶の墓は、それまで非実在説もあった太 安万侶が実際に生存した人物であった事を証明したし、古記録の信憑性を一層高める事にもなった。墓の底に木炭が敷き詰 められ その上に墓誌の銅板が置いてあったので、太安万侶と限定できたのである。屍は火葬され、その後 改葬されていた。 今日は行かなかったが、西方の森の中には太安万侶を祭神とする、延喜式神名帳に見える「小杜神社」というのがあるよう だ。 正五位上勲五等・太朝臣安萬呂(おおあそみやすまろ:?〜723) 「古事記」序文によれば、古来から伝わる「帝紀」や「本辞」の乱れや誤りを憂慮した天武天皇が、当時28歳の舎人稗田 阿礼(ひえだのあれ)に命じて「帝皇日継」「先代旧辞」等を誦習させ、新たに国史書を作ろうとしたが完成しなかった。 元明天皇の御世に、太安万侶に勅詔がくだり、稗田阿礼が誦した「勅語の旧辞」を安万侶が筆録し、完成したものを和銅5 年(712)正月28日に上進した、となっている。
この近くへ来ると、チラホラしていた雪がいきなり吹雪になりほんの5,6分で廻りをうっすらと白く覆ってしまった。今 季初めて見る雪だ。道の脇に車を止めて、茶畑の中を太安万侶の墓へ登っていく。急な斜面で、ぶくぶく太った我が身が恨 めしい。ゼイゼイいいながら登ると斜面に小さな広場が作ってある、墓は小石で丸く囲まれていてすぐ判る。高い墓碑と説 明版があった。
上記説明版に、木櫃のなかに真珠があったという記事が見える。孝徳天皇大化二年( 646)に出されたいわゆる「大化の薄 葬令」(たいかのはくそうれい)という詔(みことのり)がある。派手な葬式をするな、棺に漆を塗るな、殉死は禁ずると 言ったような内容だが、その中に 「珠玉を口に含ませ」という記述がある。この安万侶の火葬骨とともに出土した真珠4個 もおそらくこの風習によったものだろうとされている。
和銅4( 711)年、元明天皇は太安万侶に命じて稗田阿礼が誦むところを一書にまとめさせる。太安万侶は、これを奉じて 古事記を上・中・下の三巻として、和銅5( 712)年に天皇に献上する。太安万侶の太(おお、おほ)という名は、多氏、意 富氏等と同様、新羅系の帰化人で「おほ氏」と呼ばれる一族だろうとされる。「王」氏かもしれない。同じ帰化人の秦氏の 流れとも言う。 「続日本紀」(しょくにほんき)には、慶雲元( 723)年、太朝臣安万侶が霊亀2(716)年氏の長となる、という記事がみえ、 養老7( 723)年死去し、民部卿・従四位下に処せられたとある。「弘仁私記」(こうにんしき)と言う書物には、多朝臣人 長(ひとなが)太安万侶は、「古事記」を書き「日本書紀」の編纂にも参加したとあり、「日本後紀」(にほんこうき)に は、多人長は、高官に日本書紀の講義をしたという記事があるが、「続日本紀」をはじめその他の古記録には、太安万侶が 日本書紀の編纂に参加したという記録はないようである。「続日本紀」には、和銅年間の古事記についての記録もないよう だ。 一説に依れば、太安万侶は古事記の上巻を編纂しただけで、残りを実際に執筆したのは柿本人麻呂という説もあるようだが、 どこまで信憑性があるのかは定かでない。また、古事記「序」に出現する稗田阿礼(ひえだのあれ)という人物は、その名前 がこの序文以外に全く出てこない所から、従来謎の人物とされ、男性か女性かという問題や、その存在自体を怪しむ声もあ る。近年、梅原猛氏が唱えた、「稗田阿礼=藤原不比等」の説はなかなか評価が高いようである。しかし太安万侶自体も、 もしこの墓碑名を書いたものが出現しなかったら、相変わらず非存在説もあっただろうと思うと、稗田阿礼もどこかに眠っ ている可能性もおおいにあるのだ。
「古事記」本文は、周知のように漢字を用いたいわゆる「万葉仮名」と言われる変体漢文体手法で記録されている。日本に はまだ自前の文字がなく、古事記は仕方なく漢字漢文を用いて、伝承された物語を記録しているのである。太安万侶は古事 記序文で、漢文によって伝える事の困難さを指摘し、訓読みだけでなく音読み、あるいは音訓を交え用いるなど、さまざま な工夫をこらしたと説明している。 古来日本で話されてきた「やまとことば」を、太安万侶は漢字・漢文を表記手段として記述したのである。「古事記」とは、 7世紀の日本における、倭語(やまとことば)を、漢字による書記化作業で最初に記述した体系的歴史書と言えるだろう。
いやぁ、降ってきましたなぁ。寒いおもた。ここは寒いんでっせ。あんたもいっぺん入ってみなはれ。 いや、実際死んでみらんとわからんことがぎょうさんおます。死ぬのもなかなかオツなもんですわ。 今夜は久々に稗田の阿礼はんと一杯やりまんね。美人やしなぁ。楽しみや。 養老七年和銅十二月十五日 従四位下勲五等太朝臣安萬侶