木津から加茂へ来て、加茂で30分も電車(ディーゼル)を待った。日曜日は1時間に1本しか電車が来ない。月ヶ瀬に梅 を見に来て、ついでに「尾山代遺跡」も見ようと言う本日の散策。梅を見た後は加茂へ戻って「恭仁京(くにきょう)跡」 を見るつもりだ。この時期、月ヶ瀬口から三重交通の「観梅バス」が臨時で運行している。月ヶ瀬カントリークラブの脇を 通って10分くらいで「高山ダム」が遠望できる観梅村の駐車場に着いた。すぐ側に「尾山代遺跡」がある。
【尾山代遺跡】(おやみでいせき) (1987年3月 県史跡指定) 尾山代遺跡は、昭和60年、大和高原パイロット事業の耕地造成中に発見された古代の集落(邑:むら)跡である。奈良時 代前半から平安時代の中期・終末期(8世紀〜12世紀)まで続いていた。邑は、北風を避けて、日当たりのよい山の南斜 面に、3段に宅地造成をして作られていた。上段に地面を掘り込んで作った竪穴式住居と、カマドをつくりつけた作業小屋、 中段にはいく度か建て替えられたやや大きな掘建て柱建物と、食料を貯蔵した穴(土壙)が見つかっている。また、下段に もごみを捨てた穴や、建物の柱穴、抗列が残っており、ここから食器として使われた土器類(須恵器、土師器)や、漁網の おもり、鍛冶の道具や小刀・釘などが出土した。住居内で小鍛冶をしていたと考えられる。雨乞いなどに使われたと思われ る土馬もみられた。土器の中には「美濃」という刻印を押したものがある。これは現在の岐阜県で作られ、奈良の都に調 (税)として納められたことを示すものである。 このような土器を持っていたこの邑は、平城京や大安寺などに木材を納めていた杣(そま)を管理した集落の1部と考えら れる。奈良時代の杣人(そまびと)の暮らし振りを偲ぶ遺跡である。
【月ケ瀬村(つきがせむら)】 <地域の歴史・沿革・由来・風土等> 月ケ瀬村の歴史は古く、奈良〜平安時代まで遡ることができる。その時代には興福寺の杣集落として都と関係が持たれいた と推測され、尾山代遺跡が残されている。 鎌倉・室町時代には、南都諸大寺の勢力が衰えて、土豪の勢力が優勢になり、この地域を治めるようになると、山や丘陵部 に土塁や堀をめぐらし城が築かれるようになる。この時代に築かれたのが、石打城、乙若城、城山である。また、梅が植え られたのもこの時代であり、次のように伝えられている。
1205年(元久2年)、菅原道真を尾山の産土神として真福寺境内に祭祀して天神社と呼び、その神霊を慰める意味で道 真の好んだ梅が植栽された。1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が笠置から落ち延びられたおり、女官たちの一群が月ケ 瀬方面に逃げてこられ、その一人、姫若が園生の森あたりに寓居された。この時、熟した梅の実をみて京の都での紅染用の 「鳥梅」の製法を教えられたという伝承がある。これより100年たった宝徳年間には、村内はもとより、伊賀国予野・治 田、山城国高尾・田山など、五月川流域一帯が梅林で埋め尽くされたと伝えられている。
江戸時代になり、石打、尾山、長引、月瀬、桃香野の名前が郡山藩の知行割帳に見られるようになる。月ケ瀬村の主幹産業 の茶の栽培が行われ始めたのは、江戸時代の前半で、大阪にも出荷されたと伝えられている。梅については、江戸時代の末 期に「鳥梅」の収益が米・麦の数倍になったので、梅の植栽と栽培に力が注がれ、樹下にはワサビが栽培された。
また、この頃より月ケ瀬梅渓の名声はしだいに遠方まで知れわたり、伊勢山田の学者韓聨玉、斉藤拙堂、頼山陽などが詩や 文に発表してから観光地として栄え始めた。また、梅に関した書画が多く残されることとなった。近代になり、明治4年の 廃藩置県によって郡山県、続いて奈良県に編入された後、明治9年に境県、14年に大阪府、20年に再び奈良県に所管が 移った。明治22年には石打、尾山、長引、月ノ瀬、桃香野の5ケ村が合併して添上郡月瀬村が誕生し、さらに明治30年 には波多野村大字嵩を編入して村域が確定した。奈良県下では、戦後に市町村合併が進んだが、月ケ瀬村のみが添上郡にと どまり、現在では一郡一村となっている。昭和43年1月に、村名を「月瀬村」から「月ケ瀬村」へと改め、今日に至って いる。(月ヶ瀬村ホームページより)