Music:  Ariran


和歌山市 2000.12.17 歴史倶楽部第43回例会


	大谷古墳は、和歌山市の真ん中やや北寄りを、東から西に向かって流れる「紀ノ川」の北岸丘陵に位置している。鉄道の最
	寄り駅は、南海本線「紀ノ川」駅。「和歌山市」駅の一駅手前で、各停しか止まらないので、大阪から特急で来る場合、
	「みさき公園」駅で乗り換えるとよい。駅から東へ徒歩10〜15分ほど。古墳は非常にわかりにくい。住宅街の中を抜けてい
	くので、「ほんとにこんな処に古墳があるんかいな?」と思ってしまう。それらしい丘が幾つかあるので目検討で歩いてい
	くととんでもない処へ出てしまう。地元の人に聞きながら探した方がいいだろう。




	古墳に登ると、眺望は素晴らしい。「紀ノ川平野」が眼下に見下ろせる。西には紀ノ川河口が見え、南側には有名な「岩橋
	千塚古墳群」(いわせせんづかこふんぐん)のある岩橋丘陵が見える。岩橋千塚古墳群は「紀」一族の奥津城(おくつき)
	として知られているが、この大谷古墳も、北側の尾根上にあった晒山(さらしやま)古墳群11基の内のひとつである。5
	世紀後半から6世紀後半の約100年に渡り、この古墳群は築造されているが、一番盛んなのは5世紀後半から6世紀前葉
	のようである。大谷古墳自体は5世紀の終わりの築造とされている。

	大谷古墳が有名になったのは何と言ってもその豪華な副葬品の数々だろう。我が国でもここからしか出土していない馬冑
	(うまかぶと:馬にかぶせる兜:その後埼玉の将軍山古墳からも出土して日本で2例目となった。)、馬具・武具に加えて、
	大陸・半島からの影響を強く受けている装飾品の数々。12月始めに福岡八女市の「岩戸山古墳」に行った時、資料館で大谷
	古墳から出土した耳垂飾り(イアリング)とそっくり同じものを見た。同じ民族のグループが、八女と和歌山に別れて渡来
	したのではないかと思った。





 





後円部

生憎の雨だったが、霧雨だったので雨に煙る山塊は幽玄だった。




	大谷古墳は南に下る尾根先端の半独立丘陵上に築かれた前方後円墳で、前方部は南西を向いている。第2次調査によって、
	全長67m、後円部直径30m、前方部端幅48m、後円部の高さ6〜8m、前方部の高さ6〜8mであることが確認され
	た。後円部は正円ではなく、やや主軸方向に長い。前方部の開きはやや均整を欠き、北西隅部がやや突出している。前方部
	前面の裾は直線ではなく、主軸上でやや張り出した、いわゆる剣先状を呈している。後円部には中段を意識した傾斜の緩い
	部分が帯状に巡っているが、前方部ではそういう形跡はない。

	南側くびれ部では東西16m、南北7mのテラス状の平坦地が検出された。この平坦地は岩盤の整形によるもので、埴輪列など
	は検出されなかったが、造りだし的な性格を持つものと思われる。全体に明瞭な墳丘盛り土は確認できず、石棺の位置など
	から見て墳頂部(特に後円部)には若干の盛り土があったが、本来、大部分が岩盤の整形によってつくられたものと考えら
	れる。円筒埴輪列は、第一次調査の際に後円部裾部に円弧状に検出された。このほか南側くびれ部からも多量の円筒埴輪片
	が出土した。原位置を保つものは確認されなかったが、基底部の破片もあり、南側くびれ部にも円筒埴輪列があったと考え
	られる。
	(以下略)
	【後出:和歌山市立博物館「大谷古墳とその遺物」平成12年12月13日発行】より転載。



前方部

 







側道部分

頂上部からは下へ降りれるように石段が作ってあって、ぐるりと古墳の廻りを1周できるようになっている。

 


















和歌山市博物館 −大谷古墳出土品−


	「発掘された日本列島2000年展」を見て、大谷古墳出土品の展示を見たが、例によって「写真撮影禁止」であった。また
	scanerの力を借りよう。

 

上は2000年展に展示されていた本物。下は常設展に展示されているレプリカ。こんなものを付けられて馬もさぞ重かったろう。

 

 

館内は薄暗く、説明の文章もよく見えないほどだ。ちょくちょくこんな展示があるが、どうしてここまで暗くする必要があるのだろう。

 





Scaner博物館


【和歌山市立博物館「大谷古墳とその遺物」平成12年12月13日発行】


馬具・武具








	馬冑は中国大陸・朝鮮半島においても出土例が非常に少ない馬具の一つである。製作が非常に難しい事と、その為に所有者
	が限られる事などが推測されている。現在までに実物の馬冑が出土したところは、韓国の場合加耶を中心とした嶺南地方だ
	けである。東北アジアに実物として存在する15点のうち12点がここにある。早くから騎乗文化が栄えていたと思われる高句
	麗においては、壁画の戦闘図に描かれているので、おそらく常習の用具として用いられていたと推測できるが、未だ出土し
	ていない。騎乗文化の源流地とされる中国東北地方においても、現在のところ「朝陽十二台郷磚廠88M1号墳」出土の馬冑1
	点の出土が報告されているのみである。日本では、大谷古墳と埼玉将軍山古墳の2例があり、これで合計15点となる。
	(1998年に、慶尚南道金海市の杜谷古墳群から1点出土し計16点となった。)

	大韓民国釜慶大学博物館学芸研究士の李尚律(イ・サンニュル)氏は、韓国考古学が専門で、特に三韓時代から三国時代の
	馬具の研究、ならびに同時代の韓国・中国・日本の比較研究をしているが、氏の研究によると、馬冑はA類形とB類形に分
	けられ、A類が加耶系、B類が新羅系とすれば、大谷古墳の馬冑はB類に分類できるそうである。A類は加耶で独自に考案
	され、B類は新羅系ではあるが源流は高句麗にあるのではないかとする。A類は金官加耶勢力の衰退とともに姿を消し、や
	がて新羅の台頭にともなってB類全盛時代を迎えるのだそうだ。だとすれば、大谷古墳、将軍山古墳の馬冑は、新羅系の渡
	来人が日本にもたらしたものと言うことになるのだろうか?


 





 

この他にも、直刀、短刀、鏃、石突きなどが出土しているがいずれも鉄製品でボロボロなので写真は割愛する。



装飾品

 




	上左のイアリング。岩戸山古墳資料館にそっくり同じものがある。その類似性に驚いてしまう。
	大谷古墳から西へ行ったところにある「車駕之古趾(しゃかのこし)古墳」からは、これも日本で此処だけの金の勾玉が出
	土している。(和歌山博物館を参照)



「かばん」! 驚きだ。グッチもルイヴィトンもまっ青。当時超一流の品物だったに違いない。




	これらの副葬品を見ていると、一体どのような一族が、どこから来て、どこでこれらの装飾品を入手したのかと、頭を悩ま
	さずにはいられない。前項で見たように、もし新羅から渡ってきた渡来人の携行品だとすれば、この地に勢力を広げやがて
	「紀州」の名の元になった「紀」氏は、新羅系という事になる。






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