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斎宮跡・三重県多気郡明和町 2000.11.23 郷土の文化財を訪ねる会
& 2003.6.8 第73回歴史倶楽部例会







初代は大来皇女、
武家社会の到来とともに幕



	元々の起源は相当古そうであるが、記録に残る斎王(さいおう)制度は天武天皇の時代から始まった。南北朝時代まで約
	660年間続き、大津皇子の姉・大来皇女(おおくのひめみこ)を初代に60余名の斎王が伊勢へと赴いている。斎王は未婚
	の皇女に限られ、ト定(ぼくじょう)という亀の甲羅を焼く占いの方法で選ばれたという。斎王は選ばれると、都で3年の
	潔斎の後、斎王に仕える官人・官女ら約500人の供まわりを連れ、5泊6日の行程で伊勢へと郡行した。中には選ばれた
	とき2才だった幼女や、群行時32才の斎王もいた。天皇の譲位、崩御、近親者の喪に際して任を解かれ、大体任期は10年
	未満だった。
	斎王の最も重要な務めは伊勢神宮の三節祭り(6・12月の月次祭(つきよみさい)、9月の神嘗祭(かんなめさい))への奉
	仕。20km離れた神宮(伊勢神宮:正式には伊勢神宮は神宮と呼ぶ)へ1泊がかりで赴いた。普段の生活は祈りの日々を過ご
	し、また和歌を詠んだり、貝会わせのゲームに興じ、宮廷のような生活が営まれていたらしい。最も華やかだったのは平安
	時代で、「伊勢物語」「源氏物語」などの平安文学に登場。伊勢物語では主人公と斎王とのロマンスが描かれ、題名の由来
	にもなったとされている。
	その斎王制度も承久の乱の後、斎王の不在期間が多くなり、南北朝動乱の中で終わりを迎えている。武家社会の到来ととも
	にその歴史を閉じたのである。


	明和町では、毎年6月の第一土曜・日曜に「斎王まつり」を開催している。前夜祭に始まって、斎王群行や各種アトラクシ
	ョン、<明和町大淀>で行ったといわれる禊(みそぎ)の再現など、いにしえの雰囲気たっぷりの催しである。着飾った斎
	王にかしずく女官達や公達。きらびやかに着飾った斎王には、在原業平(ありわらのなりひら)でなくともほのかな恋心を
	抱いてしまいそうである。


写真掲載許可済 (c)斎王まつり実行委員会事務局
〒515-0321三重県多気郡明和町大字斎宮2811 TEL.0596-52-0054 E-mail: saioh@synapse.co.jp



竹神社


	この神社はもと竹川に所在した郷社で、明治40年以降周辺の諸社を合祀し、明治44年に斎宮神社(もと野々宮)を合祀して
	現在地に移転した。延喜式神名帳多気郡に「竹神社」とあるが、この神社なのかは確定していない。しかしながら、他に候
	補地もないことから、ここが古代の斎宮への入り口で、斎宮に住む人々が安全息災を祈願した、いにしえの竹神社なのだろ
	う。

 

 




	ここが幻の斎宮跡と調査の手が着けられたのは、制度がなくなって約700年たった昭和45年(1970)からである。東西約2km、
	南約0.7kmの約137haが国の史跡に指定され、発掘調査が進められている。そこからは、掘立柱建物、土馬、墨書土器などの
	遺構、遺物が見つかった。広大な上に一部旧参宮街道に面して住宅街も含まれるため、調査は14%ほどが済んだだけである。
	全体の調査が完了するには後200年位かかるのではないかと言われている。

 

発掘後は埋め戻され、また昔の畑や田圃に戻った。







 



 


	選ばれた斎王

	斎王制度の概要は、平安時代に編纂された法令集『延喜式』により知ることができる。これによれば、斎王は、天皇が即位
	すると未婚の内親王(または女王)の中から、卜定(ぼくじょう)と言う占いの儀式で選ばれた。斎王になると、宮中に定
	められた初斎院(しょさいいん)に入り、翌年の秋に都郊外の嵐山・野宮(ののみや)に移り潔斎の日々を送り身を清め、
	翌年9月に、伊勢神宮の神嘗祭(かんなめのまつり)に合わせて都を旅立った。出発日の朝、斎王は野宮を出て葛野川(現
	在の桂川)で禊(みそぎ)を行い、大極殿での発遣の儀式に臨む。大極殿で天皇は、斎王の額髪に小さな櫛を挿し、「都の
	方におもむきたもうな」と告げる。この儀礼は、発遣儀式のクライマックスともいうべきもので、平安文学の中では「別れ
	のお櫛」という名で呼ばれている。【斎宮博物館案内パンフより】

 

 

 


	発掘でよみがえった斎宮

	昭和45年(1970)、現在博物館の建つ古里地区(ふるさとちく)で発掘調査が行われ、長い間埋もれていた斎宮が再びその
	姿を現した。これまでの調査の結果、斎宮では、奈良時代後期になると史跡東部で、区画道路により碁盤目状に区切られた
	方格地割(ほうかくちわり)が造営され、建物が整然と建ち並んでいたことが判明している。この地割は、約 120メートル
	四方の区画が東西7列・南北4列並んで構成されるという大規模なものだった。【斎宮博物館案内パンフより】



 




	寮内でのまつり

	斎宮では、斎王自身が清らかであることはもちろん、寮の官人および寮内各所が常に清浄であることが求められ、都に準じ
	た様々なまつりや年中行事が行われた。宮域内各所から土馬(素焼きの馬)や人面墨書土器(人の顔を墨で描いた土器)、
	ミニチュア土器など、まつりに用いられたと考えられる遺物が出土している。【斎宮博物館案内パンフより】

 

 


	一帯は芝生が広がる史跡公園として整備されている。「斎王の森」は斎王の御殿があった場所と伝承されてきた。近くには
	掘立柱建物跡と井戸跡の遺構があり、斎王の森の前で初夏、ハナショウブが美しく咲く。発掘による出土品や斎宮に関する
	資料は、斎宮歴史博物館に保存・展示されている。








2003.6.8 歴史倶楽部第73回例会


	今日と明日、ここ明和町では「斎王祭りが開催されている。どこでやっているのかはわからなかったが、斎宮博物館を探し
	てウロウロしている時、見たかったハナショウブの群生地に迷い込んだ。ここにあった地図で博物館の位置はわかったが、
	駐車場、道路も車の洪水で、我々も博物館からだいぶ離れた道路の脇に駐車する事になった。









斎王まつり

斎宮博物館が斎王祭りのメイン会場だった。博物館に入って5分ほどしたら「斎王行列が来まぁす。」というアナウンスで表に出た。



西本さんが「斎王と一緒に撮って」と言ったので撮したが、お供の者がジャまくっている。それにこのお姉さんは斎王じゃなかった。





でも綺麗で可愛いねぇ。西本さんじゃなくとも、私も一緒に写りたいよぉ。









こちらが「斎王」。でもさすがに「かしこきあたりの人」はニコッと笑ったりしない。

 







 



 



全員で記念撮影。皆さん斎宮跡ははじめてだそうだ。ここで今回の例会も最後である。後は一路大阪へ。お疲れ様でした。







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