Music:  Eleanor Rigby
標津遺跡群 2000.11.5 北海道標津町




	■釧路から標津方面を目指して走っている時、突然目の前に現れた、雪をいただいた山脈。一瞬垣間見えてまた雲の中に消
	えてしまった。





ポー川史跡自然公園


	■ポー川史跡自然公園
	標津の歴史的資料を一括してまとめてあるのがこのポー川史跡自然公園だ。入園料を払い中へ入るとすぐ左手に歴史民俗資
	料館があり、標津開拓時代の資料が展示されているほか、資料館の廻りには開拓時代の農家、学校、番屋などが整備され立
	ち並んでいる。
	学校の裏から標津湿原を抜けて行く木道があり、広い湿原を渡りきった所に伊茶仁カリカリウス遺跡がある。 7000年前から
	の竪穴式住居跡がどこまでも延々と続いていた場所で、そのうちの一部が復元され展示されている。
	また、「ここは湿原から一段登った台地の上にあり、湿原、オホーツク海を望むことができます」と説明にあったが、あい
	にく曇っていたせいか海は見えなかった。この遺跡に人が住んでいた時代はポー川を多くの鮭が遡上していたらしいし、此
	の辺りまで海岸が押し寄せていて結構漁労も盛んだったのかも知れない。
	遺跡のある周辺は雑木林に覆われており、熊も時々出没するようだ。その時は、この遺跡は立ち入り禁止になり、湿原途中
	までしか行けないこともあるそうでなので、事前に管理事務所に問い合わせた方がいいだろう。



	■標津町ポー川史跡自然公園は、伊茶仁カリカリウス遺跡、天然記念物標津湿原を合わせて 542haの指定地だ。標津町歴史
	民俗資料館と開拓村がある。縄文時代からの歴史を物語る1500の竪穴住居跡群、愛らしい花を咲かせる湿原植物、町の歴史
	を物語る各種建物、番屋、小学校、農家などを再現した開拓村から構成されていて、全域は広大である。資料館のある所か
	ら、湿原に架けられた木橋を渡って史跡までいって、また戻ってくるのに小一時間はかかるだろう。下左の写真で左に見え
	ている三角錐の建物が資料館。普段は誰も来ないのか、我々が入園圏を買った時窓口にいた女の子が、走って電気を点けに
	行った。

 



 

 


	■そんなに夕方でもなかったのだが逆光だったからだろう、まるで「暮れていく標津湿原」という趣になってしまった。
	あいにく季節柄湿原の草花は枯れてしまっていたが、おそらく6月頃に訪問したら花盛りなのに違いない。パンフにもそう
	ある。






北方古代民族が往来した里 


	■標津(しべつ)遺跡群は北海道の標津に広がる古代遺跡の総称で、その数は 150ヶ所にのぼる。7000年前に始まる道東の
	縄文文化、鉄器を使い始めた続縄文文化、3世紀に台頭したオホーツクの海洋文化、6世紀から栄えた森林の擦文文化と、
	多数の文化が栄えたこの遺跡は、13世紀頃からのアイヌ文化の拠点地ともなった。標津は北海道を往来した民族文化を一挙
	に見ることができる、北辺古代のロマンの里である。同時に、クマをはじめとする野生動物の里でもある。




	■蛇行して湿原を流れる「ポー川」。下の解説にもあるが「ポー」なんて一体どんな意味があるのだろうか。アイヌ言語は
	古代日本語を一番残しているのではないかと梅原猛氏は言っている。



 


	■遺跡めぐりをしていてこんな看板にお目に掛かったのは初めてだ。さすがに北海道である。WIFEと娘は「早く戻ろう」と
	足早に進む。



豊かな森林と共生した文化


	■「注目すべきは擦文文化とオホーツク文化の融合したトビニタイ文化だ。鮭が遡上する原始河川・ポー川流域の原始林に
	入ると、200 棟もの住居跡からなる伊茶仁(いちゃに)カリカリウス遺跡がある。毎年6月頃になると、ヒカリゴケが、復
	元された古代住居に放つ、神秘的な青い輝きが印象的だ。」と解説文にある。6月頃来てみたいものだ。



 

 




	■竪穴や住居跡は多くが草に覆われて殆ど見えない。これらを取り巻くようにして板の歩道が作ってあり、要所要所に案内
	が立っている。

 

 




標津町歴史民俗資料館

 

 

  







 

 

