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高知県香美郡土佐山田町



		龍河洞遺跡
	龍河洞は、地質学上三宝山層群と呼ばれる中生界三畳系〜ジュラ系に属する地層の石灰岩中に形成されている。今から約2
	億年前から始まったこの時代には、海底のサンゴ類やアンモナイトの仲間が生息していたが、これら海中生物体内のカルシ
	ウム分が沈殿・堆積して、この層の石灰岩が形成されたと見られている。約一億年前から始まった佐川造山運動以来、海中
	から隆起した日本列島の中で、今から2千万年前〜3千年前にこの層が陸地になったと考えられる。
	「上龍河」の炭酸を含んだ水は石灰岩の割れ目から侵入し、少しずつ浸食して数万年の間に石灰岩層を貫き流れて、やがて
	この大鍾乳洞を形成した。その浸食活動は現在も尚続行中である。

	現在日本に鍾乳洞を形成している洞窟は、大小とりまぜて約1000ケ所ほどあるらしい。大規模なものは山口県の秋吉台
	のように観光地化され、廻りの景勝地や温泉などとパックにされ多くの観光客を集めている。この鍾乳洞も観光地化され、
	駐車場から鍾乳洞への道の両側は土産物屋が建ち並んでいる。しかし、ここが他の鍾乳洞と違う点で注目を集めたのは昭和
	6年のことである。地元の中学教諭であった山内浩、松井正実両氏は、それまで洞窟内の難所と言われていた「記念の滝」
	の崖を登ることに成功した。そして洞窟内を突き進んで、出口付近に弥生遺跡を発見したのである。弥生式土器を発見した
	二人は直ちに保存会を結成し、やがて本格的な発掘調査が数次に渡って行われ、ここが弥生時代中期の住居跡であることが
	明らかになった。

 

		
	この日はすこぶる寒く、徳山道から高知道へ入って山間部に差し掛かると雪が降っていた。宮崎君はチェーンを持ってきて
	いないと心配していたが、峠を越えて龍河洞へ降りてくる頃には雪も止み、寒さも和らいでいた。



		
	一般に弥生時代と言えば人々の生活は、それまでの採集・狩猟生活から稲作へ移行した画期として知られている。しかしこ
	こではまだ洞穴に住み、動物を追いかけて暮らしていた人々がいたのである。文部省、東京大学、京都大学等々による調査
	の結果、鍾乳洞の内部には、居間、台所、貯蔵庫などの用途に別れて3つの部屋が存在し、炉の跡もあって食料となった動
	物の骨も多数発見された。

 

 





上が龍河洞の上部。この下に鍾乳洞が延々4kmに渡って続いている。(現在歩いて見れるのは、入り口から1kmほどのみ。)



	
	今からおよそ780年前、承久の乱(1221)で土佐に流された土御門上皇(83代)が、この鍾乳洞の噂を聞き入洞した。そ
	の時小さな白い蛇が道案内をしたというので、上皇は案内した里人に剣と玉を与え、この蛇の霊を祀るように指示した。そ
	れが鍾乳洞入り口にある「龍王神社」である。また、この時上皇が乗ってきた駕籠を「龍駕(りゅうが)」といい、転じて
	「龍河洞」という名前になったと伝わる。



洞窟内はフラッシュを焚いても光線の関係からか、あまり旨く写っていなかった。鮮明な写真はガイドブックからの転載である。

 

 



 

 

		
	洞窟内は狭く道も細い。体が壁を擦ったりするので、あまり上等の服は着ていかないほうがいい。いずこも同じだが、鍾乳
	洞内の奇観には感心する。この洞窟の形成期間は1億7千年との事だが、その経過は想像も出来ない。洞窟の所々に、オバ
	サンが椅子に座って観光客を待っており、来たら、やおら説明を始める。客が居るからいいけれど、誰も来ないときは怖く
	ないんかなぁと心配してしまう。





 

	
	二人の先生はこの滝をよじ登ってその先に弥生遺跡を発見した。発見者の山内浩氏は、その後愛媛大学の教授になり、洞穴
	探検を続け、「日本ケイビング協会」の初代会長になった。

 





ここから先が弥生遺跡である。出口に近いからかそれまでのような湿気は少ない。そうでなければとても居住は出来まい。

 

	
	これが有名な「神の壷」である。弥生人がおそらくは水を汲むのに用い、ここに置き忘れた長頸壷型土器であるが、その3
	分の1が石灰華に覆われて残っている。石灰華に覆われた土器の発見は世界でもここだけで、学術的にも貴重であり、当時
	地元の土佐山田町では「龍河洞第一の宝」として「神の壷」と命名した。





	
	3つに別れていた第一室には火を使った木炭層の跡があり、土器や鉄製品(やじり)などが発見された。弥生時代の遺跡か
	ら鉄製品が発見されるのは非常に珍しい。第二室には炉や、日用品を置いた岩棚がある。棚に乗せられていた壷が鍾乳石に
	取り込まれたのが「神の壷」である。第三室からは鳥、獣等の骨や貝殻が発見された。遺跡からは、龍河洞式とも呼ばれる
	シンプルな甕や壷、高坏形や蓋形の土器、メノウの勾玉や骨製の管玉、骨角製品の装身具なども発見された。山でとれる鳥
	獣の狩猟具のほかに漁労具も発見され、淡水貝、マイマイ類のほかに、海草や海の貝も食料としていた事がわかった。この
	洞窟から海へ行くには、川を下って土佐湾へ出るしかないが、或いは海沿いの人々が山の獣との交換に持ってきたのかもし
	れない。また、谷の湧水地を利用して部分的な稲作も行っていたのではないかという観測もある。



上の写真の上部左側に土器片が残っている。

 



 

	
	フラッシュを焚いたのだがそれでもこれだけしか写らなかった。黒く写っている部分が平坦なところで、ここに弥生人達は
	寝起きしていたようだ。すぐ側に鍾乳洞の出口があり、ここから光も入ってくる。

	私見では、縄文人も弥生人も、もしかしたら古墳時代に入っても、こういう洞窟で生活していた人々は結構居たのではない
	かと思っている。弥生時代中期頃までは、稲作に従事できた人々のほうがむしろ少ないのではないだろうか。沼地や海岸べ
	りに住んでいた人々が稲作に向かうのは理解できるが、1万年に及ぶ生活の殆どを山中ですごした縄文人達が、俄に低地へ
	降りてきてコメを造り出すにはきっかけが必要である。貴重なコメを、初期稲作人達が、気前よくみんなに恵んでいたとは
	思えないし、弥生・古墳人達も、コメを造っている連中を横目で見て、なかなか低地・湿地帯へ降りてくるきっかけが掴め
	なかった集団も居たはずである。長い歴史の中では、それこそアッという間に伝播していった稲作だが、その恩恵にあずか
	れなかった連中もいたはずだ。遺跡の数からシュミレートする縄文人・弥生人の人口がどう見ても少ないのは、おそらくこ
	ういうまだ発見されていない山中の遺跡が、もうそれとはわからなくなってしまっているかもしれないが、相当数あったの
	だろうと思われる。

 

 



	
	この鍾乳洞全体は「三宝山」という山である。海抜322mという低山なので、2000年前は土佐湾はもっと内陸部まで
	侵入していたかもしれず、そうなると、この龍河洞住居もそんなに山中ではなく結構便利な位置関係にあった可能性もある。

 

 

 










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