 

 

謎の擦文文化人


	■豊かな北方の森林や河川に鳥獣や川魚を追って生活していた擦文文化人は、朝顔形の口縁にヘラで描いた文様を施す独自
	の土器を使用していた。擦文文化人の出自は謎につつまれたままだが、大自然の中の遺跡を巡ると、遠くシベリアの針葉樹
	林文化圏につながる文化が甦るようだ。オホーツク文化人もそうだが、これらの民族は、本土と同じ形質を持つ縄文人達と
	は違った民族だったに違いない。即ち、北海道にも原日本人と呼ばれる縄文人と、北方から南下してきた民族が共存してい
	たと推定できる。そしてやがて混血・融合し今日アイヌと呼ばれる人々の根幹をなしたと考えられる。

 

  





	■北海道標津郡標津町字伊茶仁2784番地  「標津町ポー川史跡自然公園」  01538-2-3674
	 開園期間: 4月29日−11月23日(期間中無休)    開園時間: 午前9時−午後4時30分
	 入園料: 一般 310円  高大生 100円 小中生 無料






■北海道は特異な地域である。沖縄と並んで本土の影響が近年になるまで及ばなかった地域だ。
勿論部分的には江戸幕府や薩摩藩の影響が及んでいるところもあるが、基本的には明治政府が本格的に開発を目論むまでは、特に北海道は未開の地だった。本土との時代編年表を見て貰えばわかると思うが、北海道には弥生時代・古墳時代がない。それに続く武士の時代もない。稲作が入ってこなかった北海道では、縄文時代が終わってもそのまま縄文時代が続く。本土で特に西日本において、渡来人達が環濠を伴う弥生のムラを築き、それに続いて騎馬集団が近畿を中心に古墳を築いていた時代に、北海道では牧歌的な採集・狩猟の時代が続いていたのである。この時代を縄文時代に続くという意味で「続縄文時代」と呼ぶ。
その後「擦文時代」と呼ばれる縄文時代の発展・高度化した社会が展開し、やがて北海道の北東から南東部にかけて一大文化圏を構築する「オホ−ツク文化時代」が到来する。これらの文化を構成した民族は、遠くシベリア辺りからサハリンを経由して北海道へ渡ってきた民族だったに違いない。そして、本土に渡来人が大量に移入してくる前から日本列島にいた「縄文人」達と混血し、やがてアイヌ民族の祖となったのではないかと私は推測している。
当然ながら、日本全土の縄文人達も単一の民族だった可能性は少ない。北九州と北海道ではおそらく混血する元々の旧石器時代民族が違う(地理的にはシベリア・サハリン等の北方モンゴロイドと、朝鮮南部・中国北東部の南方モンドロイド)だろうし、地理的環境の違いによる生活習慣の違いは、長期に渡って縄文人達の形質を変化させてきたはずだ。
しかしながらその違いは、本土における渡来人と縄文人達が行った混血の結果生まれた、いわば「新日本人」達ほどには「差」がないと思う。
渡来人達の影響は現代日本人達の遺伝的形質に如実に現れており、現代人の多くは「弥生人」の遺伝的特徴をそなえていて「縄文人」的特質を持った人々は少ない。
DNA鑑定によると、日本で一番朝鮮人に近い遺伝子を持った人々は近畿に集中している。西日本を中心として、山陰・中国・四国・九州地方の一部にもそのDNAは現存しているが、これは明らかに、大和朝廷の黎明期に、その根幹を築いた集団が朝鮮からの移入民族で、その周辺の人々も多くが近畿圏に居住したことを示す明らかな証拠なのである。

これとは独立して北海道では、本土が「足利幕府」になった頃からいわゆる「アイヌ文化」時代の幕開けとなる。そしてその文化は延々と続き、明治政府による北海道開拓が開始されるまで数百年に渡って北海道の文化を代表する事になる。
私の考えでは、これらアイヌの人々こそ「原日本人」即ち「縄文人」の形質を、色濃く受け継いだ人々なのではないかと思う。本土においては、弥生人達の遺伝子が縄文人と混ざり、次第に縄文色が薄くなっていく中で、北海道は脈々と縄文人の血を継続してきたのだと思う。この考えは、今までにも先学が提唱してはその都度、否定されたり肯定されたりしながら、今日に至っても未だ結論には至っていないが、最近の遺伝子学・人類学における研究を見てもその可能性は濃厚である。


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